二〇二一年に読んだ本のことなど2021-12-31

2021-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

大晦日は、一年の振り返りとしている。今年(二〇二一)に読んだ本のことなど、書いておきたい。

まとめてある作家の作品を読んだとなると、あまり読めなかった。読めたのは、小川洋子ぐらいだったか。現在手にはいる文庫本で、その小説作品のほとんどを読んだかと思う。透明感のある文章で、ちょっと変わった日常を描いている。なるほど、小川洋子の文学世界とはこんなものなのかと納得したところである。

他にまとまって読んだのは、山田風太郎の明治小説がある。筑摩版の全集と、ちくま文庫と、古本で買えるものは買って、明治小説というくくりで刊行されたものは、読んだことになる。私が、山田風太郎の明治小説を読み始めたのは、学生のころ、『警視庁草紙』を文庫本で買ってからのことになる。このころ、司馬遼太郎も読んでいたのだが、その「坂の上の雲」の世界よりも、山田風太郎の闇の世界、敗れ去ったものの世界に、より共感して読んだものである。その後、山田風太郎の明治小説の新作が出ると単行本で買って読んできた。そのため、ほとんどの作品は再読、再々読、ということになる。が、やはり、読んで面白い。歴史のなかに消え去った無名の人びとに思いをはせることになる。それから、山田風太郎で読んで再読しておきたかったのは、『戦中派不戦日記』がある。これは、年内に講談社文庫の新版で読むことができた。

北村薫の「名短篇」のアンソロジーが、ちくま文庫で刊行になっている。これも、まとめて読んでみることにした。このようなアンソロジーに入っていなければ、読むことなく過ぎてしまった作品、作家が多い。北村薫は、そのデビューのころから読んでいる。覆面作家であった時代である。その文章、作品もいいが、傑出した文学の読み手であることを感じた。

『戦争と平和』の光文社古典新訳文庫(望月哲男訳)が、六冊完結したので、まとめて読むことにした。以前に、新潮文庫、岩波文庫などでも読んでいる。新しい訳で読んでみて、なるほどこの作品が、世界文学のなかで名作とされている理由がようやく納得できた気がする。歴史を背景として、登場人物たちのドラマチックな人間模様が描かれている。

読めなかった本というと、『源氏物語』の岩波文庫版がある。今年、ようやく九冊が完結した。まとめて読もうと思って、これは積んだままになっている。

今年は、テレビのこともよく書くことになった。四月から始まった放送として、NHKが、「プロジェクトX」を再放送した。これは、録画しておいて欠かさず見た。放送の当時は、特に印象に残ることのなかった番組であるが、再放送を見ると、面白い。いくつかの番組は、昭和戦後の日本の普通の人びとの生活誌、生活史として、きわめて興味深い内容であった。

また、「映像の世紀」「新・映像の世紀」「映像の世紀プレミアム」も、再放送を、すべて見たと思う。見て思うことは、実に様々である。よくこんな場面の映像資料が残っていたかと驚くものがいくつもある。と同時に、残された映像資料に対する資料批判というという目も、必要になってくることを、強く感じた。

2021年12月30日記

らじる文庫「人見絹枝の自伝」2021-08-14

2021-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

このところ、まとまって本を読む時間がとれないので……夏の多忙な時期ということもあり、また、CVOVID-19のこともあり……PCでラジオを聞いている。

ラジオは、ラジオで聞くものだと思っているのだが、しかし、インターネットのおかげで、聞き逃し配信を、過去にさかのぼってきけるようになっている。これはありがたい。NHKを朗読をキーワードに検索するといろいろと出てくる。なかで気に入ったのが、「らじる文庫」である。

らじる文庫
https://www.nhk.or.jp/radio/audiobook/

今聞くことができるものとしては、「岡本かの子「食」に関する随筆」「山本周五郎の随筆」「夏の随筆」「人見絹枝の自伝」「野口米次郎随筆「梅雨」」などがある。どれも、おそらく、このシリーズの中に入っていなければ知らずに過ぎてしまっただろう作品ばかりである。

