NHKスペシャル「ゲーム×人類 PARTII 変貌する人間と社会」 ― 2025-01-28
2025年1月28日 當山日出夫
NHKスペシャル ゲーム×人類 PARTII 変貌する人間と社会
ゲーム、というよりも、メタバース、バーチャル空間といった方がいいかと思うが、それの持つ、光と影を紹介し、どちらかといえば、光の部分に着目して、これからの未来への展望を見ることにした……というあたりは、NHKスペシャルらしい作り方かと思う。実際には、その光の部分を否定するわけではないが、影の部分の広がりと深さを追求することの方が、私としては重要かと思う。まあ、今時の若い人が、ゲームばかりして、と年寄りが小言をいうのをひかえる、という程度の効果はあったというべきだろうか。(ちょっと天邪鬼にすぎるかもしれないが。)
NHKの作った番組では、しばらく前の「最深日本研究」が面白かった。外国人の研究者の視線で見た日本の文化的事象の研究の紹介であるが、日本の場合、メタバースにおいて、成人の男性が、美少女のアバターになることが、きわめて多い、ということが紹介されていて、とても興味深く思ったことがある。
バーチャル空間で、RPGをプレーするとき、この番組で語っていたように、リアルな自分自身を投影するという部分はたしかにあるだろう。これを、肯定的に考えてもよい。しかし、その一方で、現実の自分とは違った人間になれる、変身したり、変装したり、もっと進んで、別人格になってみたり、性別や年齢を変えてみたり……いろんなことができる。これを楽しむ、あるいは、没入してしまうのも、また、人間というものである。
特に、近年、SNSが話題になるとき、一部の人に限ってということになるかもしれないが、非常に攻撃的になり、極端な主張を繰り返す、それが、ネット内で増幅する、ということの問題点が、いろんな人が指摘している。リアルな世界での、リアルな自分ではないものになれるというチャンスを得たとき、人間はどうなるのか、まさに考えなければならないことである。
バーチャル空間を日常のリアルな人間の感覚の延長としてとらえる考え方があり、そう感じる人が一方で、リアルな世界から脱出して、仮想の自分になれる場所でもある、ということも、同じように考えておかなければならないことである。
それは、時として、犯罪的であるかもしれない(SNSでの誹謗中傷は、まさに犯罪である)が、それは、人間が本来持っていることの、一部を拡張して誇大化するのが、バーチャル空間であると考えるべきだろう。だから、ここでは、どんなに残虐にも非道にもなれる。(あるいは、このようなことで、リアルな世界から解放されて、人間が救われるという意識を持つこともあることになるが。)
ストリートフィアターの全盲のプレーヤーについては、おどろくと同時に、そういうことも有りうるというのが、私の感じたところである。人間が、聴覚と視覚と、どちらに早く反応できるかといういことについては、聴覚の方が早い……これは、昔、自動車の運転免許のために自動車学校に通ったときに、習ったことである。自動車の運転は、視覚による情報に頼ることが多いが、それでは、とっさの時に反応が遅れる、ということである。そんなに新しい知見ではないと思うが、興味深いのは、これが、コンピュータの進歩によって、プレーするときの、微妙な音の違いが表現出来るようになった、その結果であるということである。このことについて、番組では触れていなかったが、重要なポイントだろう。技術の進歩によって、可能になったことの、良い事例である。
マインクラフトの図書館の事例は面白いとは思うが、これは、普通のHPでも十分に可能なことである。少なくとも、情報の量としては、普通のHPの方がはるかに多くの情報をユーザに提供できるだろう。この方が多言語対応も楽だろう。テキストでデータがあれば、翻訳サービスで読むことも可能である。ただ、一般のユーザの入り口として、メタバースのなかに作ったという意味はある。だが、それだけのことでしかないとしか思えない。
興味深かったのは、これに対するコメントとして、中国からの発言が映っていたこと。私の認識では、中国も徹底した言論弾圧をしている国の代表である。NHKは、香港のことをこれまでにも多く報じてきているので、このことを知らないというはずはない。この番組を見ると、まるで、中国は言論弾圧のない自由な国であるかのような印象をうける人もいるかもしれないが、これは、はたしてどうだろうか。
昨日も書いたことだが、これからは、メタバースのなかにいる、ディスプレイの向こう側にいるのが、「人間」である……という時代は、崩壊すると思う。AIが、そこにいても何の不思議もない。そして、そのAIとの、メタバース内でのやりとりによって、リアルな人間の精神がコントロールされる……かなりSF的と思われるかもしれないが、しかし、もうこれは、現実にありうることとして、考えなければならないことになってきている。
また、そこで人間同士の連帯感が生まれる、というのは、確かに、良い側面かもしれないが、人間であるかぎり、歴史と文化のなかに存在する。もし、(別に悪意があっていうのではないが)イスラムの戒律に厳格なメタバースを作ることもできる(もう、すでにあるかとも思うが)。この中に、異教徒(日本人であっても、欧米人であっても)が入っていって、宗教的な理想を共有して仲間となかよくなれる……ということは、どうだろうか。メタバースの世界なら、リアルのいろんな価値観(文化、宗教、歴史など)を超えて、本当に平等でヒューマニズムを実現できる……これは、ちょっと非現実的空想、あるいは、浅薄な人間観であると感じるのだが。
私自身のことについていえば、世の中にパソコン通信が登場したときから使っている。そのなかで思ってきていることは、自分のリアルの世界での名前を名乗って、それで問題が生じない範囲内で、発言する、ということである。これが、一番無難な、自分を守る方法であり、責任をとるということである。
2025年1月27日記
