「この世をばわが世とぞ…? 〜藤原道長 平安最強の権力者の実像〜」2024-01-03

2024年1月3日 當山日出夫

英雄たちの選択 この世をばわが世とぞ...? 〜藤原道長 平安最強の権力者の実像〜

『光る君へ』の放送開始を前にしての再放送。二〇二一年のものである。二〇二一年というと、『光る君へ』のことは、まだオープンになっていなかった時期のことであるから、それとは無関係に作った企画の番組ということになる。

興味深かったのは、倉本一宏の言っていたこと……道長の時代は、古代の終わりであると同時に中世のはじまりである。なるほど言われてみればそうかと思う。このあたりは、平安時代の中期から後期、ちょうど藤原氏の摂関政治の時代、平安貴族の王朝文化の時代、女房文学の時代、このような時代を日本史全体の流れのなかでどう考えるかというところにつながっていくことになる。

「この世をば……」の歌についてであるが、いろんな解釈ができるだろう。かなり天邪鬼な読み方かもしれないが、この歌の根底には無常感があると感じる。月はかならず欠けるものである、それと同じように、今栄華をほこっている自分もいずれはこの世から去っていくことになる……このような感慨をどこか感じてしまうのであるが、どうであろうか。

ともあれ、この歌が、『御堂関白記』には残っておらず、『小右記』に残されているということは、面白い。

2024年1月1日記

「市民が見たウクライナ侵攻2023 総集編」2024-01-03

2024年1月3日 當山日出夫

BSスペシャル 市民が見たウクライナ侵攻2023 総集編

戦争をどう伝えるかというのは、古くて新しい問題である。そのときの社会の価値観、また、記録、伝達のメディアの技術も大きく影響する。

ウクライナの戦争については、始まってから二年近くになろうとしている。日本の報道は、ウクライナよりである。戦争が始まってしばらくのころは、ロシアの人びとのこと、反戦運動のことなど伝えられていたが、今ではロシアのことはほとんどニュースにならない。プーチン大統領をめぐる話題が時々でるぐらいである。

ともあれ、戦争の災禍をこうむるのは一般市民である。普通の人びとの視点から戦争のことを伝えている。

技術の問題について思うことは、現在では、戦場の戦闘の様子をリアルタイムで伝えることが可能になっている。だが、その一方で、普通の市民の暮らしを、生活に密着して記録することも可能になってきている。この場合、後者の方が、戦争と人びとの生活感覚を、より細やかに伝えることができると言っていいだろうか。いわゆる銃後のことが、日常の生活感覚とともに記録できるようになったというのも、根治の技術があってのことだろう。それがまた、残りテレビで放送されることによって、人びとの生活感覚も影響をこうむることになる。

新しいメディアの時代の戦争だということを感じる。これは、ウクライナのことに限らず、パレスチナについても思うことであるが。

2023年12月30日記