このうち「人見絹枝の自伝」が面白かった。人見絹枝は、オリンピックにおける日本で初の女性のメダリストということで知ってはいた。また、先年のNHK大河ドラマ「いだてん」にも登場していた。だが、それ以外のことは、ほとんど知らなかったといってよい。

この自伝の文章を聞いて(この場合、「読んで」とは書きにくい)……人見絹枝が高等女学校を出てから新聞社につとめた、最初女性スポーツ記者であったことを知った。無論、戦前のことである。スポーツの世界は、アマチュアリズムの時代でもある。女性記者をしながら、陸上にはげんでいた。

オリンピックに出場するのも、その費用は寄付によるしかなかった。そして、出場したオリンピックで、本来の種目である一〇〇メートルで敗退する。このままでは日本に帰れないと思った彼女は、八〇〇メートルにいどみ、そして銀メダルになる。

このオリンピックのことを軸に、競技にかける思いや、故郷の日本のことなど、実に率直に綴られている。文章としても非常にいい。(これは、NHKのアナウンサーが読んでいるので、そのうまさということもあるのだが。)

日本に帰った人見絹枝は、残念なことにまもなく病死することになる。(このことも、このラジオを聞いて知った。)

たぶん、放送の企画としては、今年のオリンピック開催にあわせたものだったろうと思う。私の場合、今年の東京オリンピックを、そんなにテレビを見るということもなくすごしてしまった。たまに、テレビをつけると、どの局もオリンピックしか放送していないので、たまたま見てしまうというようなことである。

オリンピックでメダルをとることの意味は、時代や国家、おかれた環境によって違う。人見絹枝の場合、今よりももっと国家の重圧というものがあったかと感じられる。しかし、そのような重圧があるとしても、遠い異国にあって、その地の風光のなかですごし、日本のことを思い、また、自らの競技のことを思っている。その感覚は、時として、非常に繊細である。

オリンピックは、様々なドラマを生んできた。そのなかにあって、人見絹枝の残した文章は、これからも読み継がれていく価値のあるものだと思う。

2021年8月12日記

100分de名著「ボーヴォワール 老い」上野千鶴子2021-08-06

2021-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)

老い

上野千鶴子.『100分de名著 ボーヴォワール 老い』.NHK出版.2021
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231272021.html

このシリーズ、テレビ番組を見るということはないのであるが、テキストの方は時々買って読んでいる。二〇二一年七月は、ボーヴォワールの『老い』であった。

ボーヴォワールは、いうまでもなく『第二の性』が有名。私の学生のころ、文庫本で読めた。(ただ、手にとったことはあると思うのだが、その読者ということはなく、今にいたってしまっている。フェミニズムについては、その重要性についての認識は持っているつもりだが、自分の研究のなかで特に言及することもなく、過ぎてしまっている。)

もし、社会が成人男性を軸に構成されているとするならば……そこから疎外されているのは、女性であり、子どもあり、そして、老人だろう。『第二の性』の著者が、『老い』ということに向かうことには、それなりの必然を感じる。

次のような構成になっている。

老いは不意打ちである
老いに直面した人びと
老いと性
役に立たなきゃ生きてちゃいかんか!

このような各章のタイトルを見ると、なるほど上野千鶴子の書いた本だなという印象をうける。

ところで、私も、もう老人といっていいだろう。仕事の方は、なかば引退したような形にしている。最低限、教えに出ることはあるが、それも可能な限り少なくしている。もう、本を作ったり、論文で何かを論じたりという気もおこらない。ただ、自分の好きな本を読んで、そして、空いた時間には、外に出て草花の写真をとっている。

