国語語彙史研究会(117回)に行ってきた2017-12-11

2017-12-11 當山日出夫(とうやまひでお)

土曜日(12月9日)は、第117回の国語語彙史研究会。近畿大学(東大阪)であったので、行ってきた。

たまたま子供が仕事が休みで、遊びに行くので、そのついでに駅まで一緒。ちょっと時間が早めになったが家を出る。我が家からだと、八戸ノ里から行くことになる。各停しか止まらないのが、ちょっと不便であるが。

早い目について、大学の近所のファミレスで昼食。コーヒーを飲んでから、大学へ。行ってみると実にきれいなキャンパスである。(これと比べると、京都の国立の大学など、スラムのように見えてくる・・・)

発表は、いつものように三件。今回も、ある程度、研究発表の経歴をつんだ人の発表だったので、それぞれに勉強になった。

漠然とした印象を書いておくならば……いい発表というのは、いい「問い」の立て方をしている発表である。「答え」として、鮮やかにきれいな結果を出す、ということもあるが、それよりも、この文献、このことば、この資料に、こんな見方があったのか、と気付かせてくれるような発表がいい。

終わって懇親会。新しく建物をつくっているキャンパスである。できたばかりの話題の図書館の中であった。ホテルのラウンジかと思うような会場。そのせいか、(それから、参加者が予定より少なかったせいか)、会費がいつもよりも高かった。

帰りも八戸ノ里まで歩いた。たまに外に出て、コンクリートやアスファルトの上を歩くと、つかれる。が、翌日は、いつものとおりに起きて、子供を仕事に駅まで送っていく。

次回は、来年の4月、大阪大学でとのこと。

『おんな城主直虎』あれこれ「本能寺が変」2017-12-12

2017-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年12月10日、第49回「本能寺が変」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story49/

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月5日
『おんな城主直虎』あれこれ「信長、浜松来たいってよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/05/8742156

今回は、タイトルのとおり本能寺の変。でも、本能寺のことは、ほとんど出てこなかった。「人間五十年・・・」もなかった。なんだか変な本能寺の変であった。合戦場面を描かない、このドラマの方針としては、これはこれで一つのあり方ではあるのだろうが。

そのかわりに描いていたのが、徳川家康の伊賀越え。これもまた、虚実いりまじって、どこまで誰が本当のことを言っているのかわからないままに終わってしまった。

そして、直虎(おとわ)と龍雲丸の堺での再会。龍雲丸は分かれて堺に行ってしまったのだが、その後のことが出てきていなかった。それが、この最終盤になって、堺での再会となっていた。そして、家康を無事に三河に返すための画策にかかわることになる。このあたり、どうせフィクションなんだろうと思うが、それなりに説得力のある構成だったと思う。たぶん、堺のシーンは無いだろうと思っていたのだが、意外であった。

このドラマも最終になって……井伊の家は、まるで徳川の臣下である。井伊谷という地方の国衆ではなくなっている。直虎(おとわ)も、徳川が天下を取ることを望んで行動している。徳川の家臣としての井伊というものが、ここから確立することになるのであろう。

ところで、最後のシーンで出てきた少年。明智の子。ドラマも後最終回を残すのみとなっているのだが、この子供の決着をどうつけるのだろうか。

今回は、ネコがちょっとだけ、最初の方で登場していた。次回、最終回も登場するだろうか。

追記 2017-12-19
この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月19日
『おんな城主直虎』あれこれ最終回「石を継ぐ者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/19/8750996

もみじ2017-12-13

2017-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、花ではなく紅葉である。

「紅葉」と書いて「もみじ」と読む。用法には基本的に二つある。

第一には、秋になって木々の葉っぱが色づくことの一般である。
第二には、カエデのことをさす。

これは知っていたことだが、例によって、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。すると、紅葉一般を指す用法は、古く万葉集からある。これは、納得できる。ところが、カエデのことを「もみじ」というようになったのは、ごく最近のようだ。

2として、「楓(かえで)、または楓の葉をいう。」の用例であがっているのは、

小学読本(1874)と、浮雲(1887〜89)である。明治7年と、明治20~22年、ということになる。近代になってからの用法であることがわかる。意外と、このカエデの意味で「もみじ」というのは、新しい使い方である。

