「認知症さんぽ」2024-11-28

2024年11月28日 當山日出夫

ドキュメント20min. 認知症さんぽ

この番組は、再放送してほしい。

一九五五(昭和三〇)年の生まれである私としては、これからのことが心配になってくる。いつまで元気でいられるか、健康寿命ということも気がかりである。元気で、認知症になってしまったらどうなるのだろうか、という漠とした不安はどうしようもなくある。まあ、今のところ、日常的には気にせずに暮らしてはいるのだが。

認知症による徘徊……この番組ではこのごろの言い方として「ひとり歩き、迷い歩き」と言っているが……の高齢者が、実際に外を歩いている様子を取材したものである。その専門の高齢者施設で、専門的なスタッフがいるからこそ、可能なことである。普通の高齢者施設なら、まず外に出さないように厳重に管理することが求められる。東北の田舎町(といっていいだろうか)だから、外に出歩いても、交通事故の心配は、それほど高いものではないようである。職員がついていけば、どこへでも行くことができるようだ。

認知症による徘徊は、それなりに目的があり、歩くこと、そして、そこで何かを達成しようとして歩くことになる。この番組のなかで紹介されていた事例は、このように理解できる。

これも、認知症の程度や、その人の人となりによっては、いろいろと観察によって判断が分かれることがあるのかとも思う。このあたりは、高齢者についての医学の専門家の、より詳しい研究と解説がほしいところである。

事情が許すならば自分で歩けるなら、外に出歩くことのできる生活が、望ましいといえるだろう。だが、これにはスタッフの人手がかかる。在宅の場合、家族がそれに対応することは、難しいかもしれない。

だが、認知症による徘徊とはどういうものなのか、理解がふかまれば、それにまつわるトラブルも避けることができるかと思うが、どうだろうか、楽観的にすぎるだろうか。

2024年11月27日記

「アメリカ“中絶論争”の再燃 女性の権利をめぐり深まる分断」2024-11-28

2024年11月28日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「アメリカ“中絶論争”の再燃 女性の権利をめぐり深まる分断」

二〇二四年、フランスの制作。

日本にいて感じることとしては、母体の危険がある場合は(その程度にもよるかもしれないが)中絶は認められるべきだということになる。また、生まれてくる赤ちゃんが、無事に育つ見込みがない絶望的な状況についても、認められるだろう。

中絶をめぐる議論は、なかなか現実的な妥協点が見出しにくい。非常に観念的な対立になっている。自分の体は自分のものだから自分の自由にする権利があるという主張と、受胎したときから生命であり人間であるから中絶は認めるべきではないという主張との間には、へだたりがある。せめて、望まない妊娠、母体に危険がせまっている、という状況についてぐらいは、なんとなならないものかと思うが、妥協は難しい。

この番組を作ったのは、フランスの会社である。フランスはカトリックの国であるが、宗教的価値観と世俗的価値観の分離について厳格な国でもある、という認識でいる。人工妊娠中絶は認められている国であると承知しているのだが、実際のところはどうなのだろうか。社会の人びとの意識としては、どう感じているのだろうか。

アメリカの場合は、保守的な福音派キリスト教の影響が強い、ということになる。番組を見ていて、そこまで厳格に考えなくてもいいだろうとは思ってしまうのであるが、これは日本での感覚との違いということになるのかと思う。その一方で、自分の体のことは自分で決めるという主張にも、やや違和感を感じるところがある。中絶を支持するとしても、その理由であるリベラルな原理主義には、それがきわめて理念的なものであるがゆえに、素直に受けとめることができない部分もある。私の感覚では、中絶を容認する理由としては、母体の安全と子どもの幸福のため、というかなり現実的なところから考えることになる。

自分のことは自分で決めるので、他者の介入を許さない、というリベラル原理主義は、ものの考え方としてどうかなと思うところがある。人間は、そんなに完全な自由意志など持てるものでもない。また、個々の人間の生き方は尊重されなければならないが、社会の一員であるという側面もある。リベラルの原則にのっとることと、社会全体の調和ということとは、どこかで妥協しなければならないところがあるというのが、私の感じているところである。

