ちくま学芸文庫『なつかしの高校国語』2016-08-15

2016-08-15 當山日出夫

昨日、一昨日と、書いた、柳田国男の文章『雪国の春』……これは、かつての高校教科書に載っていたものである。

筑摩書房(編).『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2011
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093783/

『清光館哀史』として、『現代国語3 二訂版』(現国631) 1981~84年使用、と凡例を見るとある。これは、私が、高校を卒業してからのことになるので、そのせいか高校の教科書で読んだ記憶はない。あるいは、別の会社の教科書をつかっていたのか。

ともあれ、この文章『雪国の春』所収の「浜の月夜」「清光館哀史」は、一昔前の、高校生の読む文章として、教科書に載っていた。この筑摩書房の教科書は、その「指導書」で有名だったらしい。それが、現在、その教材の文章とともに、指導書も一緒に文庫本で読めるようになっている。

『清光館哀史』を記すにあたっての柳田国男の、学問的方法論への反省、それから、日本語の文章についての自覚、このことについてはすでに触れた。それをふまえたうえで、「教材の問題点」として、以下のような記述があることは見逃せない。

「日本の近代文化の発展とともに、ことばの果たすべき役割はますます重要となりつつある。ところが、それは、日本の近代史の持つ特有のひずみにさえぎられて、動きのとれないほどの大きな障壁にもぶつかっている。それこそは近代言語史の解明すべき課題であるが、不幸にして、今日の我が国の国語学には、そのような社会史的考察の領域が開かれていないため、それらの多くの問題は、いつも国語政策や文明批評の問題視されて、学問圏外に排斥されてしまっているのである。」(p.438)

これを書いているのは、益田勝実である。

文字や表記のことを専門にしているとはいえ、日本語研究、国語学のはしくれで仕事をしてきた人間としては、益田勝実の指摘は、ナルホドと思うと同時に、強い反省の念とともに読まざるをえない。

私の知る限りでいえば、益田勝実のいうような方向で、日本語がかえりみられてきたということはない、と思う。いや、それよりも、日本語研究という研究分野が、日本近代におけるその功罪をめぐって、さんざんに学知批判をなされてきたのが、実際のところである、と認識している。

だが、それも、このごろになってひととおり嵐が過ぎ去ったような感じのところで、改めて、益田勝実がいったこと、さらには、柳田国男が書いたことを、ふりかえってみる必要があるように感じている。近代の日本語のありかたと、人びとの社会についての認識のあゆみ、また、さらには、日本語研究の分野におけるその文体のあり方、これらを、総合的に考察する必要がある。

ある意味、ようやくそのような研究領域を開拓できるという時代になってきた。しかし、その一方で、現在の日本語研究のあり方は、どうもこのような方面には、関心がないようにも見受けられる。これはこれとして、学問の研究テーマの流れとしていたしかたのない面もあるのだろう。

それには、まず、研究者みずからが、どのような文体で言語研究にとりくんでいるか、そのこと自体に無自覚になってきている、そのような危惧がまずある。言語観にもよるのであるが、やはりことばによって世界をみている。そのことばが、どのように変化してきたか、どのように社会の問題ととりくんできたか、日本語研究のみならず、文学、社会科学の方面とも共同して、とりくまねばならない問題であろう。

これからの自分に何ができるかわからないが、ただ、日本語研究の研究課題にこのような分野・視点の持ち方があるということだけは、これから忘れずにおきたいものであると思っている。

しいていえば、言語生活史とでもいうような研究領域が必要になっている、と思う次第である。あるいは、これは、もう過去のことなのであろうか。

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