『フラニーとズーイ』村上春樹訳 ― 2019-09-14
2019-09-14 當山日出夫(とうやまひでお)

J.D.サリンジャー.村上春樹(訳).『フラニーとズーイ』(新潮文庫).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/205704/
続きである。
やまもも書斎記 2019年9月13日
『象工場のハッピーエンド』村上春樹・安西水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/13/9152879
この本は、新潮文庫オリジナルの新訳である。そして、この本だけの特設HPがある。
https://www.shinchosha.co.jp/fz/
ここから、村上春樹のこの作品についての解説を読むことができる。これをよむと、サリンジャーは、自分の作品の翻訳は許可しても、それに解説を加えることを許さなかったらしい。だから、この文庫本には、解説がついていない。訳者のあとがきのようなものもない。そのかわり、ちょっと小さなパンフレットがはさみこんである。それが、いわば、訳者の後書き、解説のようになっている。本についているのは、短くしたバージョン。長めの文章が、上記の新潮社のHPで読めるようにしてある。
この作品が発表されたのは、半世紀以上も前のことになる。これだけ時間がたってみると、この作品の書かれた時代背景とか、作者についての解説が必要になってくる。サリンジャーの著作権はまだ切れていないので、翻訳に解説をつけるわけにはいかない。しかし、今の時代は、インターネットの時代である。新潮社のHPに、その解説を掲載することが可能になっている。
ところで、読んでみての印象であるが……村上春樹は、この作品を非常に高く評価している。その評価しているところについては、どうも共感するところがなく読んでしまった。といって、面白くなかったというのではない。私なりには、面白く読んだ作品になる。
読んで思ったことなど書いて見る。二つほどあげる。
第一には、この作品を語る「メタ」な視点の設定である。
このことについては、訳者の村上春樹の解説の文章でも言及がある。作品の第二部の「ズーイ」の冒頭で、「作者」が顔を出している。そして、作品の終わりの方でも、ちょっと顔を見せている。
なぜ、「ズーイ」の部分の冒頭に、「作者」が出てくるのか……アメリカ文学について専門知識のない私としては、よくわからないところであるが、しかし、このような部分があることによって、「フラニー」の部分、そして、「ズーイ」の部分が、より深みを増して読者に訴えかけることになることは理解できる。
第二は、宗教についてである。
この小説は、ある意味で宗教小説とでもいうべき様相をもっている。東洋の宗教、哲学、それから、キリスト教について、議論がかわされるし、引用も多い。
この部分、村上春樹の解説によれば、この作品の書かれた当時のアメリカの社会を反映したものらしい。だが、そのような知識をぬきにして読んで見て、私には、この議論の部分が面白く読めた。二一世紀の今日になって、作品が書かれてから半世紀以上たって、ふたたび、宗教、それも、西洋のキリスト教と、東洋の宗教、これらを総合して考えることのできる地点にたっていると言えるかもしれない。
たぶん、二〇世紀から二一世紀にかけての、宗教史、宗教学について専門的知識のあるひとが、この作品を読むと、またちがった解釈ができるのかもしれないと思う。
以上の二点が、読んで思ったことなどである。
さらに付け加えるならば、登場人物のフラニーもズーイも魅力的な人物造形なっている。特に、私としては、最初にでてくるフラニーという女性……というよりも、女の子とでも言った方がいいだろうが……が、魅力的にうつる。
さて、次は、気分を変えて、『村上朝日堂』を読むことにする。
https://www.shinchosha.co.jp/book/205704/
続きである。
やまもも書斎記 2019年9月13日
『象工場のハッピーエンド』村上春樹・安西水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/13/9152879
この本は、新潮文庫オリジナルの新訳である。そして、この本だけの特設HPがある。
https://www.shinchosha.co.jp/fz/
ここから、村上春樹のこの作品についての解説を読むことができる。これをよむと、サリンジャーは、自分の作品の翻訳は許可しても、それに解説を加えることを許さなかったらしい。だから、この文庫本には、解説がついていない。訳者のあとがきのようなものもない。そのかわり、ちょっと小さなパンフレットがはさみこんである。それが、いわば、訳者の後書き、解説のようになっている。本についているのは、短くしたバージョン。長めの文章が、上記の新潮社のHPで読めるようにしてある。
この作品が発表されたのは、半世紀以上も前のことになる。これだけ時間がたってみると、この作品の書かれた時代背景とか、作者についての解説が必要になってくる。サリンジャーの著作権はまだ切れていないので、翻訳に解説をつけるわけにはいかない。しかし、今の時代は、インターネットの時代である。新潮社のHPに、その解説を掲載することが可能になっている。
ところで、読んでみての印象であるが……村上春樹は、この作品を非常に高く評価している。その評価しているところについては、どうも共感するところがなく読んでしまった。といって、面白くなかったというのではない。私なりには、面白く読んだ作品になる。
読んで思ったことなど書いて見る。二つほどあげる。
第一には、この作品を語る「メタ」な視点の設定である。
このことについては、訳者の村上春樹の解説の文章でも言及がある。作品の第二部の「ズーイ」の冒頭で、「作者」が顔を出している。そして、作品の終わりの方でも、ちょっと顔を見せている。
なぜ、「ズーイ」の部分の冒頭に、「作者」が出てくるのか……アメリカ文学について専門知識のない私としては、よくわからないところであるが、しかし、このような部分があることによって、「フラニー」の部分、そして、「ズーイ」の部分が、より深みを増して読者に訴えかけることになることは理解できる。
第二は、宗教についてである。
この小説は、ある意味で宗教小説とでもいうべき様相をもっている。東洋の宗教、哲学、それから、キリスト教について、議論がかわされるし、引用も多い。
この部分、村上春樹の解説によれば、この作品の書かれた当時のアメリカの社会を反映したものらしい。だが、そのような知識をぬきにして読んで見て、私には、この議論の部分が面白く読めた。二一世紀の今日になって、作品が書かれてから半世紀以上たって、ふたたび、宗教、それも、西洋のキリスト教と、東洋の宗教、これらを総合して考えることのできる地点にたっていると言えるかもしれない。
たぶん、二〇世紀から二一世紀にかけての、宗教史、宗教学について専門的知識のあるひとが、この作品を読むと、またちがった解釈ができるのかもしれないと思う。
以上の二点が、読んで思ったことなどである。
さらに付け加えるならば、登場人物のフラニーもズーイも魅力的な人物造形なっている。特に、私としては、最初にでてくるフラニーという女性……というよりも、女の子とでも言った方がいいだろうが……が、魅力的にうつる。
さて、次は、気分を変えて、『村上朝日堂』を読むことにする。
追記 2019-09-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月16日
『村上朝日堂』村上春樹・安西水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/16/9154069
この続きは、
やまもも書斎記 2019年9月16日
『村上朝日堂』村上春樹・安西水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/16/9154069
追記 2019-09-18
この続き(翻訳)は、
やまもも書斎記 2019年9月18日
『人生のちょっとした煩い』グレイス・ペイリー/村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/18/9154935
この続き(翻訳)は、
やまもも書斎記 2019年9月18日
『人生のちょっとした煩い』グレイス・ペイリー/村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/18/9154935
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