年を取るということは、徐々に進行するものである。と同時に、ふとしたことで、閾値を超えて、もう老人だなと実感するところもある。

昨年からのCOVID-19の影響で、大学の授業がオンラインを基本とすることになってしまった。そこで、新しいシステムを使いこなしてのオンライン授業にチャレンジすることもできたかもしれない。が、その気にならないで時間が過ぎてしまった。自分の使える時間を、新しいことのチャレンジにつかうよりは、本を読むことにつかいたいと……強いて、考えるならば、この選択のなかで、本の方を選んだことになる。(これは、たまたま、教えている科目が、日本語の文字や表記の歴史的な側面にかかわることであったので、文章に書いたものを提示して、それにレポートなどを書いてくる、この方式で、十分に対応できるものであったということもあるのだが。)

基本的に、規則正しく同じ生活を送っている。毎週、毎日、NHKの大河ドラマを見て、朝ドラを見て、思ったことなど書いてみたりしている。外に出て、花の写真を撮って、週に一回は、それをこのブログに載せるようにしている。その他は、読んだ本のことなどである。

COVID-19の影響のなかで、いつの間にか、老人への閾値を超えてしまったと実感するところがある。もう、無理に、若くあろうとする必要もないと思う。といって、老け込んでしまうこともないのであるが。老人には老人の生き方があるであろう。私の場合であれば、余生の時間をつかって、本を読むことをつづけていきたい。

どれだけ読めるか分からないが、古典、文学……広義に、歴史や哲学までをふくめて……を読むことに時間をつかって生きていきたいと思う。(それにしても、今では『第二の性』が普通に手にはいらなくなっているようだが、できればこれも再度手にしてみたい本の一つである。)

2021年7月27日記

『原節子の真実』石井妙子2021-07-19

2021-07-19 當山日出夫(とうやまひでお)

原節子の真実

石井妙子.『原節子の真実』(新潮文庫).新潮社.2019 (2016.新潮社)
https://www.shinchosha.co.jp/book/340011/

原節子の映画を映画館で見たのはどれくらいあるだろうか。はっきりと覚えているのは、『我が青春に悔いなし』(黒澤明監督)は、見たのを覚えている。小津安二郎監督の映画のいくつかも、映画館で見た記憶はあるのだが……私の学生のころ、小津安二郎の映画は、場末、もう今ではこんなことばは使わないが、しかし、このようないい方しか思い浮かばない、で上映されていたものである……はっきりと原節子と意識して見たという記憶はない。

原節子の名前を意識するようになったのは、近年になって小津安二郎の作品が再評価されるようになってからのことである。それまで、日本の女優の……特に美人の……一人という認識でいたかと思う。ただ、一般的な知識としては、いつの間にか日本の映画界から姿を消して隠棲してしまった、謎の多い女優ということは思っていたかと思う。

「女優」のことばをつかって書いてみたが、近年では、このことばは、あまりつかわないことばになってしまっている。女性であっても、俳優というのが、ちかごろのならわしである。だが、原節子については、私は、女優と書いておきたい気がしてならない。女優として仕事をし、生きて、そして、「原節子」という女優を残して、この世を去ったのが、まさしく原節子だろうと思う。

この原節子を、テレビで見ることがあった。小津安二郎の映画の放送もあるのだが、そうではなく、NHKの「映像の世紀」のシリーズにおいてである。そこでは、原節子は、戦前の日本とドイツとの合作のプロパガンダ映画の主演である。また、戦時中は、真珠湾攻撃を描いた『ハワイ・マレー沖海戦』にも出演している。これらのことは、テレビを見ていて知った。

この本『原節子の真実』のことは、知ってはいたが、今まで手にとることなく過ぎてしまっていた。ふと思って、手にしてみた。なるほど、原節子とはどのような人生をあゆんだ人間なのか、得心がいったというところであろうか。まさに、小津安二郎の映画に登場する女性のイメージである。(だが、実生活において、煙草をすいながら酒を飲んでいたというのは、ちょっとそぐわない気がしないでもないのだが。)

石坂洋次郎は『青い山脈』を書くにあたって、原節子をイメージして書いたという。さもありなんと思う。新しい時代の女性というイメージが確かにある。が、その一方では、小津安二郎作品などでは、逆に古風な価値観の女性を演じてもいる。