写真にとってみたのは、我が家の近所のカエデ。カエデといっても、いろいろ種類がある。その詳しいことまでは不案内である。早いものは、10月下旬ごろに色づく。おそいものは、12月になっても、まだ葉が残っている。

カエデの種類まで、図鑑で調べるのはちょっと大変かなと思うが、来年は、もう少しこまめに観察して、いろいろと見ていって、写真に撮ってみようかと思っている。

モミジ

モミジ

モミジ

モミジ

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

『文学問題(F+f)+』山本貴光(その二)2017-12-14

2017-12-14 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年12月9日
『文学問題(F+f)+』山本貴光
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/09/8745142

この本は、三部構成である。その第二部は、

『文学論』で読む世界文学

取り扱われている作品は、以下の10作品。多くはないので、書いてみる。

1.『ギルガメシュ叙事詩』
2.ホメロス『イリアス』
3.李白「客中作」
4.『アラビアンナイト』
5.紫式部『源氏物語』
6.アンドレ・ブルトン『溶ける魚』
7.ジェームス・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
8.イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
9.リディア・デイヴィス「フーコーとエンピツ」
10.円城塔「Boy's Surface」

はっきりいって、知らなかった作品、作家もある。ともあれ、古今東西の文学をとりあげて、それが、漱石の「F+f」で読み解けるかどうか試みている。

それが成功しているかどうかであるが……これは、どうも判断が難しい。何しろ、始めて読む、名も知らない作家の作品を示されて、それが「F+f」でどうかと言われても、ちょっと困惑してしまう、というのが正直なところ。

とはいえ、このような文学の読み方があり得るということは、この本の示したかったところなのであろう。私たちが文学を読むとき、何を感じているのか、どのようなプロセスで、文学を読んだということになるのか、それを「F+f」という公式をつかって、解き明かしてみた、そのチャレンジとみればいいだろうか。

もちろん、「翻訳」という問題もある。李白「客中作」は訓読読み下しである。また、『源氏物語』は原文(翻刻、校訂文)であるが、現代語訳も参考までに脚注に書いてある。

『源氏物語』であるが、日本文学研究の立場からの源氏論はふまえて書いているとは思われるが、読んで興味ぶかかった。登場人物の心中思惟、会話、行動の描写が、第三者視点から描かれる……これは、日本文学研究の立場からすれば、女房の視点、ということになるのだろう。日本文学研究を専門とするのではない別の立場から見ての源氏物語の文章論として、面白いと思って読んだ。

ともあれ、「F+f」はあまりにも抽象的な概念規定である。であるが故に、漱石のこの定義が、ほとんどの文学……漱石の時代の以前はもちろんのこと、現代の文学にいたるまで……において、なにがしか適用できてしまう。これを漱石の慧眼とみるか、大風呂敷とみるかは、読者の判断の分かれるところかもしれない。だが、少なくとも、文学一般というものを「F+f」で考えてみることの、有効性の検証ということには、成功しているのではないか。また、博識な著者(山本貴光)による、文学の読解案内として読んでも、面白い。

自分が文学作品を読んで、その時に感じ取っているものは何であるのか……この点について、「F+f」をわきにおいて、ふと考えてみる価値はあると思うのである。

追記 2017-12-15
この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月5日
『文学問題(F+f)+』山本貴光(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/15/8748537

『文学問題(F+f)+』山本貴光(その三)2017-12-15

2017-12-15 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年12月14日
『文学問題(F+f)+』山本貴光(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/14/8747924

この本の第三部は、「来たるべき『文学論』へ向けて」である。

まず、第一章で、『文学論』以外の文学論、として、漱石の『文学論』の他に、どのように文学について述べているかが、概観される。その中には『草枕』もはいっている。

第二章は、この百年の文学理論、である。漱石の『文学論』が出てから、今日までに、世界でどのような文学についての理論的な考察、論考がなされているか、その紹介。

第三章は、『文学論』再検討。他の文学についての理論的著作を見たうえで、さらに『文学論』について、論じてある。「F+f」では論じきれない、その他の要素についての考察と見ればいいだろうか。

