100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (3)理性は薔薇(ばら)で踊りだす」 ― 2025-03-25
2025年3月25日 當山日出夫
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (3)理性は薔薇(ばら)で踊りだす
斎藤幸平の言っていることは、ちょっとずるいというか、ごまかしがある。(そして、本人は、そのことに気づいているが、だまっている。)
福島産のものを食べたくないというのは、科学として安全であるという証拠をしめされても、それでは納得しない経験があるからだという。たしか、そういうことはあるだろう。だが、それだけではない。
今の時代において、福島産を忌避する意識や、そのように発言している人たちにあるのは、自分たちの言っていることこそが正しいのだという、これもまた一つの啓蒙である。
福島産のものを食べる、食べない、ということを言うのならば、科学的データがそうであっても食べない人の考えることと、科学的データを信じ、同時に、福島産への思いがあって、それを選ぶ人もいる、この両方の立場や考え方に配慮するものでなければならない。
またこうも言えよう、福島産を食べないというのも信仰であるならば、それを食べたいと思うのも、また信仰である、と。
この問題は、啓蒙か信仰か、という議論では論じることができない問題なのであって、それを、無理に話題にもってくることはないのである。自分の都合のいいように、どうにでも語ることができる。これをヘーゲルをつかって、自分の主張を言う場面ではない。
今日では、18世紀から19世紀、あるいは、20世紀にかけての啓蒙的な思想の問題点はいろいろと指摘されているところであり、語るならば、思想史のなかに、ヘーゲルの考えたことをどう位置づけるのか、それが、現代ではどういう意味があるのか、ということであるべきだろう。
いわゆるリベラルという立場の主張は、自分たちの主張が正しいのは、正しいから正しいのであるという同義反復の範囲を出ない。あるいは、海外の最新の思想ではこうなっているから、それにしたがえばこうである。日本は遅れている。ここには、自分とは異なる意見をもつ人の背景にあるものへの想像力が欠如している。これこそ、啓蒙の限界であったはずである。
なお、番組の始めで、伊集院光が言っていたことについて、私が昔から思っていることを書いておくと、伝統的な知や芸というものは、その教授法、学習法をふくめてなりたっているものである。その教授法が変わるならば、それは本質的な何かが変化することでもある。
教授法、学習法をふくめて知や芸ということを考える必要は、まさに、現代のAIとどうつきあうかという時代になって、重要な論点になってきていると思う。
2025年3月20日記
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (3)理性は薔薇(ばら)で踊りだす
斎藤幸平の言っていることは、ちょっとずるいというか、ごまかしがある。(そして、本人は、そのことに気づいているが、だまっている。)
福島産のものを食べたくないというのは、科学として安全であるという証拠をしめされても、それでは納得しない経験があるからだという。たしか、そういうことはあるだろう。だが、それだけではない。
今の時代において、福島産を忌避する意識や、そのように発言している人たちにあるのは、自分たちの言っていることこそが正しいのだという、これもまた一つの啓蒙である。
福島産のものを食べる、食べない、ということを言うのならば、科学的データがそうであっても食べない人の考えることと、科学的データを信じ、同時に、福島産への思いがあって、それを選ぶ人もいる、この両方の立場や考え方に配慮するものでなければならない。
またこうも言えよう、福島産を食べないというのも信仰であるならば、それを食べたいと思うのも、また信仰である、と。
この問題は、啓蒙か信仰か、という議論では論じることができない問題なのであって、それを、無理に話題にもってくることはないのである。自分の都合のいいように、どうにでも語ることができる。これをヘーゲルをつかって、自分の主張を言う場面ではない。
今日では、18世紀から19世紀、あるいは、20世紀にかけての啓蒙的な思想の問題点はいろいろと指摘されているところであり、語るならば、思想史のなかに、ヘーゲルの考えたことをどう位置づけるのか、それが、現代ではどういう意味があるのか、ということであるべきだろう。
いわゆるリベラルという立場の主張は、自分たちの主張が正しいのは、正しいから正しいのであるという同義反復の範囲を出ない。あるいは、海外の最新の思想ではこうなっているから、それにしたがえばこうである。日本は遅れている。ここには、自分とは異なる意見をもつ人の背景にあるものへの想像力が欠如している。これこそ、啓蒙の限界であったはずである。
なお、番組の始めで、伊集院光が言っていたことについて、私が昔から思っていることを書いておくと、伝統的な知や芸というものは、その教授法、学習法をふくめてなりたっているものである。その教授法が変わるならば、それは本質的な何かが変化することでもある。
教授法、学習法をふくめて知や芸ということを考える必要は、まさに、現代のAIとどうつきあうかという時代になって、重要な論点になってきていると思う。
2025年3月20日記
所さん!事件ですよ「コーヒー高騰は悪魔の仕業!?」 ― 2025-03-25
2025年3月25日 當山日出夫
所さん!事件ですよ コーヒー高騰は悪魔の仕業!?
