フロンティア「シリーズ 食 敵か味方か? 第1回 糖でヒトは進化した」 ― 2025-04-02
2025年4月2日 當山日出夫
フロンティア シリーズ 食 敵か味方か? 第1回 糖でヒトは進化した
録画してあったのを見て、WEBで糖質にかんするアプリを検索してみた。おそらく、かなりの人がそうしたと思う。日本では、イスラエルで使っていたアプリは、使えるようにはなっていないようである。スマホの画面に表示されていたのはヘブライ語だと思うが(私は読めないが)、イスラエルでは実用化されているということなのだろう。その前提としては、便の検査をして、腸内細菌について調べなければならない。こういうサービスは、日本で普及する可能性はあると思うが、はたしてどうなのだろうか。
今のところ、健康診断などで血糖値は気にするほどではないので、さしあたってどうこうということはないが、ちょっと気になる。
どのような食べ物が、その人間の血糖値に影響するのか、腸内細菌によって異なり、個人差が非常にある……こういうことは、かなり一般的にいえることかもしれない。日本で、こういう研究はどれぐらいされているのだろうか。
糖質をとらないというダイエットが、長期的には意味の無いものであることは、普通に考えれば判断できることだと思う。これが体にいいとなればそれを食べる、悪いとなれば食べない、どうも極端に現代の人間は流れすぎているように思える。
「ギャートルズ」のように肉ばっかり食べていていいわけではない。
私の今の食事だと、通常は、朝はパン一枚。夜は、ご飯が一杯。昼は、そのときどき。まあまあ、糖質が多すぎもせず少なすぎもせず、というぐらいかなと思う。
旧石器時代、200万年ほど前、木の実や地下茎を、火で加熱調理することで、糖質を摂取できて、それと、脳の発達が関係する……これは、たぶん、そのようなことなのだろうと思う。だが、はっきりと因果関係が科学的に立証されたということではないかもしれないが。
番組では言っていなかったが、日本でも、三内丸山遺跡の発掘によって、縄文の人びとが、多くの食べられる植物を栽培していたことが分かっているはずである。弥生時代になって、米作の時代をむかえた、と常識的な歴史では習うのだが、日本列島に住むひとびとは、いったい何を食べて生きてきたのか、その総合的なことが分かるときがくると、とても面白い。(それまで生きていられるかどうか、分からない年になってしまっているが。)
生命の進化の歴史が、糖質をどう有効利用する歴史であるのか、こういう観点から見るならば、糖質オフの生活をおくれば健康的であるというのが、非常に短絡的な考え方であることは、理解できる。細胞レベルからさらに分子レベルで、生命の進化を見る必要がある、ということになる。
パプアニューギニアの人びと、ニューギニア高地人、の食生活はとても面白い。この人びとが、特殊な腸内細菌を持つ人びとであったからこそ、その土地で、サツマイモだけの生活をすることができた、ということになるのだろうが、では、なぜ、この人びとがそれを獲得したのか、歴史的な経緯が気になる。おそらく現代では、DNAの分析から、この人びとが、どこから来たのか分かるようになっているのだろうとは思うが。
私の年代だと、ニューギニア高地人というと、本多勝一のことを思う。今でもKindle版で読むことができる。
2025年3月25日記
フロンティア シリーズ 食 敵か味方か? 第1回 糖でヒトは進化した
録画してあったのを見て、WEBで糖質にかんするアプリを検索してみた。おそらく、かなりの人がそうしたと思う。日本では、イスラエルで使っていたアプリは、使えるようにはなっていないようである。スマホの画面に表示されていたのはヘブライ語だと思うが(私は読めないが)、イスラエルでは実用化されているということなのだろう。その前提としては、便の検査をして、腸内細菌について調べなければならない。こういうサービスは、日本で普及する可能性はあると思うが、はたしてどうなのだろうか。
今のところ、健康診断などで血糖値は気にするほどではないので、さしあたってどうこうということはないが、ちょっと気になる。
