「硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言〜」2024-12-13

2024年12月13日 當山日出夫

時をかけるテレビ 硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言〜

二〇〇六年に放送の、NHKスペシャル。

硫黄島については、いろいろと語られることの多い、太平洋戦争の激戦地である。

始まりはアメリカにある硫黄島に星条旗を立てる記念像からであった。硫黄島の激戦が、いまだにアメリカ軍にとって語りつたえられている歴史的な戦闘であったことになる。(たしか私の知っている範囲だと、この場面の写真は後から撮ったヤラセ写真、曰く因縁のある写真だったかと思うのだが、どうだったろうか。どうでもいいことだが、昔、テレビで映画『ランボー』を放送していたとき、地元の州兵がこれを真似て写真を撮ろうとするシーンがあって、そんなものなのかなあと思ったことを憶えている。)

『散るぞ悲しき』(梯久美子)は買って持っている。

はじめの方で、生還者の老人が、毎朝、仏壇に氷をいれた冷たい水を供える場面があった。兵士は戦友のために戦うものである、ということが実感される。

だが、実際に硫黄島で生きのびた兵士たちを待っていたのは、戦友のために戦うというような生やさしいものではなかった。組織的に戦闘を継続することができなくなって後、アメリカ軍に投降することもできず、かといって、自ら自決することもできず、さりとて、敵陣に切り込んでいくこともできず……はっきりいえば、ただ耐えて死を待つだけ、という状況であった。これは、肉体的にのみならず、精神的にも、極限の状況であったというべきである。(番組のなかでは言っていなかったが、適切な言い方が思いうかばないのだが、精神的なダメージで錯乱状態で死んでしまったという例もあったろうと、推測される。)

一方のアメリカ軍としても、今から思えば、そこまでやらなくてもいいのにと、いうほどの残虐な(としかいいようがないが)で、日本兵を掃討しようとしていた。日本兵のいる地下壕に海水を注ぎ込んで、そこにガソリンを流して、火をつける。(これは現在の価値観では考えつかないことになる。だが、それが戦争、戦場というものなのであろう。)

なぜ、アメリカ軍は、硫黄島を放っておかなかったのだろうか。制空権、制海権は完全にアメリカ側にあったはずだが。太平洋、南シナ海の島では、放置された日本兵が補給をたたれて、無残に餓死していったということがある。このあたりは、日本の参謀本部の判断、栗林中将の判断、それから、アメリカ軍の判断、これらの結果ということになるのだろう。硫黄島の戦いを戦史として、どう位置づけることになるのか、これはその専門家の仕事ではある。

戦争にもルールがある。これは、イスラエルとガザの戦闘について、グテーレス国連事務総長の言ったことである。硫黄島での戦闘は、戦争のルールからかなり逸脱したものであったと考えていいのかもしれない。これを、視点を変えていえば、硫黄島守備隊の善戦ということになってしまうのかもしれないが。

ところで、生きて虜囚の辱めを受けず……戦陣訓の有名な一部である。かなり前になるが、興味があってこれがネット上で見られないかと探してみたことがある。そのころ、まったく画像がヒットすることはなかった。このとき、ネットオークションで見つけて買ったものを持っている。そう高いものではなかった。

だが、これも、今では、いくつかの画像データとして見ることができる。

また、調べてみると、番組の最後に出てきた秋草鶴次の本は今では売っていない。Kindle版もない。

番組は二〇〇六年のものであるが、この時には、まだ取材して証言を得ることができた。見たかぎりの印象では、特に誇張も感じられない冷静な話しぶりが多かった。

「硫黄島」の詠み方は、現代の日本では「いおうとう」である。アメリカは、「いおうじま」と言う。番組の中に出てきた生存者は「いおうじま」と言っていた。

2024年12月10日記

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