買い物カゴから世界が見える「モンゴル」 ― 2025-04-09
2025年4月9日 當山日出夫
買い物カゴから世界が見える モンゴル
たまたまテレビの番組表で見つけたので録画しておいた。
NHKとして意図的に映したかどうか……モンゴルのスーパーでは、こしひかりが売られている。日本語の平仮名で「こしひかり」と書いてあって、買い物カゴに入っていた。日本のお米が海外に輸出されていることは、周知のこととしていいのか、あるいは、あんまりおおっぴらに言うべきことではないのか、どうなのだろうか。
「コンテナ全部開けちゃいました」の新潟港編では、輸出されるお米が出てきていた。また、他の番組でも、海外でお米が食べられている(それは、日本食として、寿司やおにぎりとしてであるが)ことが、出てくる。これは、どこのお米なのだろうか。
これらのお米は、輸出用として特別に栽培され厳格に管理されていることになるはずだが、令和の米騒動と言われる御時世にあって、輸出する米があるのか、と一部からは批難がありそうである。すでにあるにちがいないが。
私の興味としては、どうしても文字を見てしまう。(国語学の研究者として、文字のことを考えてきたことになるので。)モンゴルのウランバートルのスーパーでは、英語(アルファベット)と、キリル文字と、伝統的なモンゴル文字(といっていいのだろうか、モンゴルの文字については、ほとんど知識がないので、判読はできなかったのだが)、これらが混在している。キリル文字は、ロシア語がモンゴル語のなかにはいってきたものなのか、モンゴル語をキリル文字で書いたものなのか、ちょっと気になる。アルファベットは、言語としては英語である。
日常生活のなかには、モンゴル暦の旧正月が生きている。
プレゼントの贈りさきをスマホで表示していた男性がいたが、その表示は、キリル文字であった。
今の時代、世界のどこに行っても、「Coca Cola」や「THE NORTH FACE」がある。
家庭のなかでは、子どもが、ゲーム機のコントローラを手にしている。(これは、すぐにかくしたようだったが。)
靴下が何種類か映っていたが、それには、「Made In Mongol」と英語で表示があった。今では、英語で書くということが、かなり日常生活のなかに浸透してきているのだろう。
ミルクティーを作るとき、キビを入れていた。今の日本では、もうキビなどは、小鳥のエサぐらいでしかないかもしれない。あるいは、健康食として雑穀として食べられることもあるといっていいだろうか。
葉物野菜が、工場のような農場(?)で栽培されて、冬でも食卓に出るようになっているということは、文明のおかげ、近代化、ということでいいのかもしれない。
バナナを売っていたが、どういうルートで、ウランバートルまで運ばれてきているのだろうか。柑橘類もたくさんあったようだが、その産地と、輸送ルートが気になる。(以前、中国のトラックで、ラオスでとれたバナナをチベットまで運ぶということが映っていたので、こういうものかと思ったのだがが。「新・爆走風塵」)
モンゴルということなのだろうが、肉や乳製品は豊富に売っている。しかし、お魚は売っていないのか、出てきていなかった。少なくとも、一般市民の食卓に出るようなものではないのであろう。
2025年3月29日記
買い物カゴから世界が見える モンゴル
たまたまテレビの番組表で見つけたので録画しておいた。
NHKとして意図的に映したかどうか……モンゴルのスーパーでは、こしひかりが売られている。日本語の平仮名で「こしひかり」と書いてあって、買い物カゴに入っていた。日本のお米が海外に輸出されていることは、周知のこととしていいのか、あるいは、あんまりおおっぴらに言うべきことではないのか、どうなのだろうか。
「コンテナ全部開けちゃいました」の新潟港編では、輸出されるお米が出てきていた。また、他の番組でも、海外でお米が食べられている(それは、日本食として、寿司やおにぎりとしてであるが)ことが、出てくる。これは、どこのお米なのだろうか。
これらのお米は、輸出用として特別に栽培され厳格に管理されていることになるはずだが、令和の米騒動と言われる御時世にあって、輸出する米があるのか、と一部からは批難がありそうである。すでにあるにちがいないが。