どのような食べ物が、その人間の血糖値に影響するのか、腸内細菌によって異なり、個人差が非常にある……こういうことは、かなり一般的にいえることかもしれない。日本で、こういう研究はどれぐらいされているのだろうか。
糖質をとらないというダイエットが、長期的には意味の無いものであることは、普通に考えれば判断できることだと思う。これが体にいいとなればそれを食べる、悪いとなれば食べない、どうも極端に現代の人間は流れすぎているように思える。
「ギャートルズ」のように肉ばっかり食べていていいわけではない。
私の今の食事だと、通常は、朝はパン一枚。夜は、ご飯が一杯。昼は、そのときどき。まあまあ、糖質が多すぎもせず少なすぎもせず、というぐらいかなと思う。
旧石器時代、200万年ほど前、木の実や地下茎を、火で加熱調理することで、糖質を摂取できて、それと、脳の発達が関係する……これは、たぶん、そのようなことなのだろうと思う。だが、はっきりと因果関係が科学的に立証されたということではないかもしれないが。
番組では言っていなかったが、日本でも、三内丸山遺跡の発掘によって、縄文の人びとが、多くの食べられる植物を栽培していたことが分かっているはずである。弥生時代になって、米作の時代をむかえた、と常識的な歴史では習うのだが、日本列島に住むひとびとは、いったい何を食べて生きてきたのか、その総合的なことが分かるときがくると、とても面白い。(それまで生きていられるかどうか、分からない年になってしまっているが。)
生命の進化の歴史が、糖質をどう有効利用する歴史であるのか、こういう観点から見るならば、糖質オフの生活をおくれば健康的であるというのが、非常に短絡的な考え方であることは、理解できる。細胞レベルからさらに分子レベルで、生命の進化を見る必要がある、ということになる。
パプアニューギニアの人びと、ニューギニア高地人、の食生活はとても面白い。この人びとが、特殊な腸内細菌を持つ人びとであったからこそ、その土地で、サツマイモだけの生活をすることができた、ということになるのだろうが、では、なぜ、この人びとがそれを獲得したのか、歴史的な経緯が気になる。おそらく現代では、DNAの分析から、この人びとが、どこから来たのか分かるようになっているのだろうとは思うが。
私の年代だと、ニューギニア高地人というと、本多勝一のことを思う。今でもKindle版で読むことができる。
2025年3月25日記
最深日本研究 ~外国人博士の目~ 「キャラクター文化を知りたい」 ― 2025-04-02
2025年4月2日 當山日出夫
最深日本研究 ~外国人博士の目~ キャラクター文化を知りたい
このシリーズは、私は気に入っている。それは、研究としてまともであるからである。(NHKの番組のなかには、かなりうさんくさいものがたくさんあるなかで、このシリーズは、研究対象、目的、方法論、とりあえずの結論(仮説)、ということが、学問的に明確である。)
サウンドシンボリズムといっていたが、普通の日本語学の用語でいえば、オノマトペの分析ということになる。オノマトペ……擬音語、擬態語といわれる種類のことばであるが、これは、近年注目のあつまっている、日本語学の研究対象のひとつである。歴史的にこのことを研究してきたのは、山口仲実先生である。
番組の中で出てきてた、ゆるキャラの名前に使われる、「ピー」「リン」という親しみを表現することば。それから、「ポン」「まる」などのことば、これらが、ゆるキャラになぜ多用されるのか、言語研究としては、非常に興味深いし、重要な指摘である。
アンパンマンのキャラクタで、ドキンちゃんについては、「ドキドキ」ということばとの関係で、この名前がついたのだろうが、日本語のオノマトペ研究としても、重要な指摘である。
この研究をした、デボラ・オチさん。日本の演歌の歌詞も研究したというが、できれば、具体的にどんな内容だったのだろうか。日本語の歌謡曲やポピュラーソングの歌詞の分析は、伝統的に日本では、計量的研究の分野として続いている。
それから、ヒーローについても、出てきていた。これも、その名前がどのようになっているか(この番組の中では出てきていなかったが)、サウンドシンボリズムの観点から分析することができるはずである。
