BSスペシャル「贋作師からの問い “本物”をめぐる思索」 ― 2025-04-16
2025年4月16日 當山日出夫
BSスペシャル 贋作師からの問い “本物”をめぐる思索
本物とは何か、ということと、芸術とは何か、ということ、これは微妙にちがう問題である。その本人の作品であっても、芸術的に劣るものはあるにちがいないし、また、贋作であっても、芸術的に価値のあるもの……そこに美を見出すことのできるもの……が、あることはたしかであろう。このあたり論点の整理をしておかないと、不毛な議論になる。
本人が描いたものであるが、芸術的にはよくないものがあるとしても、それは、その作家がどんな人間であったかを考える上では意味のある資料となる。この意味では、芸術性の有無だけで、すべてが割り切れるものではない。
このような議論の根底には、そもそも美とは何かという、古来よりの問いかけがある。ざっくりいえば、美は作品の中に内在するものである、人間とは独立に存在するものである、という考え方がある。人間がいなくても、美はそこにある。その一方で、美とは人間が何かにふれて感じるとき、人間の内部に生じるものである、現代の言い方をすれば、脳の反応である、ということになる。美は、人間の側が感じるものである。
例えば自然の造形にふれて、そこに美を感じるとしても、そこに、その自然美の作者(=人間の個人)はいない。(あるいは、究極的には神ということも考えられるが。)
また、現代の問題としては、AIが作った数々のアート作品……視覚芸術であり、音楽であり……について、美を感じるとしても、そこに、芸術家という個人の存在はないことになる。こういうものを、芸術作品として認めるかどうかは、今まさに議論のなされているところであると思っている。
今の私の考えることとしては、仮に贋作であったとしても、そこに美を見出すことができるならば、それは芸術作品である。少なくとも、見る人間が、作品の背後に、その作者(人間である)を感じとることができるならば、一概に排除すべきものではない。
その上で、これからの生成AI時代の芸術とは何かということを、より建設的な方向で考えていかなければならないだろう。
このとき、重要になるのが、それが贋作であると分かったとき、あるいは、AIによるものであると分かったとき、人間はどうして冷めてしまうのだろうか。あるいは、だまされた、うさんくさい、というような感情をいだくのであろうか。これはこれで、人間が、芸術作品とか本物とかというものに対して、何をもとめているのか、ということで考えるべきことのように思える。素朴な感情として、人間にとって芸術とは何なのであろうか、ということは考えておくべきであろう。
真贋判定にAIを使うのは、今の時代の流れだろうと思うが、しかし、AIに何を学習させるのか、ということは、改めて検証されなければならないだろう。
番組の中では言っていなかったが、ある画家が、わざと自分の本来の画風とは異なる作風の作品を描いたとして、AIは、それをどう判断することになるのだろうか。抽象画ばかりを描いている画家がいて、その作品(抽象画)だけを学習したAIが、その作家が描いた具象画を、どう判定するのだろうか。
文学の分野においても、贋作問題は昔からある。『源氏物語』の成立の問題であり、西鶴の作品は実際に本人が書いたものなのかをめぐる問題であり、などである。また、前近代の時代においては、芸術作品の多くは、工房というべきところで作られたものがあるはずである。そこに、作者個人の個性を、どう見出すべきかということは、問題になることである。
芸術作品について、それが、近代的な個人の個性に帰するものである、その表現であり、そうあるべきはずだ、というのは、あまりに近代的な芸術観であるというべきかもしれない。芸術を生み出し、受容する、人間の文化の多様なあり方、集団の意識、社会性、というような観点からも、考えてみなければならいことであると、私は思うのである。
2025年4月13日記
BSスペシャル 贋作師からの問い “本物”をめぐる思索
本物とは何か、ということと、芸術とは何か、ということ、これは微妙にちがう問題である。その本人の作品であっても、芸術的に劣るものはあるにちがいないし、また、贋作であっても、芸術的に価値のあるもの……そこに美を見出すことのできるもの……が、あることはたしかであろう。このあたり論点の整理をしておかないと、不毛な議論になる。
本人が描いたものであるが、芸術的にはよくないものがあるとしても、それは、その作家がどんな人間であったかを考える上では意味のある資料となる。この意味では、芸術性の有無だけで、すべてが割り切れるものではない。
このような議論の根底には、そもそも美とは何かという、古来よりの問いかけがある。ざっくりいえば、美は作品の中に内在するものである、人間とは独立に存在するものである、という考え方がある。人間がいなくても、美はそこにある。その一方で、美とは人間が何かにふれて感じるとき、人間の内部に生じるものである、現代の言い方をすれば、脳の反応である、ということになる。美は、人間の側が感じるものである。
例えば自然の造形にふれて、そこに美を感じるとしても、そこに、その自然美の作者(=人間の個人)はいない。(あるいは、究極的には神ということも考えられるが。)