私の興味としては、どうしても文字を見てしまう。(国語学の研究者として、文字のことを考えてきたことになるので。)モンゴルのウランバートルのスーパーでは、英語(アルファベット)と、キリル文字と、伝統的なモンゴル文字(といっていいのだろうか、モンゴルの文字については、ほとんど知識がないので、判読はできなかったのだが)、これらが混在している。キリル文字は、ロシア語がモンゴル語のなかにはいってきたものなのか、モンゴル語をキリル文字で書いたものなのか、ちょっと気になる。アルファベットは、言語としては英語である。
日常生活のなかには、モンゴル暦の旧正月が生きている。
プレゼントの贈りさきをスマホで表示していた男性がいたが、その表示は、キリル文字であった。
今の時代、世界のどこに行っても、「Coca Cola」や「THE NORTH FACE」がある。
家庭のなかでは、子どもが、ゲーム機のコントローラを手にしている。(これは、すぐにかくしたようだったが。)
靴下が何種類か映っていたが、それには、「Made In Mongol」と英語で表示があった。今では、英語で書くということが、かなり日常生活のなかに浸透してきているのだろう。
ミルクティーを作るとき、キビを入れていた。今の日本では、もうキビなどは、小鳥のエサぐらいでしかないかもしれない。あるいは、健康食として雑穀として食べられることもあるといっていいだろうか。
葉物野菜が、工場のような農場(?)で栽培されて、冬でも食卓に出るようになっているということは、文明のおかげ、近代化、ということでいいのかもしれない。
バナナを売っていたが、どういうルートで、ウランバートルまで運ばれてきているのだろうか。柑橘類もたくさんあったようだが、その産地と、輸送ルートが気になる。(以前、中国のトラックで、ラオスでとれたバナナをチベットまで運ぶということが映っていたので、こういうものかと思ったのだがが。「新・爆走風塵」)
モンゴルということなのだろうが、肉や乳製品は豊富に売っている。しかし、お魚は売っていないのか、出てきていなかった。少なくとも、一般市民の食卓に出るようなものではないのであろう。
2025年3月29日記
よみがえる新日本紀行「ファッション通り〜東京・原宿〜」 ― 2025-04-09
2025年4月9日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「ファッション通り〜東京・原宿〜」
再放送である。2021年10月10日。オリジナルは、昭和48年(1973)9月24日。
昭和48年というと、私がまだ高校生のころである。その後、大学生になって東京に住むのだが、原宿は、名前は知っているが、特に行きたいと思うところではなかった。
見ていて最も興味深かったのは、無尽講。昭和48年のころまで、原宿は昔の東京の郊外の生活が残っていた。町内会があって、無尽講をしていた。無尽講は、名前は知っているし、その仕組みも知っていることなのだが、実際に人があつまってそれをやっているところの映像記録というのは、あるいは始めて見たことになるかもしれない。
原宿が、その昔は隠田と呼ばれた地域であり、明治神宮が作られて、そのために原宿の駅もできて、人びとの生活する郊外の住宅地として成立してきた。ちなみに、『細雪』を読むと、東京に転勤になった長女(鶴子)の一家は、渋谷に住むことになっているが、この時代(昭和一〇年代、太平洋戦争の前)の渋谷は、東京の郊外の住宅地として認識されていたことが分かる。渋谷とくらべれば、原宿はさらに郊外である。
畳屋さんが仕事をする場面が映っていた。昔の畳屋という仕事は、そう広い範囲を相手にする仕事ではないはずだと思うので(重い畳を運ぶの重労働である)、その商売が成りたっていた時代があったということになる。
登場していた若い女性が言っていたが、この時代の原宿は、最深のファッションを身にまとった若者と、かっぽう着(もう、こういう言い方が古めかしいが)を着て買い物カゴをさげたおばさんが、一緒に道を歩いていてもおかしくない、そういう街だった。
古くからの東京の山の手の郊外の住宅地の雰囲気を残す穏やかな原宿の街と、最先端のファッションの流行を追い求める若者たち、これらが、同居できていた、今から思えば、奇跡的とでもいうべき時代を、映像に残していることになる。