アクションスクールに通っての参与観察は、なるほど、こういうことまでしているのかと思って見ていた。そこで、指導の先生が使っていることば(オノマトペ)に注目している。オノマトペで、アクションの指導ができるということが、日本語のひとつの特徴といっていいだろう。
日本におけるキャラクター文化を、漢字とむすびつけて考えるのは、仮説ということになるが、考える価値はあると思う。番組のなかでは、漢字を使うのは日本語だけではないと否定的に言っていたが、しかし、漢字と仮名(特にひらがな)をまぜて使うのは、日本語だけである。朝鮮語では、今では漢字を使わなくなってしまっているし(かつては、漢字ハングル交じり文、というべきものがあったが)、中国語(中国、台湾)では、基本的に漢字だけである。漢字が漢字として特に目立つという機能があるのは、日本語の表記の大きな特徴である。
みやざき犬、というネーミングは、ダブルミーニング、要するにダジャレなのだが、NHKの天気予報に出てくる、しゅと犬くん、もれっきとしたキャラクターである。調べて見ると、ぬいぐるみも売っているようだ。
2025年4月1日記
最深日本研究 ~外国人博士の目~ キャラクター文化を知りたい
このシリーズは、私は気に入っている。それは、研究としてまともであるからである。(NHKの番組のなかには、かなりうさんくさいものがたくさんあるなかで、このシリーズは、研究対象、目的、方法論、とりあえずの結論(仮説)、ということが、学問的に明確である。)
サウンドシンボリズムといっていたが、普通の日本語学の用語でいえば、オノマトペの分析ということになる。オノマトペ……擬音語、擬態語といわれる種類のことばであるが、これは、近年注目のあつまっている、日本語学の研究対象のひとつである。歴史的にこのことを研究してきたのは、山口仲実先生である。
番組の中で出てきてた、ゆるキャラの名前に使われる、「ピー」「リン」という親しみを表現することば。それから、「ポン」「まる」などのことば、これらが、ゆるキャラになぜ多用されるのか、言語研究としては、非常に興味深いし、重要な指摘である。
アンパンマンのキャラクタで、ドキンちゃんについては、「ドキドキ」ということばとの関係で、この名前がついたのだろうが、日本語のオノマトペ研究としても、重要な指摘である。
この研究をした、デボラ・オチさん。日本の演歌の歌詞も研究したというが、できれば、具体的にどんな内容だったのだろうか。日本語の歌謡曲やポピュラーソングの歌詞の分析は、伝統的に日本では、計量的研究の分野として続いている。
それから、ヒーローについても、出てきていた。これも、その名前がどのようになっているか(この番組の中では出てきていなかったが)、サウンドシンボリズムの観点から分析することができるはずである。
アクションスクールに通っての参与観察は、なるほど、こういうことまでしているのかと思って見ていた。そこで、指導の先生が使っていることば(オノマトペ)に注目している。オノマトペで、アクションの指導ができるということが、日本語のひとつの特徴といっていいだろう。
日本におけるキャラクター文化を、漢字とむすびつけて考えるのは、仮説ということになるが、考える価値はあると思う。番組のなかでは、漢字を使うのは日本語だけではないと否定的に言っていたが、しかし、漢字と仮名(特にひらがな)をまぜて使うのは、日本語だけである。朝鮮語では、今では漢字を使わなくなってしまっているし(かつては、漢字ハングル交じり文、というべきものがあったが)、中国語(中国、台湾)では、基本的に漢字だけである。漢字が漢字として特に目立つという機能があるのは、日本語の表記の大きな特徴である。
みやざき犬、というネーミングは、ダブルミーニング、要するにダジャレなのだが、NHKの天気予報に出てくる、しゅと犬くん、もれっきとしたキャラクターである。調べて見ると、ぬいぐるみも売っているようだ。
2025年4月1日記
100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (4)それでも共に生きていく」 ― 2025-04-02
2025年4月2日 當山日出夫