NHKスペシャル ゲーム×人類 PARTII 変貌する人間と社会
ゲーム、というよりも、メタバース、バーチャル空間といった方がいいかと思うが、それの持つ、光と影を紹介し、どちらかといえば、光の部分に着目して、これからの未来への展望を見ることにした……というあたりは、NHKスペシャルらしい作り方かと思う。実際には、その光の部分を否定するわけではないが、影の部分の広がりと深さを追求することの方が、私としては重要かと思う。まあ、今時の若い人が、ゲームばかりして、と年寄りが小言をいうのをひかえる、という程度の効果はあったというべきだろうか。(ちょっと天邪鬼にすぎるかもしれないが。)
NHKの作った番組では、しばらく前の「最深日本研究」が面白かった。外国人の研究者の視線で見た日本の文化的事象の研究の紹介であるが、日本の場合、メタバースにおいて、成人の男性が、美少女のアバターになることが、きわめて多い、ということが紹介されていて、とても興味深く思ったことがある。
バーチャル空間で、RPGをプレーするとき、この番組で語っていたように、リアルな自分自身を投影するという部分はたしかにあるだろう。これを、肯定的に考えてもよい。しかし、その一方で、現実の自分とは違った人間になれる、変身したり、変装したり、もっと進んで、別人格になってみたり、性別や年齢を変えてみたり……いろんなことができる。これを楽しむ、あるいは、没入してしまうのも、また、人間というものである。
特に、近年、SNSが話題になるとき、一部の人に限ってということになるかもしれないが、非常に攻撃的になり、極端な主張を繰り返す、それが、ネット内で増幅する、ということの問題点が、いろんな人が指摘している。リアルな世界での、リアルな自分ではないものになれるというチャンスを得たとき、人間はどうなるのか、まさに考えなければならないことである。
バーチャル空間を日常のリアルな人間の感覚の延長としてとらえる考え方があり、そう感じる人が一方で、リアルな世界から脱出して、仮想の自分になれる場所でもある、ということも、同じように考えておかなければならないことである。
それは、時として、犯罪的であるかもしれない(SNSでの誹謗中傷は、まさに犯罪である)が、それは、人間が本来持っていることの、一部を拡張して誇大化するのが、バーチャル空間であると考えるべきだろう。だから、ここでは、どんなに残虐にも非道にもなれる。(あるいは、このようなことで、リアルな世界から解放されて、人間が救われるという意識を持つこともあることになるが。)
ストリートフィアターの全盲のプレーヤーについては、おどろくと同時に、そういうことも有りうるというのが、私の感じたところである。人間が、聴覚と視覚と、どちらに早く反応できるかといういことについては、聴覚の方が早い……これは、昔、自動車の運転免許のために自動車学校に通ったときに、習ったことである。自動車の運転は、視覚による情報に頼ることが多いが、それでは、とっさの時に反応が遅れる、ということである。そんなに新しい知見ではないと思うが、興味深いのは、これが、コンピュータの進歩によって、プレーするときの、微妙な音の違いが表現出来るようになった、その結果であるということである。このことについて、番組では触れていなかったが、重要なポイントだろう。技術の進歩によって、可能になったことの、良い事例である。
マインクラフトの図書館の事例は面白いとは思うが、これは、普通のHPでも十分に可能なことである。少なくとも、情報の量としては、普通のHPの方がはるかに多くの情報をユーザに提供できるだろう。この方が多言語対応も楽だろう。テキストでデータがあれば、翻訳サービスで読むことも可能である。ただ、一般のユーザの入り口として、メタバースのなかに作ったという意味はある。だが、それだけのことでしかないとしか思えない。
興味深かったのは、これに対するコメントとして、中国からの発言が映っていたこと。私の認識では、中国も徹底した言論弾圧をしている国の代表である。NHKは、香港のことをこれまでにも多く報じてきているので、このことを知らないというはずはない。この番組を見ると、まるで、中国は言論弾圧のない自由な国であるかのような印象をうける人もいるかもしれないが、これは、はたしてどうだろうか。
昨日も書いたことだが、これからは、メタバースのなかにいる、ディスプレイの向こう側にいるのが、「人間」である……という時代は、崩壊すると思う。AIが、そこにいても何の不思議もない。そして、そのAIとの、メタバース内でのやりとりによって、リアルな人間の精神がコントロールされる……かなりSF的と思われるかもしれないが、しかし、もうこれは、現実にありうることとして、考えなければならないことになってきている。
また、そこで人間同士の連帯感が生まれる、というのは、確かに、良い側面かもしれないが、人間であるかぎり、歴史と文化のなかに存在する。もし、(別に悪意があっていうのではないが)イスラムの戒律に厳格なメタバースを作ることもできる(もう、すでにあるかとも思うが)。この中に、異教徒(日本人であっても、欧米人であっても)が入っていって、宗教的な理想を共有して仲間となかよくなれる……ということは、どうだろうか。メタバースの世界なら、リアルのいろんな価値観(文化、宗教、歴史など)を超えて、本当に平等でヒューマニズムを実現できる……これは、ちょっと非現実的空想、あるいは、浅薄な人間観であると感じるのだが。
私自身のことについていえば、世の中にパソコン通信が登場したときから使っている。そのなかで思ってきていることは、自分のリアルの世界での名前を名乗って、それで問題が生じない範囲内で、発言する、ということである。これが、一番無難な、自分を守る方法であり、責任をとるということである。
2025年1月27日記
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