第四章が、来たるべき『文学論』。これが、この本の一番の眼目だろうか。私の読んだ感想としては、この本の第一部の『文学論』の読解と、最後のこの章が、一番面白かった。

著者(山本貴光)の言わんとするところを、私なりに理解して、パラフレーズするならば……文学、それを、人文学一般と拡大解釈してもかまわないかもしれない……それが、何の役にたつのか、についての問いかけになっている。

私の理解では、文学……かなり広義に解釈しておくのだが……これは、人間にとっての〈環境〉なのである。人間は、文化的な存在である。その生まれ育った、文化的な〈環境〉のなかで、自己形成をなし、判断し、行動し、また、考えるところがある。それは、あたかも、地球や宇宙という自然的な〈環境〉のなかに人間がいるのと同じようにとらえることができるだろう。

生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける……このことばを、著者はつかってはいない。しかし、この本を読んだとき、私の脳裏に去来したのは、日本の古典を定位したこの宣言である。人間が人間として生きているかぎり、文学、さらに言い換えるならば、文化的〈環境〉のなかで生きていかざるをえない。

であるならば、その〈環境〉を、理論的に考察する「一般的文学論」が、存在する意義がある。

ここで〈環境〉ということばをつかって私の理解を示してみたが、どうであったであろうか。この『文学問題(F+f)+』は、究極的には、今日の社会にあって、人文学とはなんであるかの問いかけと、それに対する、著者なりの答えを示したものとして、私は読んだのである。

これが、この本の私なりの「F+f」である。

『北原白秋詩集』(岩波文庫)2017-12-16

2017-12-16 當山日出夫(とうやまひでお)

安藤元雄(編).『北原白秋詩集』(上・下)(岩波文庫).岩波書店.2007
https://www.iwanami.co.jp/book/b249186.html
https://www.iwanami.co.jp/book/b249187.html

川本三郎の『白秋望景』を読んだのは去年のことになる。

やまもも書斎記 2016年11月27日
川本三郎『白秋望景』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/27/8261192

ほぼ一年前のことである。その後、岩波文庫版の『白秋詩抄』など手にとったりしていた。

最近読んだ本として、『あの頃、あの詩を』がある。

やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826

中学・高校生のころ、また、大学生になってから読んだような詩集など読み返してみたくなった。『赤光』(斎藤茂吉)については、すでに触れた。

やまもも書斎記 2017年12月8日
『赤光』斎藤茂吉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/08/8744535

やはり私にとって、近代の詩人というと、北原白秋、それから、萩原朔太郎あたりになるだろうか。岩波文庫版で北原白秋詩集が出ているので、読んでみた。

これは、最初から順番に律儀に読んでいった。普通、詩集を読むとき、これまで順番に読むということをしてこなかった。ページをくりながら目にとまった詩を読むという感じで読んできた。だが、ここにきて、「詩集」という編纂されたものを読みたいという気になってきている。

岩波文庫版の『北原白秋詩集』(上下)は、初出によっている。基本的に抄出であるが、『思ひ出』は全部がおさめられている。

読んで感じたがことは……先に川本三郎の本を読んでいたせいもあるのだろう、この詩は、いつごろ、どこに住んでいたころの詩か、ということが頭の中でイメージとしてうかんでくる。無論、最初は柳河である。そして、東京、三浦半島、小田原、それから、小笠原など、白秋の人生が、詩集を順番に読んでいきながら、頭のなかにうかんでくる。

そして、人生の転機をむかえて変化していく、その詩風を味わうことになる。

通読してみて感じることは、やはり、最初の『邪宗門』がいい。この詩集の言葉の魔力には、今も心引かれるものがある。それから、これは川本三郎も指摘していたと思うが、近代の憂愁とでもいうべきものが、その作品のいくつかに感じ取ることができる。

今、私たちは、『邪宗門』に見られるような、幻惑的な言葉の魔力というものをもっているだろうか。言葉というものが、これほどまでになまめかしく、人を蠱惑するするものであることを、実感できる詩を他にもっているだろうか。これは、北原白秋という詩才において開花した、日本近代詩のなかの、一時の奇跡のようなものなのかもしれない。

私も年をとったと思うこのごろであるが、それでも、北原白秋の初期の作品を読んで、こころときめくものが残っていることを感じる。読書の楽しみとは、こういうところにあるのだろうと感じる次第でもある。