今は、時間のあるときは、本を読むようにしている。読めるときに読んでおきたいと思う。そして、時間があれば、外に出て、草花の写真をとっている。が、これも、本を読むのに倦むときがくるかもしれない。そのときはどうしようか。DVDで、映画でも見ようかと思う。若いときに、そのいくつかを見たことのある、小津安二郎の作品でも、じっくりと振り返って見てみたい気がする。

しかし、原節子自身は、小津安二郎監督作品については、自分の代表作ではないと思っていたとのことである。原節子の生きてきた「原節子」は、ついに演じきられることな終わってしまったということなのかもしれない。

また、この本は、原節子という女性の生き方をたどることによって、日本の映画史の一面を描いた作品にもなっている。これはこれとして、興味深いところが多々ある。

2021年7月13日記

二〇二一年に読みたい本のことなど2021-01-01

2021-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二一)に読んでみたい本のことなど書いてみる。

一昨年、夏目漱石を新潮文庫版で読むことをしてみた。昨年は、芥川龍之介、森鷗外、それから、太宰治について、新潮文庫で今出ている本で読んでみた。今年は、このつづきとして、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成など、読んでみようかと思っている。

今その「全集」を手にいれようと思えば、かなり安価で簡単に買えるようになってきてはいる。しかし、「全集」を読むのはやや気が重い。ここは割りきって、今の新潮文庫で読める範囲と限って読んでみるのも、一つの方針かと思う。

岩波文庫の『源氏物語』は、今年には完結するだろうと思う。これも、本編の部分については、読んでいる。残っているのは、「宇治十帖」である。全巻完結したら、最初にもどって、岩波文庫版のテクストで、通読してみようと考えている。(これも、新日本古典文学大系のテクスト……大島本に忠実……について、いろいろ考えることもあるだろう。だが、老後の楽しみの読書である。テクストは、読みやすければそれでいいと思うようになってきた。)

昨年の暮れから冬休みの読書と思って読んでいるのが、向田邦子。そのエッセイ、小説などを読んでいる。昨年末に読んで印象に残っているのが、柳美里の『JR上野駅公園口』。柳美里の他の作品も読んでみたい。また、日本の現代作家として、小川洋子とか、多和田葉子とか、読んでおきたくなっている。

昨年から話題の本といえば、『ディスタンクシオン』がある。これは読んでおきたい。

その他には、村上春樹の翻訳作品などで、まだ読んでいないものがかなりある。小説家としての村上春樹については、評価の分かれるところがあるかと思うが、海外文学の目利き、翻訳ということについては、非常にいい仕事をしていると思っている。村上春樹訳ということで、読んでおこうと思う。

COVID-19の影響がどうなるか、まったく予断をゆるさない。たぶん、この年も居職の生活になるかと思う。家にいる限りは、本を読む生活をおくりたいものである。古典を、文学を、読みたいと思う。そして、時間があるときは、カメラを持って外にでて身近な草花の写真など撮っていきたい。

2021年1月1日記

二〇二〇年に読んだ本のことなど2020-12-31

2020-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二〇)に読んだ本のことなど思いつくままに書いておきたい。

今年、まず読んでみたのが、宮尾登美子であった。『櫂』をふと読みなおしてみたくなって読んだ。それから順に自伝的作品をはじめとして、主な作品を読んだ。これほど人びとの日常生活の情感、人間の喜怒哀楽、生老病死にまつわる思いなどを、細やかに描いている作家は、希かもしれない。宮尾登美子については、読もうと思って買って、まだ手にしていない作品がいくつか残っている。これらについては、来年になって読むつもりでいる。

『復活』(トルストイ、藤沼貴訳、岩波文庫)を読んだ。『復活』を読んだら、カチューシャの唄を思い出してしまう。その流れで、『放浪記』(林芙美子)など読みなおしてみた。トルストイの作品では、『戦争と平和』(藤沼貴訳、岩波文庫、全六冊)も読むことができた。これは、以前に、新潮文庫版で読んだことがある。そして、今は、光文社古典新訳文庫版が刊行中である。これは、順番に買っている。全巻そろったら、まとめて読もうと思っている。