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (4)それでも共に生きていく
斎藤幸平については、『新人生の資本論』を読んで、どうにもうさんくさい、という気持ちがぬけない。なぜそう感じるのかというと、主張していることのなかに、自分がその価値観を主張するのは何故なのか、それに、賛成しない人がいるとすればそれは何故なのか、ということについて、自省するところが感じられないからである。よりいっそうたちが悪いと感じるのは、こういうことが分かっていて、あえてしらばっくれているところである。
こういう視点でみるなら、説得力を持たせようとして出した例なのだろうが、死刑制度の有無については、まったくの逆効果であるし、そのことを分かっていながら、そういう主張をおりこんで話しをするというのは、たちが悪い。(死刑制度があるのは、日本だけではない。まるで、世界の日本以外の国では、まったく無いような言い方をしてはいけない。語るべきは、その制度の是非だけではなく、方法、どのような犯罪に対して科されるのかということなどであり、これらを考えれば、そんなに簡単に今の日本の死刑制度を批判はできないはずである。また、死刑に反対=進んでいる、賛成=遅れている、という価値判断が、こっそりとしのびこませてある。あまりに姑息である。)
平等というような理想についても、現実にはどういう状態になったときに、この世の中のすべての人が納得する状態として平等が実現するのか……このことについての共通理解はとても困難である。だからこそ、自分の考える正しさについての自省、それに同意しない他者に対する想像力が必要になる。これは、私の理解するところでは、本来の保守主義の考え方である。そして、実際には、今の社会において、いわゆるリベラルを自称する立場でも、逆に保守を自称する立場でも、非常にかたくなである。
2025年4月1日記
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (4)それでも共に生きていく
斎藤幸平については、『新人生の資本論』を読んで、どうにもうさんくさい、という気持ちがぬけない。なぜそう感じるのかというと、主張していることのなかに、自分がその価値観を主張するのは何故なのか、それに、賛成しない人がいるとすればそれは何故なのか、ということについて、自省するところが感じられないからである。よりいっそうたちが悪いと感じるのは、こういうことが分かっていて、あえてしらばっくれているところである。
こういう視点でみるなら、説得力を持たせようとして出した例なのだろうが、死刑制度の有無については、まったくの逆効果であるし、そのことを分かっていながら、そういう主張をおりこんで話しをするというのは、たちが悪い。(死刑制度があるのは、日本だけではない。まるで、世界の日本以外の国では、まったく無いような言い方をしてはいけない。語るべきは、その制度の是非だけではなく、方法、どのような犯罪に対して科されるのかということなどであり、これらを考えれば、そんなに簡単に今の日本の死刑制度を批判はできないはずである。また、死刑に反対=進んでいる、賛成=遅れている、という価値判断が、こっそりとしのびこませてある。あまりに姑息である。)
平等というような理想についても、現実にはどういう状態になったときに、この世の中のすべての人が納得する状態として平等が実現するのか……このことについての共通理解はとても困難である。だからこそ、自分の考える正しさについての自省、それに同意しない他者に対する想像力が必要になる。これは、私の理解するところでは、本来の保守主義の考え方である。そして、実際には、今の社会において、いわゆるリベラルを自称する立場でも、逆に保守を自称する立場でも、非常にかたくなである。
2025年4月1日記
アナザーストーリーズ「「侍タイムスリッパー」超低予算時代劇はこうして誕生した」 ― 2025-04-02
2025年4月2日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 「侍タイムスリッパー」超低予算時代劇はこうして誕生した