『わろてんか』あれこれ「われても末に」2017-12-17

2017-12-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第11週「われても末に」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/11.html

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月10日
『わろてんか』あれこれ「笑いの神様」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/10/8745679

この週も、見どころは、団吾、団真、お夕、この三人のドラマであった。

本来のこのドラマの筋……てんと藤吉の物語……からすれば、傍流に位置することになるのだろうが、先の週からこの週にかけては、この傍流の物語が、実に好かった。

放蕩無頼に生きるように見えて、芸への精進を怠らない団吾、その生き方は刹那的でもある。生け花のシーンがよかった。そして、芸の才能があるのかないのかよくわからないが、しかし、どことなく人間味があり苦悩する団真。さらには、この二人の男性の間にあって、哀切きわまりない心情を見事に演じていたお夕。この三人のドラマは、好かったと思う。

それに比べると、てんと藤吉の夫婦は、まるでコントである。万丈目たちの芸人はコントでいいのだが、しかし、コントとして見ても面白くない。役者さんは、がんばっているとは思うのだが。

お夕(中村ゆり)のしっとりとした情感に満ちた姿とくらべると、てん(葵わかな)が、かわいそうな気がするほどである。確かに一生懸命にやっていることは伝わってくるのだが、ドラマの中で空回りしている印象がある。

ところで、お夕を演じた中村ゆり。来年の正月のドラマで出る。『平成細雪』で、四女の妙子の役である。中村ゆりは、これまでの朝ドラでは、『おひさま』とか『花子とアン』にも出てきていたかと覚えている。今回もそうだが、薄幸な運命にある若い女性を演じさせると、その雰囲気がなんともいえない。

平成細雪
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=12299

さて、『平成細雪』では、どんな妙子の姿を見せてくれるだろうか。今では、『わろてんか』の行く末よりも、来年のドラマの方が気になっている。
追記 2017-12-24

この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月24日
『わろてんか』あれこれ「お笑い大阪 春の陣」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/24/8754088

『萩原朔太郎詩集』(岩波文庫)2017-12-18

2017-12-18 當山日出夫(とうやまひでお)

三好達治(選).『萩原朔太郎詩集』(岩波文庫).岩波書店.1952(1981.改版)
https://www.iwanami.co.jp/book/b249251.html

北原白秋の詩集の次に手にしてみたのは、萩原朔太郎。ともに、高校生のころに親しんだ詩人である。

自分で詩を書こうとは思わなかったが、しかし、詩というものを読んで、なにがしか感じるところはあった。その当時の文庫本とか、あるいは、「日本の詩歌」(中央公論社)などで読んだものである。

私は、近代の詩の歴史にはまったく不案内であるのだが……これは、日本語の歴史的研究という立場にいる人間として、やはり問題があるのだと思う。通常の研究などで、詩をあつかうことはまずないのであるが、近代の日本語の歴史、また、ことばというものに何を感じるか、という点から考えて、詩がわかるということは、重要な意味があると思っている。

萩原朔太郎であるが……近代詩に不案内な私の読んだ範囲でいっても、日本の近代詩のピークにあるといっていいのではないだろうか。いわゆる「近代の憂愁」とでもいうべきものがみなぎっている。全編これ詩である。

なかでいいと思うのは、『月に吠える』と、それから、『郷土望景詩』であろうか。再読するのは数十年ぶりになるかもしれない。それでも、「竹」など読むと、昔の高校生のころの思い出がよみがえる。たしか、学校の教科書にも載っていた。文庫本の詩集など買って読んだのは、それからだったろうか。

それから、晩年の『郷土望景詩』の文語調の硬質な叙情性にひかれる。近代社会の中に生きる孤独な人間の魂の声が聞こえてくるようである。

近代日本語の歴史、それは、平明な論理的な文章を構築していった歴史ととらえることもできるだろう。歴史的な日本語史研究では、このような側面を重視することになる。が、その一方で、萩原朔太郎のような凛烈な叙情性をも表現しうるものにもなっていった。