日本の古典では、『太平記』(岩波文庫版)を読んだ。『太平記』は、若いころに日本古典文学大系版で手にしたことはあるのだが、最初から通読するのは始めてになる。底本をいい本をつかっている。だが、岩波文庫につくるということで、国語学的に見て興味があるところについて、その本文校訂については、若干の不満があるというのが、正直なところである。が、ここは、もう老後の読書である。そのようなことはあまり気にせずに、ただページをめくっていく読みかたで読むことにした。『太平記』については、他に、古典集成や、新編日本古典文学全集のテキストもある。これらの本でも、読んでおきたいと思う。

『風と共に去りぬ』(岩波文庫版)も再読してみた。この作品については、旧版新潮文庫、新版新潮文庫、岩波文庫と読んでいる。このうち、岩波文庫版について、再読しておきたくなって読むことにした。やはり、この作品は、ある時代の人びとの世界を活写していると強く感じる。

今年読んだ本のなかで、一番印象に残っている本は、『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)である。ここに取り上げられている本について、全部読んでみようと思って、だいたい順に読んでみた。このうち『失われた時を求めて』については、岩波文庫、集英社文庫で、すでに読んでいる。この光文社古典新訳文庫版でも、既刊分については、読んでおくことにした。『文学こそ最高の教養である』は、光文社古典新訳文庫を基本に、古今東西の「古典」を解説してある。すぐれた文学論、古典論であり、また、翻訳論になっている。このようなことを思い立っていなければ、読まずにすましてしまったような作品が多い。時には、このような読書の方針もあっていいと思う。

新潮文庫で読める範囲に限定して、現在刊行されている本を読んでみようと思った。芥川龍之介を読み、森鷗外を読んだ。芥川龍之介も、森鷗外も、その岩波版の全集は持っているのだが、全集に手を出すのが億劫になってきたということもある。現在でも刊行されている範囲の文庫本に限って読むというのも、一つの考えかと思っている。

太宰治も、新潮文庫版を全部読んだ。その代表作の主なものは、若いときに手にしたことがあるのだが、改めて、ほぼ発表年代順に読んでみた。太宰治は、新潮文庫で、その小説のほとんどを読むことができる。特に、その中期といわれる時期……ほぼ戦争中になるのだが……に書かれた作品に、文学的にすぐれた作品がある。いまだに太宰治が読み継がれている理由が分かったかと思う。

ともあれ、この二〇二〇という年は、COVID-19の年として歴史に残るであろう。いや、来年もどうなるか、まったく予断を許さないのだが。大学の授業は、前期はオンラインということになった。外に出ることが基本的になくなった。学会、研究会なども、ほぼ中止か、オンライン開催であった。結果的には、居職の生活となった一年である。どれほど本が読めたか、ふりかえってみれば、思い残すところもある。来年もつづけて、本を読む生活をおくりたいと思っている。

2020年12月30日記

今年読みたい本のことなど(二〇二〇)2020-01-01

2020-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

元日は、今年の気持ち、特に読んでみたい本のことなど書くことにしている。

昨年の暮れから読んでいるのが、宮尾登美子。ふとWEBを見ていて、Facebookだったか、Twitterだったか……誰かが宮尾登美子の『櫂』について書いているのが目にとまった。『櫂』は、若いときに読んでいる。もう一回読んでみようかと思って読んだのだが、面白い。続けて、自伝的な作品である『春燈』『朱夏』『仁淀川』と読んだ。宮尾登美子の作品のいくつかは、若いときに読んでいる。好きな作家であった。が、最近は遠ざかってしまっていた。亡くなっていることも知らなかった。

宮尾登美子は、市井の人間の情感を描いている。それも、老いとか、病とか、死とか……素朴な人間の情感をきめ細やかに描いている。ここは、宮尾登美子の作品を読んでおきたくなった。再読の作品もあれば、未読であったものを新たに読むものもある。