また、現代の問題としては、AIが作った数々のアート作品……視覚芸術であり、音楽であり……について、美を感じるとしても、そこに、芸術家という個人の存在はないことになる。こういうものを、芸術作品として認めるかどうかは、今まさに議論のなされているところであると思っている。
今の私の考えることとしては、仮に贋作であったとしても、そこに美を見出すことができるならば、それは芸術作品である。少なくとも、見る人間が、作品の背後に、その作者(人間である)を感じとることができるならば、一概に排除すべきものではない。
その上で、これからの生成AI時代の芸術とは何かということを、より建設的な方向で考えていかなければならないだろう。
このとき、重要になるのが、それが贋作であると分かったとき、あるいは、AIによるものであると分かったとき、人間はどうして冷めてしまうのだろうか。あるいは、だまされた、うさんくさい、というような感情をいだくのであろうか。これはこれで、人間が、芸術作品とか本物とかというものに対して、何をもとめているのか、ということで考えるべきことのように思える。素朴な感情として、人間にとって芸術とは何なのであろうか、ということは考えておくべきであろう。
真贋判定にAIを使うのは、今の時代の流れだろうと思うが、しかし、AIに何を学習させるのか、ということは、改めて検証されなければならないだろう。
番組の中では言っていなかったが、ある画家が、わざと自分の本来の画風とは異なる作風の作品を描いたとして、AIは、それをどう判断することになるのだろうか。抽象画ばかりを描いている画家がいて、その作品(抽象画)だけを学習したAIが、その作家が描いた具象画を、どう判定するのだろうか。
文学の分野においても、贋作問題は昔からある。『源氏物語』の成立の問題であり、西鶴の作品は実際に本人が書いたものなのかをめぐる問題であり、などである。また、前近代の時代においては、芸術作品の多くは、工房というべきところで作られたものがあるはずである。そこに、作者個人の個性を、どう見出すべきかということは、問題になることである。
芸術作品について、それが、近代的な個人の個性に帰するものである、その表現であり、そうあるべきはずだ、というのは、あまりに近代的な芸術観であるというべきかもしれない。芸術を生み出し、受容する、人間の文化の多様なあり方、集団の意識、社会性、というような観点からも、考えてみなければならいことであると、私は思うのである。
2025年4月13日記
サイエンスZERO「イカはいかに生きるか?驚異の生存戦略に迫る」 ― 2025-04-16
2025年4月16日 當山日出夫
サイエンスZERO イカはいかに生きるか?驚異の生存戦略に迫る
内容はとても面白いのだが、今一つはっきりしないと感じるところがある。それは、色とか形を、人間の目で見て判断している、ということである。もし、イカどうしが体の色や模様の変化で、お互いにコミュニケーションしているとするならば、それが、イカの目や脳では、どのように見えているか、という議論が絶対に必要になるはずである。また、自然界の天敵であるような、他の生きものには、どう見えているのか、ということになる。少なくとも、実験や観察を、人間の目の可視光線の範囲で考えることは、どうなのだろうかと思う。
また、イカは、自分の周囲のものの色をどう見ているのだろうか。イカの目の構造と、色彩や形の認識がどうなっているのか、非常に気になる。
色彩については、見えている色の中身……どのような色として認識しているか……ということは、きわめて難しい問題である。直感的、常識的には、人間は同じ光を同じ色として認識していると考えて、まず間違いはないだろうが、しかし、究極的にそれが同じであると言うことは、かなり難問である。今なら、脳の反応が同じだから、同じ色を見ているということが、実験できれば、そういうことになりそうだが、それでも、人の(あるいは、生物の)意識の内側を直接観察することはできない。このあたりのことは、色彩学については、ヴィトゲンシュタインの書いたものがあることにはなる。
超個体視覚、超個体生命、という考え方は興味深い。動物の社会性ということを考えるときに、その種として、どう生きのびるのかということが、最重要な課題であるならば、これも一つの進化の結果ということになるのだろう。
2025年4月14日記
サイエンスZERO イカはいかに生きるか?驚異の生存戦略に迫る
内容はとても面白いのだが、今一つはっきりしないと感じるところがある。それは、色とか形を、人間の目で見て判断している、ということである。もし、イカどうしが体の色や模様の変化で、お互いにコミュニケーションしているとするならば、それが、イカの目や脳では、どのように見えているか、という議論が絶対に必要になるはずである。また、自然界の天敵であるような、他の生きものには、どう見えているのか、ということになる。少なくとも、実験や観察を、人間の目の可視光線の範囲で考えることは、どうなのだろうかと思う。
また、イカは、自分の周囲のものの色をどう見ているのだろうか。イカの目の構造と、色彩や形の認識がどうなっているのか、非常に気になる。
色彩については、見えている色の中身……どのような色として認識しているか……ということは、きわめて難しい問題である。直感的、常識的には、人間は同じ光を同じ色として認識していると考えて、まず間違いはないだろうが、しかし、究極的にそれが同じであると言うことは、かなり難問である。今なら、脳の反応が同じだから、同じ色を見ているということが、実験できれば、そういうことになりそうだが、それでも、人の(あるいは、生物の)意識の内側を直接観察することはできない。このあたりのことは、色彩学については、ヴィトゲンシュタインの書いたものがあることにはなる。
