「カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし」 ― 2025-01-23
2025年1月23日 當山日出夫
カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし
元日の日の午後にたまたまテレビを付けたら、Eテレではじまったので、そのまま見てしまった。見終わってから検索してみると、映画として近々公開になるようだ。
角野栄子の本は、『魔女の宅急便』は買って家にある。これは、子どもが小さいときに買ったものである。子どもに買った本は、自分でもなるべく目をとおしておくことにしている。『魔女の宅急便』も読んだ。
だが、角野栄子の他の作品については、特に買って読んでみようと思うことなく過ぎてしまっている。
見て思うことはいくつかある。
まず、第一には、とにかく元気だなあということである。番組の取材のときは、八八才から八九才。番組の放送のあった時点(今年の一月一日)で九〇才になる。それで、鎌倉の家で一人で暮らして、執筆を行い、散歩にも出かける。歩くときに、杖をついたりはしていない。しゃべり方もしっかりしている。元気な高齢者は多いが、そのなかでもこれほど元気な人は珍しいかもしれない。
角野栄子は海が好きらしい。映像でも海岸のシーンがいくつかあった。海を見るのが好きな人と、山を見るのが好きな人。こういうふうに分けることができるとしたら、角野栄子は海の好きな人になるにちがいない。(ちなみに、私は山の方が好きである。毎日の朝、外に出て花の写真など撮っていて、啄木鳥の音が聞こえてくるのが楽しみであったりする。)
詳しい経歴についてはあまり触れられることはなかった。ブラジルに移民として渡っていたという経歴は、そういう人もいたのか、ということで見ていた。ブラジルではいろいろと苦労もあったようだが、どういう事情で日本に帰ってくることになったかは、触れられていなかった。何かわけがあったに違いないとは思うのだが、強いて詮索することではないだろう。
創作の仕事をしている人は、若々しい人が多いとは思っているのだが、その暮らしぶり、服装など、九〇才に近い高齢者としては、とても若々しくおしゃれである。この年齢になって、「かわいい」ということばを使って、それが自然であるというのは、希と感じる。
下関に行って小学生の前で話をするシーンもいい。子どもの気持ちの分かる人でないと、こういう話しはできない。だからこそ、児童文学を書き続けていられるのだろう。
執筆した原稿について、マックの画面を見ながら声に出して読んでいた場面が印象に残っている。ことばを声に出して読むということは、特に児童書としては大切なことだろうと思う。(ただ、これも意図的な演出かなという気もしているのだが、どうなのだろうか。)
終わりの方で、人間には、誰でも大事にしているものがある……ということを言っていたが、これはそのとおりだと思う。(あえていえばであるが、今の時代、それぞれの人間に大事にしているものがあるということが、尊重されるようでいて、されないことが多い。)
2025年1月1日記
カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし
元日の日の午後にたまたまテレビを付けたら、Eテレではじまったので、そのまま見てしまった。見終わってから検索してみると、映画として近々公開になるようだ。
角野栄子の本は、『魔女の宅急便』は買って家にある。これは、子どもが小さいときに買ったものである。子どもに買った本は、自分でもなるべく目をとおしておくことにしている。『魔女の宅急便』も読んだ。
だが、角野栄子の他の作品については、特に買って読んでみようと思うことなく過ぎてしまっている。
見て思うことはいくつかある。
まず、第一には、とにかく元気だなあということである。番組の取材のときは、八八才から八九才。番組の放送のあった時点(今年の一月一日)で九〇才になる。それで、鎌倉の家で一人で暮らして、執筆を行い、散歩にも出かける。歩くときに、杖をついたりはしていない。しゃべり方もしっかりしている。元気な高齢者は多いが、そのなかでもこれほど元気な人は珍しいかもしれない。
角野栄子は海が好きらしい。映像でも海岸のシーンがいくつかあった。海を見るのが好きな人と、山を見るのが好きな人。こういうふうに分けることができるとしたら、角野栄子は海の好きな人になるにちがいない。(ちなみに、私は山の方が好きである。毎日の朝、外に出て花の写真など撮っていて、啄木鳥の音が聞こえてくるのが楽しみであったりする。)
詳しい経歴についてはあまり触れられることはなかった。ブラジルに移民として渡っていたという経歴は、そういう人もいたのか、ということで見ていた。ブラジルではいろいろと苦労もあったようだが、どういう事情で日本に帰ってくることになったかは、触れられていなかった。何かわけがあったに違いないとは思うのだが、強いて詮索することではないだろう。
創作の仕事をしている人は、若々しい人が多いとは思っているのだが、その暮らしぶり、服装など、九〇才に近い高齢者としては、とても若々しくおしゃれである。この年齢になって、「かわいい」ということばを使って、それが自然であるというのは、希と感じる。
下関に行って小学生の前で話をするシーンもいい。子どもの気持ちの分かる人でないと、こういう話しはできない。だからこそ、児童文学を書き続けていられるのだろう。
執筆した原稿について、マックの画面を見ながら声に出して読んでいた場面が印象に残っている。ことばを声に出して読むということは、特に児童書としては大切なことだろうと思う。(ただ、これも意図的な演出かなという気もしているのだが、どうなのだろうか。)
終わりの方で、人間には、誰でも大事にしているものがある……ということを言っていたが、これはそのとおりだと思う。(あえていえばであるが、今の時代、それぞれの人間に大事にしているものがあるということが、尊重されるようでいて、されないことが多い。)
2025年1月1日記
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