若い時の山本寛斎の仕事ぶりなどを記録した、貴重な番組であるかもしれない。
個人的な思い出を語れば、慶應義塾大学での私の恩師である先生が、原宿に住んでいた。その書斎として、マンションの一室を使っておられたので、そこには、かなりの回数、足をはこんだことになる。さらに、先生の晩年、年取って一人住まいになった先生をたずねて、原宿に行って食事などしたものである。もうこのころになると、普通の人が日常生活をおくる街ではなくなってきてしまっていたのだが。(最終的には、老人介護施設にはいられた。)
同潤会アパートが残っていたころのことは、私の記憶にある。
番組の中では、ワシントンハイツと言っていたが、これは、知識としては知っていることだが、実際には知らない。
喫茶店にたむろする若者たちが、みんな煙草をすっている。これは、こういう時代だったのである。
2025年4月3日記
よみがえる新日本紀行 「ファッション通り〜東京・原宿〜」
再放送である。2021年10月10日。オリジナルは、昭和48年(1973)9月24日。
昭和48年というと、私がまだ高校生のころである。その後、大学生になって東京に住むのだが、原宿は、名前は知っているが、特に行きたいと思うところではなかった。
見ていて最も興味深かったのは、無尽講。昭和48年のころまで、原宿は昔の東京の郊外の生活が残っていた。町内会があって、無尽講をしていた。無尽講は、名前は知っているし、その仕組みも知っていることなのだが、実際に人があつまってそれをやっているところの映像記録というのは、あるいは始めて見たことになるかもしれない。
原宿が、その昔は隠田と呼ばれた地域であり、明治神宮が作られて、そのために原宿の駅もできて、人びとの生活する郊外の住宅地として成立してきた。ちなみに、『細雪』を読むと、東京に転勤になった長女(鶴子)の一家は、渋谷に住むことになっているが、この時代(昭和一〇年代、太平洋戦争の前)の渋谷は、東京の郊外の住宅地として認識されていたことが分かる。渋谷とくらべれば、原宿はさらに郊外である。
畳屋さんが仕事をする場面が映っていた。昔の畳屋という仕事は、そう広い範囲を相手にする仕事ではないはずだと思うので(重い畳を運ぶの重労働である)、その商売が成りたっていた時代があったということになる。
登場していた若い女性が言っていたが、この時代の原宿は、最深のファッションを身にまとった若者と、かっぽう着(もう、こういう言い方が古めかしいが)を着て買い物カゴをさげたおばさんが、一緒に道を歩いていてもおかしくない、そういう街だった。
古くからの東京の山の手の郊外の住宅地の雰囲気を残す穏やかな原宿の街と、最先端のファッションの流行を追い求める若者たち、これらが、同居できていた、今から思えば、奇跡的とでもいうべき時代を、映像に残していることになる。
若い時の山本寛斎の仕事ぶりなどを記録した、貴重な番組であるかもしれない。
個人的な思い出を語れば、慶應義塾大学での私の恩師である先生が、原宿に住んでいた。その書斎として、マンションの一室を使っておられたので、そこには、かなりの回数、足をはこんだことになる。さらに、先生の晩年、年取って一人住まいになった先生をたずねて、原宿に行って食事などしたものである。もうこのころになると、普通の人が日常生活をおくる街ではなくなってきてしまっていたのだが。(最終的には、老人介護施設にはいられた。)
同潤会アパートが残っていたころのことは、私の記憶にある。
番組の中では、ワシントンハイツと言っていたが、これは、知識としては知っていることだが、実際には知らない。
喫茶店にたむろする若者たちが、みんな煙草をすっている。これは、こういう時代だったのである。
2025年4月3日記
ETV特集「シリーズ 日本人と東大 第2回 壁 と 翼〜“女子学生2割”の問いかけ〜」 ― 2025-04-09
2025年4月9日 當山日出夫
ETV特集 シリーズ 日本人と東大 第2回 壁 と 翼〜“女子学生2割”の問いかけ〜
男女平等ということについては、理念としては反対する人はまずいないだろう。問題なのは、どのような状態なったときに、それが実現したといえるのか、具体的な話しになると、見解の対立が起こることである。