テレビのHDにあったので、見た。
中国の雲南でのコーヒー栽培については、「Asia Insight」でもあつかっていたかと思うので、おそらく同時期に取材した内容をつかっている部分があるだろう。
ベトナムがコーヒーの巨大産地であることは知らなかった。そのベトナムで、コーヒー栽培から、ドリアンに転作しているという。ドリアンの方が、儲かるからである。ベトナムには、ドリアン御殿がある。
ベトナムのドリアンが、どうなるかというと中国に輸出される。世界で、最大のドリアン消費国が中国であるというのも、知らなかった。
その中国で、近年、コーヒーの産地として注目をあつめているのが、雲南ということになる。スターバックスのボスが、直接やってくるぐらいである。雲南にはコーヒー御殿が出来ている。
コーヒーのいれかたもいろいろだが、私の学生のころ(今から半世紀ほど前になるが)、街には多くのコーヒー店(喫茶店)があった。その多くの店では、サイフォンでいれるコーヒーだった。もう、こういう店はなくなってしまったようである。(しばらく前、朝ドラの『ちゅらさん』の再放送で、アパートの管理人さんが、サイフォンでコーヒーをいれていたので、なつかしく思い出した。)
それ以外は、ネルドリップ方式だった。それ以前の昔からの喫茶店としては。今でも残っている喫茶店の多くは、この方式かもしれない。
最近の店だと、ペーパーフィルターをつかう、ハンドドリップ方式が主流になる。これが、外国人観光客に人気とは知らなかった。
世界的にコーヒーの価格は上がっている。主な原因は、気候変動による干魃ということだが、これは、どうしようもないことかもしれない。また、世界的に、生活のスタイルが変わってきて、コーヒーの需要がたかまっているということもあるだろう。
ところで、私の個人的な好み、感想であるが……スターバックスのコーヒーをおいしいと思ったことがない。おいしいコーヒーをゆっくり座って、じっくり味わう、という店の作りになっていない。店の設計が、そういうアーキテクチャーになっている。昔ながらの喫茶店のコーヒーを懐かしく思う。
2025年3月21日記
所さん!事件ですよ コーヒー高騰は悪魔の仕業!?