日本の古典文学を読んでおきたい。これまで、勉強……国語学……ということで、主な日本の古典文学は手にしてきたのだが、それをはなれて、純然たる読書のたのしみとして、ページを繰ることをしてみたくなった。昨年は、『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』など読んだ。

『源氏物語』の岩波文庫版が、今年は完結するだろうか。昨年は、新潮日本古典集成版で二回読んだのだが、新しい岩波文庫版の校注で全巻を読んでおきたいと思う。

昨年末からよみはじめているのが、『太平記』。岩波文庫版で六冊になる。新しい校訂である。これは新潮日本古典集成版もあるし、また古い日本古典文学大系もある。『太平記』は、近年になって、再評価がなされているかと思う。「アナホリッシュ国文学」が『太平記』を特集している。これなど手引きとして、『太平記』を読んでおきたいと思う。

これは、「古典は本当に必要なのか」ともかかわる。近世まで、あるいは、昭和戦前まで、『太平記』は「古典」であった。だが、私が国文学、国語学という勉強をしていたころ、日本の「古典」の中心的な存在ではなくなってしまっていたと思う。「古典」とは、常に読まれつづけることによって、新しく読みを加えることによって、再発見、再生産されていくものであると思っている。ただ、自明なものとして「古典」があるのではない。

この「古典」とは何かということについても、これから考えていきたいと思っている。

村上春樹の作品については、その小説(長編、短篇)を読んで、エッセイとか翻訳とかを読んでいる。村上春樹の翻訳は、中央公論新社で、村上春樹翻訳ライブラリーというかたちでまとまって刊行されている。これを順次読んでいきたい。昨年のうちに、レイモンド・カーヴァーなどだいたい読み終えた。のこる作品についても、順番に読んでみようと思っている。

『失われた時を求めて』の岩波文庫版、全一四冊が、昨年完結した。この作品については、一昨年に、岩波文庫版の既刊分(一二冊)を読んで、残りを集英社文庫版で読んだ。『失われた時を求めて』は、他に、光文社古典新訳文庫版でも刊行されている。まだ途中までしか出ていないが、これも、既刊分については読んでみたい。また、読まなかった岩波文庫本の残り二冊についても、読んでおきたい。

さらに思うことは、ミシェル・フーコーを読んでおきたいと思う。名前は知っている。どんな仕事をしたひとなのかも、いろんなところで目にする。だが、これまで、ミシェル・フーコーそのものを、じっくりと読むことがなかった。「近代」というもの、あるいは、「人文学」というものを考えるとき、やはりミシェル・フーコーは必須だろう。これも今年の読書の希望の一つである。

漱石も読み返しておきたい。若いときに買った、一七巻本の古い全集がまだどこかにあるはずである。今度読むときは、これを取り出して読むことにしようかと思う。活版の時代の本である。

その他いろいろとあるが、「古典」「文学」を読むことで時間をつかいたいと思っている。そして、残りの時間で、身近な草花の写真など撮ってすごしたいと思う次第である。

ところで、大晦日の日、たまたまテレビをつけたら、映画『風と共に去りぬ』を放送していた。『風と共に去りぬ』は、これまで三回読んでいる。新潮文庫の旧訳、新訳、それから、岩波文庫である。この作品も、再度読んでみたくなった。

2020年1月1日記

今年読んだ本のことなど(二〇一九)2019-12-31

2019-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇一九)に読ん本のことなど書いてみたい。

これまでもそうであったが、「古典」を読みたいと思ってすごした。大学で教える仕事は整理して、週に一回か二回。残りの時間は、本を読んですごす。でなければ、カメラを持って散歩に出ることにしている。基本的に家にいる。