萩原朔太郎が活躍した時代は、大正時代がメインになる。その時代の日本の小説は、漱石や鴎外の晩年であり、芥川竜之介などが活躍をはじめ、また、白樺派の作家の登場してきた時代でもある。この時代、平明な論理性の文章と併行して、萩原朔太郎のような極めて繊細なそして強固な叙情性のある詩も書かれていた。

大正時代といってみたが、広義にとらえるならば、日露戦争が終わってから、昭和戦前の日中戦争までの時代、このように考えてもいいかもしれない。この時代の日本の文学、それを、散文・小説に限らず、詩歌・短歌・俳句などをふくめて、総合的に考えてみる必要があるように思っている。

ともあれ、萩原朔太郎の詩は、近代的叙情性……それは、まさに近代という時代の生きた人間のきしみのようなものかもしれないが……今、21世紀になっても、なお読み継がれる価値のあるものである。

『おんな城主直虎』あれこれ最終回「石を継ぐ者」2017-12-19

2017-12-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年12月17日、最終回「石を継ぐ者」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story50/

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月12日
『おんな城主直虎』あれこれ「本能寺が変」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/12/8746748

最終回を迎えて、結局このドラマで描いたのは、井伊谷の井伊から、徳川の井伊へという、大きな流れであったことが分かる。井伊谷の井伊は、直虎(おとわ)で終わる。次の直政からは、徳川の井伊になる。

思い起こせば、最初の回は「井伊谷の少女」であった。井伊谷という土地に生まれた、国衆の娘、おとわ、その成長の物語としてはじまった。今川、徳川、などとの関係のなかで、おとわは直虎になり、井伊谷の土地で生きていくとともに、最後には、徳川の家臣としての井伊家をつくりだすことになる。

総じて見れば、井伊谷という郷土に対するパトリオティズムから、日本という国へのナショナリズムへの橋渡しということになるのかもしれない。ナショナリズムというのが言い過ぎならば、徳川の泰平の世といってもいいだろうか。そして、奇しくも、江戸幕府の最後に幕閣として辣腕を振るうのが、井伊直弼であるというのも、また歴史の偶然かもしれないが興味深い。

さらに蛇足を書けば、このドラマで、前年の『真田丸』と、最後の方で時代が重なっている。遡って『真田丸』になり、徳川の世になって、そして、最後はその徳川もたおれる。

来年の大河ドラマは、西郷隆盛である。徳川を倒した人間を描くことになる。期せずしてこうなったということなのかもしれないが、この一連のドラマの続き方は面白い。

ところで、このドラマを最後まで見てきて、すべての回に出演していたのは、おとわ(直虎)を除けば、ネコ和尚であったことに気付く。そして、井伊谷の井伊から徳川の井伊になっても、龍潭寺は存続していくことになる。龍潭寺はある意味で〈アジール〉的存在といってもいいかもしれない。その龍潭寺は、今日まで存続しているようである。まさに、歴史とともに生きてきた寺である。

また、前作『真田丸』と異なる点としては、龍雲丸のような、いわば自由の民とでもいうべき登場人物の出ていたこと。武士=支配者、農民=被支配者、という枠組みではない設定をしたところも、新鮮であったというべきである。

最後にネコが出てきていた。ネコが直虎のすべてを見ていたということであろうか。

赤い山茶花2017-12-20

2017-12-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。山茶花の赤い花である。

山茶花については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2017年11月29日
山茶花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/29/8736631

この時の写真は、薄紅の花の種類であった。我が家の駐車場の傍らにある木なのだが、この薄紅の花のとなりで赤い花をつけている。咲くのは、すこし時期がおくれるようだ。

色が赤いので椿かなと思ってみていたのだが、WEBで山茶花であると教えてもらった。そういわれて観察してみると、葉っぱの形状、幹の様子が同じである。

これも、つぼみの状態、ちょっと花が開いた状態など、いくつか写してみた。どうも、この木の花は、植え込みの奥の方で花が咲いていたり、木の下の方に下向きに花をつけていたりする。写真にとるには、ちょっと難しい。

なお、薄紅、赤の山茶花の木のとなりにもう一本の木がある。これも花を咲かせる。まだ咲いていない。これは、椿だろうと思って見ている。

椿の木は、我が家にいくつかある。そのうち花が咲いたら写真に撮ろうと思っている。

サザンカ

サザンカ

サザンカ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR