『ブギウギ』「戦争とうた」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

『ブギウギ』第14週「戦争とうた」

この週は、木曜と金曜の二回だけ。しかし、印象にのこることが多くあった。

NHKの朝ドラに、「李香蘭」がその名前で登場するとは思わなかった。たしかに、歴史のうえでは、その時代における日本と中国との間にあって、なにかしら象徴的な存在であったことはたしかである。しかし、その氏素性の正体まではドラマでは出てこないだろうが、さてどうなるだろうか。

「夜来香」の曲が、「李香蘭」の歌唱で放送されるということは、はっきりいって驚くところがあったのだが、これも、時代が変わってきたということなのかとも思う。

茨田りつ子は、鹿児島の海軍基地の慰問で歌う。「別れのブルース」である。特攻の基地である。海軍の基地があったとすると鹿屋だろうか。現在、ここには鹿屋航空基地史料館がる。また、知覧には陸軍の基地もあった。知覧特攻平和館がある。昭和二〇年のころとはいえ、軍の内部であからさまに特攻ということばをつかっていたかどうか、ちょっと気になるところではある。

福来スズ子は、富山で歌う。「大空の弟」である。ここでは、夫が戦死した女性のことが印象に残る。スズ子たちが泊まった旅館の仲居として働いている。戦争に負けることになったら、夫の戦死は犬死にであると語っていた。おそらく、このような思いを抱いていた人びとが、多くいたのだろう。(ただ、現代の歴史観では、戦場で戦死した兵士もまた侵略に加担したとして断罪する言説もあるのだが。私としては、このような歴史観には賛成できない。)

さて、次週、戦争は終わるようだ。玉音放送のシーンはあるのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2024年1月6日記

ザ・プロファイラー「書き尽くせぬ思い「源氏物語」作者 紫式部」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

ザ・プロファイラー 書き尽くせぬ思い「源氏物語」作者 紫式部

これも『光る君へ』関連番組の一つ。同じ映像の使い回しが多いのに気づくが、まあこれはいたしかたのないことであろう。

気になったこととしては、「紫式部」を「式部」と言うのはおかしい。少なくとも、国文学に素養のある人間なら、このような言い方はしない。昔風にいえば、「紫女」と言うこともできる。「清少納言」は「清女」である。ちなみに、ATOKでは、両方とも変換辞書に入っている。ただ、大塚ひかりは、かならず「紫式部」と言っていた。

それから、「清少納言」は、「清・少納言」である。番組を見ていると、「清・少納言」「清少・納言」、二つの言い方が混じっていた。

特に目新しい情報はないのだが、こんなものかとも思う。ともあれ、紫式部については、分かっていることが少なすぎるというのが実際のところだろう。だからこそ、ドラマとしては、自由に作る余地があるということにはなるが。

『源氏物語』についての解説は、現代としてはこうなろうかと思うが、ちょっともの足りない気もする。出てきていたのは、六条御息所、空蝉、夕顔、浮舟、など。しかし、最重要な登場人物であるの紫上に言及していない。葵上も出てきていなかった。

たしかに『源氏物語』は一〇〇〇年以上にわたって読み継がれてきた作品である。しかし、その受容のプロセスは、紆余曲折がある。これまで見た『光る君へ』関連の番組では、本居宣長について言及しているものがなかった。『源氏物語』が現代のように読めるようになったのは、江戸時代の本居宣長の仕事によるところが大きい。それから、北村季吟の『湖月抄』も重要である。また、平安時代に『源氏物語』の熱烈な読者であった、菅原孝標女『更級日記』についても触れておくべきかとも思う。

『光る君へ』関連番組を見ていて気づくことの一つとして、登場する研究者の背景に書棚があって、『古事類苑』が見られることである。古典文学、歴史学の研究者なら、自分の書斎に『古事類苑』を持っていてもおかしくない。これも、近年ではデジタル化されて、オンラインで見ることのできる文献になりつつある。だが、なんとなく『古事類苑』のページをめくってすごすというのも、研究者としての楽しみの一つにはちがいない。(私も、学生のときに買ったワンセットが書庫にある。)

2024年1月5日記

ETV特集「森崎和江 終わりのない旅」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

ETV特集 森崎和江 終わりのない旅

録画してあったのを年末になって見た。

『からゆきさん』が刊行になったのは、高校生のころだったろうか。これを実際に読んだのは、大学生になってから文庫本になったものを読んだかと憶えている。

番組では語っていなかったことで気になるのは、森崎和江は、どのような経緯で左翼的な思想を身につけていったのか、ということである。まあ、時代の雰囲気としては、左翼思想は流行の考え方であったろうから、どこかで影響を受けているということなのかとも思う。