今年(二〇一九)で読んだ本となると、やはり、村上春樹だろう。これもふと思い立って読み始めた。『騎士団長殺し』が文庫本で刊行になったのをきっかけにして、村上春樹の作品を全部読んでみようと思った。長編からはじめて、短篇集、日本で普通に手にはいる本は全部読むことができただろうか。残るのは、エッセイとか翻訳。これは、すこしペースをおとして、他の本を読むかたわらで、順次読んでいっている。

翻訳についていえば、もし村上春樹が訳していなければ、手にすることがなかったであろう作品がいくつもある。これは、村上春樹訳ということで本を選んで読んでいったことによるものであるが、これはよかったと思っている。レイモンド・カーヴァーの作品など、現代アメリカ文学の作品は、村上春樹の訳があるから読んでみたようなものである。

村上春樹が、ノーベル文学賞を取ることになるかどうか、それはわからない。だが、読んで、確かに村上春樹の作品が、世界の人びとに読まれていることの理由が、わかったような気がした。文学作品としての普遍性をもった作品であることは確かである。

日本の古典では、『源氏物語』を読んだ。新潮の日本古典集成版(八冊)である。これは、二回読むことができた。二月ごろ、ふと思って読み始めた。辞書、文法書はあえて見ない、という方針で読んだ。特に文法論などを専門にしているというのではないので、ここはわりきりである。校注本の注釈だけをたよりに読んでみた。

なるほど、これが文学というものなのか、という印象を新たにした。読んでいって、思わず作品世界のなかにひたりこんでしまって、読みふけっている自分に気付くことがあった。このような読み方は、もう自分で『源氏物語』で論文を書いてみようという気がなくなってしまった、ということもあってのことかもしれない。論文を書くためではなく、ただひたすら読書の楽しみのために読んでみたくなっている。

これは、二回読むことができた。秋からの同志社大学大学院の講義の準備と思って、『源氏物語』をさらに読んでみた。秋からの講義では、文字のことを話す予定にしてあった。夏休みの間に読んだ。『源氏物語』のなかで、文字にことばを書くということが、どのように書かれているのか、ということに興味があったからである。これも、先行研究をさがせば書いた論文などあるにちがいないが、それを見るよりも、自分自身の目でテキストを読んで確認して、考えてみたいと思ったのである。

それから、日本の古典では、『平家物語』(岩波文庫版、四冊)がある。「運命」の物語であることを強く感じた。『平家物語』に「運命」を読みとっていたのは、古くは、石母田正あたりの仕事がある。岩波新書の『平家物語』である。

また、『今昔物語集』を、新日本古典大系本で読んだ。五冊。『今昔物語集』は、若いとき、山田忠雄先生のもとで、国語学を勉強していたとき、旧版の日本古典大系本で読んだものである。全部のページを繰ったことはあるのだが、最初から順番に読むということはなかった。今回は、ただひたすら最初から順番にページを繰ることで読んでみた。

『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』、これらの作品は、若いころに読んでいる。ひととおりページは繰っている。だが、その読書は国語学の勉強のために読んだという傾向がつよい。が、これも、今になって、この年になって、ただひたすら読書のたのしみのために、最初から順番にページを繰るということで、読んでみたものである。いや、そのように本を読みたくなってきたのである。

夏休みには、これはここ数年のことであるが、井筒俊彦を読んだ。今年になって、岩波文庫でいくつか刊行になった。『意識と本質』(これは以前から刊行になっている)、それに『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』などである。「全集」(慶應義塾大学出版会)、「著作集」(中央公論社)、これらも持っている。これから、井筒俊彦も、折りにふれて読みかえしてみたいとおもっている。

秋にかけては、夏目漱石の作品を、新潮文庫版で出ているものを全部読むことができた。岩波版の「全集」も二セット持っているのだが、ここはわりきって、新潮文庫の新しい版で読むことにした。漱石の微妙なことばの用法に気付くところがあった。特に女性の呼称が興味深い。また、女学生ことば、てよだわことばを話す女性像というものが、漱石の作品のなかで重要な位置をしめることを確認することにもなった。この意味では、最後の遺作の『明暗』の清子が、どんなことばをつかう女性であるのか、ここが書かれずに終わってしまっていることは、つくづく残念な気がしている。

