『どうせ死ぬなら、パリで死のう。』2025-03-19

2025年3月19日 當山日出夫

『どうせ死ぬなら、パリで死のう。』

たまたま番組のHPを見ていて、制作スタッフのなかに、自殺対策指導として、清水康之、の名前を見つけた。これは見ておきたいと思って、録画しておいて見た。

時代設定としては現代になる。たぶん、このドラマを見て、身につまされる思いをした若い研究者……特に文系に限ったことではなく、理系を含めて……は多いことだろう。今の時代に、とりあえず大学の非常勤講師の働き口があるということは、ある程度のレベル以上の大学、大学院を出て、学位(博士)を持っているか、少なくとも、博士課程単位取得退学、という形ではあるはずである。それでも、そう簡単に就職先がないのが、今の御時世である。もうこれは、構造的なものなので、そう簡単に解決策が見つかるということではない。だから、あきらめていい、ということではないのだけれど、しかし、そう簡単には割り切れないのが、人間の気持ちである。

よりによってシオランという哲学者を出してきたのは、どんなに悲観的にこの世の中に存在する自分を考えてみても、しかし、それでも、生きているのが人間である、ということになるかもしれない。このあたりは、シオランの哲学、あるいは、反出生主義の周辺の思想史について、どれぐらいの知識があるかによって、変わってくるとことかとも思う。

大学の講義のなかで、実存主義とかるく言っていたが、(私の理解では)実存主義としては、生まれてきてしまった自分という存在については、自分自身で引き受けていくしかないもの、ということになる。(まちがっているかもしれないが。)

水の流れるプールに浮かんでいて、自分はじっとしているつもりでも、いつの間にか流されている……その行く先がどこであるか分からないが、人間が生きていくということは、そういうものなのかもしれない。

何のために生きているのか分からないということと、もうこんな世の中がいやになるということと、自分自身を消し去りたいということ、これらの間には、かなり距離がある。おそらくは、どこかで、自ら消えてなくなってしまいたいということに、気持ちが飛躍するときがある。それは、日常の生活のなかで、ふとこころにうかぶものでもある。決して重大な決心というようなものではない。そのふとこころにうかんだことに、自分自身で気づけること、まずはこれが大事なことだと、私としては思う。そして、人間というものは、そういうふうに、ふとしたことで、こころがゆれるものであるということを、多くの人が理解することが、もとめられることだと思っている。

中島みゆきに『肩に降る雨』という曲がある。肩に降る雨の冷たさに気づく感性を、失ってはならない。あるいは、失わせてはならない。

2025年3月17日記

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