語られていた範囲では、その思想は、反近代ということであり、反権力、反国家、反男性……というようになる。とはいえ、今日のフェミニズムということでもないと感じる。

単一の共同体の幻想性ということであるが、だが、それで近代を超えるということにつながるかどうかは、私には判断できない。日本の近代を否定的に見る視点はいいとしても、だからといって江戸時代の人びとの暮らしに戻ることもできない。近代を超えるとなると、近代的な国家のシステムに対抗する新たな共同体の形成ということになるのかとも思うが、これもまた幻想にはちがない。

番組の趣旨とはずれるかもしれないが、朝鮮や台湾で生まれた、いわゆる日本人は多くいる。その人びとは、それぞれにどのような思いで、その後の人生をすごすことになったのか、このあたりのことは、改めて研究の必要があるだろう。このなかには、日本で生まれた朝鮮人とか、中国、台湾の人びとなどもふくめて考えなければならないだろう。

朝鮮で生まれ育ったことを原罪としてとらえる感性は、貴重なものかもしれないが、これをつきつめていくならば、近代に生まれた人間は、全員がなにがしかの原罪をせおっていることになる。また、朝鮮の人びとは、植民地支配の被害者であるが故に、無垢ということになるのか、このあたりのことがなんとなくひっかかる。

森崎和江が旅のはてにもとめたアイデンティティもまた幻想であろう。人間というものは、なにがしか幻想のなかにしか生きられないものであるとするならば、これもまた一つの人間観、人間のあり方だと思う。

2023年12月31日記

英雄たちの選択 スペシャル 「紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜」2024-01-07

2024年1月7日 當山日出夫

英雄たちの選択 スペシャル 紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜

一月六日の夜の放送。翌日(七日)の午前中に見た。たいていなら、ブログにアップロードするのは、さらに翌日ということになるのだが、今回は特別に今日のうちに掲載しておく。今日(七日)から、『光る君へ』がスタートであるので、それを見る前にと思って。

『光る君へ』関連番組はたいてい見ているつもりである。この「英雄たちの選択」で目新しかったこととしては、次のようになる。

まず、『源氏物語』の大島本が映っていたこと。今、普通に『源氏物語』を読むとき、現代の校注本で読むことになるが、その底本は、基本的に定家本系統を使っている。そのなかで、もっとも多く使われるのが大島本である。

次に、『源氏物語』の成立論に少し言及していたこと。『源氏物語』がどの順番で書かれたかは、いまだに多くの議論があると思っている。「桐壺」の最初から書き始めたのか、それとも、先行するいくつかの物語があったのか。ここでは、「帚木」からの三帖を最初に書き始めたという立場であった。これは、ある意味で理解できる。『源氏物語』を実際に読むと、「桐壺」の始まりと、「帚木」のいわゆる雨夜の品定めの始まりと、違和感を感じることになる。

だが、いわゆる源氏物語三段階成立説には触れるところがなかった。これは、古く武田宗俊によってとなえられ、その後、大野晋が同様のことを論じた。さらには、村上征勝によってコンピュータを用いた計量分析も行われている。

以上の二点が、他の『光る君へ』関連番組と比較して、気づいたところである。

気になるのは、『源氏物語』の人物のモデルとして、定子、彰子を考えていることである。さて、これはどうだろうか。

『源氏物語』を論じるとき、「純愛」ということばを使っているあたり、ちょっとどうかなという気もする。まあ、確かに現代の我々の価値観、恋愛感からして、「純愛」という側面がないではない。平安時代の恋を論じるとき、かつては「いろごのみ」ということばが使われたものであるが、近年では使わなくなっているかと思う。少なくとも、平安時代の貴族において、現代の我々の恋愛感、結婚観、家族間を投影して見ることには、慎重であるべきかと思う。

だが、一方、現代の目で読んで、「純愛」の物語として読めることもたしかなことであって、これは文学というものの普遍性ということになるだろう。

その時代の人びとのものの考え方に即して読むということと、現代にも通じる文学的普遍性を感じることと、この両方への目配りが必要ということになる。これは、特に『源氏物語』に限ったことではなく、文学のみならず芸術全般についていえることである。

この番組では、「紫式部」のことを「式部」と言っていた。これはどうかと思う。ただ、山本淳子だけは必ず「紫式部」と言っていたが。

2024年1月7日記