宗教的価値観……この番組ではキリスト教のことが出てきていたのだが、これからはイスラムのことなども視野にいれて考えなければならない……、リベラルな価値観、また、実際の医療の場面における生命の尊重、これらの間に、対話の余地はないのだろうか、と思うのが見て感じるところである。

人工妊娠中絶の賛否については、まずそれが医学として十分に実用的で安全なものとして確立してからのことだろう。医学の歴史と、その賛否についての言説の歴史はどうなのだろうか。これは、歴史や文化的背景とともに、考えるべきテーマであるだろう。

私は人工妊娠中絶は認める立場である。しかし、すべての病院がそうであるべきとは思わない。熊本慈恵病院は、こうのとりのゆりかご、の病院として有名であるし、匿名出産もおこなっている。しかし、カトリックの方針として、この病院は中絶はおこなっていない。このような病院の方針は尊重されるべきであると考える。

2024年11月25日記

「全米が推理!お嬢様は殺人鬼? 〜未解決130年 リジー・ボーデン事件〜」2024-11-28

2024年11月28日 當山日出夫

ダークサイドミステリー 全米が推理!お嬢様は殺人鬼? 〜未解決130年 リジー・ボーデン事件〜

わりと最近の放送を録画してあったのを見た。番組のHPでは、今年の四月の放送である。このときは見逃していたことになる。

このダークサイドミステリーは、面白いと思って見ている。ただ興味本位で過去の事件のことを探して番組に作ったというだけではなく、その過去の事件が今にいたるまで、どのように人びとに受容されて受け継がれてきたか、その変化に歴史的背景を読みとっていこうという着眼点は、いいものだと思っている。この事件の場合、アメリカのメディア史、女性史という観点から、考えることになるだろう。

私は、この事件のことは知らなかった。今の日本なら、あるいは、アメリカでも、起こって不思議はない。今のアメリカだったら、斧で打ち殺すのではなく、銃を使うことになるだろうけれど。

やはり興味深いのは、一三〇年まえのアメリカの東部の街の人びとの価値観。良家の令嬢が殺人などするはずがないと考える、裕福な白人男性の陪審員たち、ということになるだろうか。また、その土地の近隣の人たちにとっては、殺人犯かもしれない女性が身近にいることへの忌避感もあったと思われる。

それが、その後、アメリカ社会のなかで、その時代ごとの価値観……特に女性の生き方や権利をめぐって……の変化に応じて、さまざまにこの物語が消費されていくことになる。これはこれで、非常に面白い。

まあ、今の日本では、NHKの朝ドラや大河ドラマが、過去の作品をふりかえると、制作された時代のさまざまな価値観や問題点を反映したものになっているということに似ているかもしれない。(「MeToo」がなければ、『虎に翼』もなかっただろう。)

最近の映画で、ボーデン家の主人がメイドを性的に暴行したので、という解釈であったのは、まさに、現代の価値観からである。(その当時、アイルランド系のメイドに性的に暴行があったとしても、目くじら立てるほどのことはなかったかとも思うのだが、今の社会では、このようなことを表だって語ることも禁忌とされるようになってきている。)

それにしても、この事件のあった邸宅がホテルで営業できて、そこにお客がやってくる、というのも、いかにもアメリカらしい……必ずしも近代的で合理的な考え方ばかりではない……という意味で、これも面白い。

YouTubeで「リジー・ボーデン」で検索してみると、いっぱい情報が出てくる。こういうのが好きな人が、今の世の中には多いということである。検査結果には、世界三大未解決事件(何がそれに該当するかはいろいろみたいだが)、ということが出てくるのは、人間というものは時代や社会が変わっても、そう変わることはないものなのだな、と感じるところがある。

2024年11月26日記