超個体視覚、超個体生命、という考え方は興味深い。動物の社会性ということを考えるときに、その種として、どう生きのびるのかということが、最重要な課題であるならば、これも一つの進化の結果ということになるのだろう。
2025年4月14日記
ブラタモリ「伊勢神宮への旅・第二夜▼鈴鹿名物グルメ!タモリ大興奮の三差路」 ― 2025-04-16
2025年4月16日 當山日出夫
ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第二夜▼鈴鹿名物グルメ!タモリ大興奮の三差路
伊勢路の二回目である。
神戸の宿の宿屋であるが、まあ、宿場町の宿屋には、性サービスの女性たちがいたことは、ごく普通のことだったはずである。とはいえ、今に残っている建物で、その痕跡……格子のある通りに面した小部屋……が、残っているというのは、これは貴重なものだろうと思う。(今の時代、かつての遊廓などの建築がどんどん廃墟になり、消えていっている。かつて、こういうものがあったということは、形として残しておいていいことだと、私は思う。)
鈴鹿サーキットが、台地のはしっこ部分の自然の地形を利用して作ってあるので、ああいうコースになっている、ということは始めて知った。遊園地もある。我が家からだと、ちょっと距離があるが、決して行けない距離のところではない。
2025年4月15日記
ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第二夜▼鈴鹿名物グルメ!タモリ大興奮の三差路
伊勢路の二回目である。
神戸の宿の宿屋であるが、まあ、宿場町の宿屋には、性サービスの女性たちがいたことは、ごく普通のことだったはずである。とはいえ、今に残っている建物で、その痕跡……格子のある通りに面した小部屋……が、残っているというのは、これは貴重なものだろうと思う。(今の時代、かつての遊廓などの建築がどんどん廃墟になり、消えていっている。かつて、こういうものがあったということは、形として残しておいていいことだと、私は思う。)
鈴鹿サーキットが、台地のはしっこ部分の自然の地形を利用して作ってあるので、ああいうコースになっている、ということは始めて知った。遊園地もある。我が家からだと、ちょっと距離があるが、決して行けない距離のところではない。
2025年4月15日記
買い物カゴから世界が見える「メキシコ」 ― 2025-04-16
2025年4月16日 當山日出夫
買い物カゴから世界が見える メキシコ
メキシコの北部の平野部にある、地方都市のスーパーマーケットということなのだろうと思う。
メキシコについては、あまり知識がない。はっきりいってあまり良いイメージがない。今は、貿易や移民などで、アメリカと対立する立場にある国であり、また、麻薬とマフィアの国である、という印象がどうしてもある。(これはこれで、偏った印象であるにはちがいないが、一般に、ニュースなどで伝えられるメキシコのことは、あまりいいことばかりではない。)
当たり前だが、普通にくらしている人たちがいて、普通に買物をしている、ということである。だが、それが、どこか新鮮なメキシコのイメージということになるのは、これまでのメキシコについて、かたよった見方をしていたということになるだろう。
サボテンを食べる、ということは日本でも一部であることだが、ここでは、それが普通らしい。それから、お昼ご飯が2時ごろで、それまでの軽い食事として、サンドイッチを食べる、そのためのフランスパンがたくさん売れる、こういうことは始めてしった。
内陸部の都市ということもあるのだろうが、お魚が出てきていなかった。
レジは、日本のようにセルフレジではない。これは、日本が特殊なのだろうか。
2025年4月15日記
買い物カゴから世界が見える メキシコ
メキシコの北部の平野部にある、地方都市のスーパーマーケットということなのだろうと思う。
メキシコについては、あまり知識がない。はっきりいってあまり良いイメージがない。今は、貿易や移民などで、アメリカと対立する立場にある国であり、また、麻薬とマフィアの国である、という印象がどうしてもある。(これはこれで、偏った印象であるにはちがいないが、一般に、ニュースなどで伝えられるメキシコのことは、あまりいいことばかりではない。)
当たり前だが、普通にくらしている人たちがいて、普通に買物をしている、ということである。だが、それが、どこか新鮮なメキシコのイメージということになるのは、これまでのメキシコについて、かたよった見方をしていたということになるだろう。
サボテンを食べる、ということは日本でも一部であることだが、ここでは、それが普通らしい。それから、お昼ご飯が2時ごろで、それまでの軽い食事として、サンドイッチを食べる、そのためのフランスパンがたくさん売れる、こういうことは始めてしった。
内陸部の都市ということもあるのだろうが、お魚が出てきていなかった。
レジは、日本のようにセルフレジではない。これは、日本が特殊なのだろうか。
2025年4月15日記
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