今の私は、映画を見に外に出るということがたえてなくなっている。この作品も、かろうじて名前を知っているぐらいである。
たまたまであるが(あるいは、NHKは意図的にそうしたのか)、朝ドラの再放送で『カムカムエヴリバディ』を放送しているし、その前には、『オードリー』の再放送もあった。いずれも、日本映画の時代劇の最盛期から、衰退の時代を、描いている。そこに登場するのは、スターばかりではなく、大部屋俳優たちでもある。
『侍タイムスリッパー』という映画にまつわるドキュメンタリーなのだが、その根底にあるのは、ものをつくることの楽しさ、よろこび、それから、ほこり、ということを知っている人間の気持ちである。それは、切られ役の大部屋俳優であるかもしれないし、衣装や、小道具や、床山の仕事の職人たちかもしれない。それが映画(時代劇)というものを作りあげていく、仕事をすることの充実感というものを、見ていて感じた。
たぶん、この「アナザーストーリーズ」の番組を作っているスタッフにも、劇映画であれ、ドキュメンタリーであれ、映像作品を作る仕事にかかわっている人間としての共感というものがあるのだろうと思う。インタビューの映像から、このことをなんとなく感じるところがあった。
東映の殺陣の道場、これは、『カムカムエヴリバディ』でも出てくるが、画面を見ると壁に神棚がある。街中の剣道の道場にも神棚がある。
福本清三のことは、名前は知っている。その切られ役の場面をたくさん見ているはずなのだが、(おそらく多くの人がそうであるように)特に憶えているということではない。
また、東映では、過去の時代劇作品の小道具や衣装が残してある、というのは驚きであった。これは、なんとか次の時代に継承してもらいたいものである。
時代劇であれなんであれ、人が、ものを作っていく、みんなで一つの作品にかかわっていく、このことの楽しさということが、これからの若い世代の人たちに伝わるといいと思う。
2025年3月28日記
アナザーストーリーズ 「侍タイムスリッパー」超低予算時代劇はこうして誕生した
今の私は、映画を見に外に出るということがたえてなくなっている。この作品も、かろうじて名前を知っているぐらいである。
たまたまであるが(あるいは、NHKは意図的にそうしたのか)、朝ドラの再放送で『カムカムエヴリバディ』を放送しているし、その前には、『オードリー』の再放送もあった。いずれも、日本映画の時代劇の最盛期から、衰退の時代を、描いている。そこに登場するのは、スターばかりではなく、大部屋俳優たちでもある。
『侍タイムスリッパー』という映画にまつわるドキュメンタリーなのだが、その根底にあるのは、ものをつくることの楽しさ、よろこび、それから、ほこり、ということを知っている人間の気持ちである。それは、切られ役の大部屋俳優であるかもしれないし、衣装や、小道具や、床山の仕事の職人たちかもしれない。それが映画(時代劇)というものを作りあげていく、仕事をすることの充実感というものを、見ていて感じた。
たぶん、この「アナザーストーリーズ」の番組を作っているスタッフにも、劇映画であれ、ドキュメンタリーであれ、映像作品を作る仕事にかかわっている人間としての共感というものがあるのだろうと思う。インタビューの映像から、このことをなんとなく感じるところがあった。
東映の殺陣の道場、これは、『カムカムエヴリバディ』でも出てくるが、画面を見ると壁に神棚がある。街中の剣道の道場にも神棚がある。
福本清三のことは、名前は知っている。その切られ役の場面をたくさん見ているはずなのだが、(おそらく多くの人がそうであるように)特に憶えているということではない。
また、東映では、過去の時代劇作品の小道具や衣装が残してある、というのは驚きであった。これは、なんとか次の時代に継承してもらいたいものである。
時代劇であれなんであれ、人が、ものを作っていく、みんなで一つの作品にかかわっていく、このことの楽しさということが、これからの若い世代の人たちに伝わるといいと思う。
2025年3月28日記
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