究極的には、自然の状態に根拠をもとめるしかない。世界には、人間がいるだけなのだからそれはすべて平等であるべきだ。世界には、男性と女性が存在しているのだから、そのちがいはみとめるべきだ。おそらく、その正しさの根拠となるところを、つきつめていけば、ここのところにいきつくしかない。
機会の平等は実現が比較的容易であるが、結果の平等は難しい。どういうことをもって、結果の平等といえるのか。そこには、一つの解答があるわけではない。結果的にこうなっているのは、出発点からの問題である(=本質的に機会の平等が実現されていない)、というおそらく堂々巡りの議論になる。
この番組は、東京大学と女子学生ということにポイントを絞っているので、ある意味で、論点が明確であり、問題点も分かりやすい。また、その歴史をたどっていることは評価されるべきである。
戦後になってからの、女子学生亡国論、男女雇用機会均等法がかならずしもすべての女性の賛同があったわけではないこと(反対する女性もいた)、アグネス論争、こういう紆余曲折の歴史があって、その結果、いまだに東京大学の女子学生が二割ということになる。
女子学生の数を増やすには、推薦入試を増やせばいい、という。だが、これも現実の問題としては、東京大学に推薦で入れるような高校は限られている。他の大学の推薦入試に比べれば、多様性があることにはなっているが、実際に多くの学生を推薦で入学ということになると、これはこれで、新たな教育格差問題が生じることになるかもしれない。このあたりの議論は、別にきちんと考える必要がある。
東京大学の入学者が、首都圏、都市圏の、中高一貫私立学校に偏っていることは、周知のことである。女子学生を増やすことと、その出身校、出身地、がどうなるかということは、総合的に考えなければならないことである。
この番組について思うこととしては、日本には多くの大学があるのだから、なにもかも東大の責任、というふうに議論をもっていかなくてもいいかとも思う。大学の方針として、多様な選抜で多様な学生を入学させたいという学校もあれば、学力試験だけの勝負で決まる、という大学もあっていいだろう。多様性にも多様性がある、ぐらいの視点で考えることも必要であると、私は思う。
ここには、東京大学が日本のトップの大学でなければならないという、思い込みがある。東京大学の日本でトップのエリート大学であるならば、男女平等の実現においてもトップでならなければならない。まずは、こういう思い込み、あるいは過剰な自負、を捨ててみることが大事だと思うのだが。
それから、大学の入学者で考えていたが、これが、大学院になると、分野にもよると思うが、かなり事情が異なってくるかもしれない。一部の分野については、男性は大学院に進学しようとしなくなっている。そのメリットを感じられない社会であるともいえる。これも、研究分野ごとに、修士課程、博士課程、博士号の取得、その後のキャリア、さらに細かく見なければならないことではある。
司法試験についてみれば、合格者の女性比率は高まってきている。これは、決してアファーマティブアクションのせいではなく、試験の成績だけで決まることであり、また、法曹の分野が、まさに法律を遵守する世界であるからこそ、女性が特にハンディを感じることが、少ない(ここは少ないと言っておく、まったく無いということではないだろうから)ということに起因するだろう。(司法試験をめざすなら、別に東大でなければならない理由はないけれど。)
さらに考えるべきこととしては、地方出身の若い女性(大学生)が、一人で生活するのに、東京という街がどうなのか、という観点も必要かと思う。東京という街が本当に魅力的で住みやすい街なのか、また、地方に住み続けることが、どうしようもなくいやなことなのか。どうだろうか。
もし、東京大学が、どうしても(数字の上で)男女平等を実現したければ、場合によっては、かなり強引なアファーマティブアクションによるしかないかもしれない。だが、それでは、問題の本質的な解決にはならない。そうなれば、優秀な女性は東京大学をさけるようになるかもしれない。
2025年4月6日記
ETV特集 シリーズ 日本人と東大 第2回 壁 と 翼〜“女子学生2割”の問いかけ〜
男女平等ということについては、理念としては反対する人はまずいないだろう。問題なのは、どのような状態なったときに、それが実現したといえるのか、具体的な話しになると、見解の対立が起こることである。