テレビのHDにあったので、見た。
中国の雲南でのコーヒー栽培については、「Asia Insight」でもあつかっていたかと思うので、おそらく同時期に取材した内容をつかっている部分があるだろう。
ベトナムがコーヒーの巨大産地であることは知らなかった。そのベトナムで、コーヒー栽培から、ドリアンに転作しているという。ドリアンの方が、儲かるからである。ベトナムには、ドリアン御殿がある。
ベトナムのドリアンが、どうなるかというと中国に輸出される。世界で、最大のドリアン消費国が中国であるというのも、知らなかった。
その中国で、近年、コーヒーの産地として注目をあつめているのが、雲南ということになる。スターバックスのボスが、直接やってくるぐらいである。雲南にはコーヒー御殿が出来ている。
コーヒーのいれかたもいろいろだが、私の学生のころ(今から半世紀ほど前になるが)、街には多くのコーヒー店(喫茶店)があった。その多くの店では、サイフォンでいれるコーヒーだった。もう、こういう店はなくなってしまったようである。(しばらく前、朝ドラの『ちゅらさん』の再放送で、アパートの管理人さんが、サイフォンでコーヒーをいれていたので、なつかしく思い出した。)
それ以外は、ネルドリップ方式だった。それ以前の昔からの喫茶店としては。今でも残っている喫茶店の多くは、この方式かもしれない。
最近の店だと、ペーパーフィルターをつかう、ハンドドリップ方式が主流になる。これが、外国人観光客に人気とは知らなかった。
世界的にコーヒーの価格は上がっている。主な原因は、気候変動による干魃ということだが、これは、どうしようもないことかもしれない。また、世界的に、生活のスタイルが変わってきて、コーヒーの需要がたかまっているということもあるだろう。
ところで、私の個人的な好み、感想であるが……スターバックスのコーヒーをおいしいと思ったことがない。おいしいコーヒーをゆっくり座って、じっくり味わう、という店の作りになっていない。店の設計が、そういうアーキテクチャーになっている。昔ながらの喫茶店のコーヒーを懐かしく思う。
2025年3月21日記
よみがえる新日本紀行「武者たちの眠る里ー愛知県・長篠ー」 ― 2025-03-25
2025年3月25日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 武者たちの眠る里ー愛知県・長篠ー
再放送である。2024年9月21日。オリジナルの包装は、昭和46年(1981)である。
長篠の合戦は、これまで戦国時代大河ドラマで何度となく描かれてきた。たぶん、来年の『豊臣兄弟』でも出てくるかなと思う。
長篠の地で、昔、ここで戦った武者たちを供養するための、踊り(火踊り、ひおんどり)が毎年おこなわれていることは知らなかった。民俗学的には、この地方に伝わる祖霊供養の一つということになるのかと思う。
これまで、大河ドラマの終わりの紀行のとき、この祭りのことが出てきていたかどうか、記憶がさだかではない。出てきていてもいいような気もするが。
それよりもおどろいたのは、ここで戦った武田軍の武士の子孫が、山梨県に存命で、祭りのときに、やってきているということである。正真正銘の末裔ということなのだろうが、よく家系がつづいてきたものだと思う。
火祭りの火は、昔ながらの火打ち石を使っていた。これは、現在でも同じようにしている。こういう光景とか、あるいは、火をおこす技術とかは、その動作とともに継承していかないとほろびてしまう。道具だけが残ってもあまり意味はない。
大きなたいまつをかかえてふりまわす祭りの様子は、非常にダイナミックである。
日本の地方のお盆のころの一つの光景として、記録に残しておく価値のあるものだと思う。
2025年3月19日記
よみがえる新日本紀行 武者たちの眠る里ー愛知県・長篠ー
再放送である。2024年9月21日。オリジナルの包装は、昭和46年(1981)である。
長篠の合戦は、これまで戦国時代大河ドラマで何度となく描かれてきた。たぶん、来年の『豊臣兄弟』でも出てくるかなと思う。
長篠の地で、昔、ここで戦った武者たちを供養するための、踊り(火踊り、ひおんどり)が毎年おこなわれていることは知らなかった。民俗学的には、この地方に伝わる祖霊供養の一つということになるのかと思う。
これまで、大河ドラマの終わりの紀行のとき、この祭りのことが出てきていたかどうか、記憶がさだかではない。出てきていてもいいような気もするが。
それよりもおどろいたのは、ここで戦った武田軍の武士の子孫が、山梨県に存命で、祭りのときに、やってきているということである。正真正銘の末裔ということなのだろうが、よく家系がつづいてきたものだと思う。
火祭りの火は、昔ながらの火打ち石を使っていた。これは、現在でも同じようにしている。こういう光景とか、あるいは、火をおこす技術とかは、その動作とともに継承していかないとほろびてしまう。道具だけが残ってもあまり意味はない。
大きなたいまつをかかえてふりまわす祭りの様子は、非常にダイナミックである。
日本の地方のお盆のころの一つの光景として、記録に残しておく価値のあるものだと思う。
2025年3月19日記
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