所さん!事件ですよ「“風呂キャンセル”が急増中!?タイパ社会の深層」2025-01-28

2025年1月28日 當山日出夫

所さん!事件ですよ「“風呂キャンセル”が急増中!?タイパ社会の深層」

この番組は時々見るのだが、そんなに事象を深く掘り下げることはないが、今の世の中、こんなこともあるのか、といろいろと気づかされるところがある。

「タイパ」ということばは、もう日本語のなかに定着したことばといっていい。そういう価値観があってもいいと思うのだが、では、そのことによって作った空き時間をどうつかうのか、ということが、一番の問題かもしれない。

日本で普通に毎日のように風呂に入るようになったのは、近代以降、あるいは、戦後しばらくして、風呂付きの住宅が一般的になってからである。半世紀前、私が東京で学生生活を始めたころ、四畳半の下宿であった。近所に銭湯があったが、その料金が、五〇円だったかと記憶する。『神田川』の曲がはやった時代である。

強いて毎日風呂に入らなくても、人間は死にはしない。たとえば、『光る君へ』で描かれた平安貴族の生活で、風呂はどのようなものであったか、ドラマのなかでは描かれなかったが、おそらく、確実な史料が残っていないということもある。おそらくは、そんなに度々は風呂に入っていなかっただろう。

近代になって、漱石の作品を思い返してみても、『吾輩は猫である』とか『門』などでは、家に風呂がない。『それから』では、代助の家には風呂があることになっている。これは、当時の高等遊民としてかなり贅沢な暮らしといっていいのだろう。

結婚式に宗教色が無くなってきているのは、最近の傾向だろうが、これは、もとにもどっただけである。明治のころまで、結婚式は、人事であって、神事ではなかった。例えば、朝ドラの『カーネーション』の糸子の結婚式は、料亭の座敷であった。キリスト教式、あるいは、それを真似ての神前結婚式が、一般化するのは、かなり新しいことである。広まるのは、戦後になってからといっていいかもしれない。(えてして、日本の伝統とは、このようなものである。)

会社の飲み会が無くなっていくのは、時代の趨勢だろう。まあ、私の世代としては、学会などがあって、懇親会が終わったあと、若い大学院生などと、居酒屋にでもいって、いろいろと話すことが普通と思っているのだが、これも、学会がオンライン開催が普通になってしまうと、できなくなっている。自分が若いときは、学会の後の懇親会や二次会などで、大学の垣根をこえて、いろんな先生たちと話しができたという経験があるので、こういう交流の場は、なにがしかの形であった方がいいとは思う。だが、これも今の時代としては、老人の感傷にすぎないといっていいだろうか。

ところで、自分が老人の範疇に入るようになって感じていることの一つは、退屈ということがなくなったことである。何もしていないくても、頭のなかでいろいろと考えている。Kindleで読む本もあるし、Walkmanがあれば音楽を聴いている。録画してある、テレビのドキュメンタリー番組を見ていくだけでも、時間が過ぎていく。まさに、タイパとは無縁の生活をおくっている。ほとんど世捨て人的生活である。寝食を惜しんで何かに没頭する……研究にはげむ……ということはもうなくなっているが、かといって、何もすることがなく手持ち無沙汰ということもない。

さて、『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)を、読みかえしてみたくなった。新潮文庫版で読んだのだが、今度読むならKindle版である。

2025年1月25日記

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