究極的には、自然の状態に根拠をもとめるしかない。世界には、人間がいるだけなのだからそれはすべて平等であるべきだ。世界には、男性と女性が存在しているのだから、そのちがいはみとめるべきだ。おそらく、その正しさの根拠となるところを、つきつめていけば、ここのところにいきつくしかない。
機会の平等は実現が比較的容易であるが、結果の平等は難しい。どういうことをもって、結果の平等といえるのか。そこには、一つの解答があるわけではない。結果的にこうなっているのは、出発点からの問題である(=本質的に機会の平等が実現されていない)、というおそらく堂々巡りの議論になる。
この番組は、東京大学と女子学生ということにポイントを絞っているので、ある意味で、論点が明確であり、問題点も分かりやすい。また、その歴史をたどっていることは評価されるべきである。
戦後になってからの、女子学生亡国論、男女雇用機会均等法がかならずしもすべての女性の賛同があったわけではないこと(反対する女性もいた)、アグネス論争、こういう紆余曲折の歴史があって、その結果、いまだに東京大学の女子学生が二割ということになる。
女子学生の数を増やすには、推薦入試を増やせばいい、という。だが、これも現実の問題としては、東京大学に推薦で入れるような高校は限られている。他の大学の推薦入試に比べれば、多様性があることにはなっているが、実際に多くの学生を推薦で入学ということになると、これはこれで、新たな教育格差問題が生じることになるかもしれない。このあたりの議論は、別にきちんと考える必要がある。
東京大学の入学者が、首都圏、都市圏の、中高一貫私立学校に偏っていることは、周知のことである。女子学生を増やすことと、その出身校、出身地、がどうなるかということは、総合的に考えなければならないことである。
この番組について思うこととしては、日本には多くの大学があるのだから、なにもかも東大の責任、というふうに議論をもっていかなくてもいいかとも思う。大学の方針として、多様な選抜で多様な学生を入学させたいという学校もあれば、学力試験だけの勝負で決まる、という大学もあっていいだろう。多様性にも多様性がある、ぐらいの視点で考えることも必要であると、私は思う。
ここには、東京大学が日本のトップの大学でなければならないという、思い込みがある。東京大学の日本でトップのエリート大学であるならば、男女平等の実現においてもトップでならなければならない。まずは、こういう思い込み、あるいは過剰な自負、を捨ててみることが大事だと思うのだが。
それから、大学の入学者で考えていたが、これが、大学院になると、分野にもよると思うが、かなり事情が異なってくるかもしれない。一部の分野については、男性は大学院に進学しようとしなくなっている。そのメリットを感じられない社会であるともいえる。これも、研究分野ごとに、修士課程、博士課程、博士号の取得、その後のキャリア、さらに細かく見なければならないことではある。
司法試験についてみれば、合格者の女性比率は高まってきている。これは、決してアファーマティブアクションのせいではなく、試験の成績だけで決まることであり、また、法曹の分野が、まさに法律を遵守する世界であるからこそ、女性が特にハンディを感じることが、少ない(ここは少ないと言っておく、まったく無いということではないだろうから)ということに起因するだろう。(司法試験をめざすなら、別に東大でなければならない理由はないけれど。)
さらに考えるべきこととしては、地方出身の若い女性(大学生)が、一人で生活するのに、東京という街がどうなのか、という観点も必要かと思う。東京という街が本当に魅力的で住みやすい街なのか、また、地方に住み続けることが、どうしようもなくいやなことなのか。どうだろうか。
もし、東京大学が、どうしても(数字の上で)男女平等を実現したければ、場合によっては、かなり強引なアファーマティブアクションによるしかないかもしれない。だが、それでは、問題の本質的な解決にはならない。そうなれば、優秀な女性は東京大学をさけるようになるかもしれない。
2025年4月6日記
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