それから、読んだものとしては、ドストエフスキーがある。光文社古典新訳文庫で、『白痴』(亀山郁夫訳)が完結したので、これをふくめて、長編の『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』、それから、いくつかの短篇など読んでみた。ドストエフスキーも、さらにこれから読みかえしてみたいと思っている。

また、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)を光文社古典新訳文庫(望月哲男訳、四冊)で読んだ。以前に新潮文庫版で読んだのであるが、新しい訳で読んでみることにした。一九世紀のロシア文学において、小説という芸術の到達点を示す作品であると感じるところがあった。

さて、来年はどれだけ本が読めるであろうか。「古典」それもひろく人文学にかかわる「文学」を読んでいきたいと思う。

2019年12月31日記

『最後の読書』津野海太郎(その三)2019-01-17

2019-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月5日
『最後の読書』津野海太郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/05/9021484

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

この本を読んで付箋をつけた箇所について、さらにすこし。
 
この本の第10章が「古典が読めない!」となっている。

『古事記伝』のことが出てくる。孫引きになるが引用してみる。堀田善衛と臼井吉見の対談である。

……臼井[吉見]氏と本居宣長の話をしていたとき、私はまだ[本居宣長の]『古事記伝』なるものをのぞいたこともなかった。それでこの著作について臼井氏に訊ねた。
「まだ読んでいないの。それは惜しい。あれは探偵小説のように面白いよ。是非読んでみたまえよ。」
 と臼井氏が言ってくれた。(略、ママ)かくて私は、その一言につられて、『古事記伝』を読んだ。
pp.141-142

そして、著者(津野海太郎)は、こう記す。

「堀田にかぎらず、かれの身近な友人たち……たとえば敗戦の二年後、『1946 文学的考察』で華々しく登場した加藤周一、中村真一郎、福永武彦の『三秀才』(と冗談で呼ばれた)も、日本の古典に、ある点では専門の学者以上に深くつうじていた。」(p.145)

さらに、この本の第11章が「現代語訳を軽く見るなかれ」となっている。日本の古典文学を、現代の作家が現代語訳することの意義について論じてある。

そういえば、ここのところに出てくる『説経節』などは、昔、学生のころに手にしたことを覚えている。(これは探せば若い時に読んだ本がまだ残って、持っているはずである。)

『古事記伝』は、私は持っている。本居宣長全集(筑摩版)を揃えて持っている。また、岩波文庫の『古事記伝』も、復刊になったものを買ってある。

去年、本居宣長関係の書物……「本居宣長」をタイトルにする本……をいくつか読んでみた。だが、まだ『古事記伝』にとりかかるにいたっていない。これは、是非とも読んでおきたいと思う。

私は、慶應義塾大学の文学部で国文学を学んだ。だからということもないが、日本の古典なら読める。普通の校注本であれば問題はない。影印本として、変体仮名、くずし字で書かれたものであっても、読める。

だが、国語学という分野で勉強してきて、これまで、日本の古典文学を、書物として、文学作品として通読するということがあまりなかった。たしかに、『古事記』も『万葉集』も『古今和歌集』も『源氏物語』も『平家物語』も、ほとんどのページをめくったことはあるのだが、最初から順番に書物として、文学作品として読むということがなかった。

もう還暦をすぎて……楽しみで日本の古典を読みたいと思うようになってきた。去年は、『失われた時を求めて』を全巻読んだ。また、年末からはドストエフスキーを読んでいる。読んでおくべきと思う世界文学の名作は他にもある。が、その他に、日本の古典をきちんと書物として自分の目で読んでおきたいと強く思う次第である。

ところで、以上の文章を書いて保存しておいてからのことになるが、2019年1月14日に、明星大学で、「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムがあった。これについて思うところがないではない。追って書いてみたい。

これは、YouTubeで公開されている。

https://www.youtube.com/watch?v=_P6Yx5rp9IU

追記 2019-01-18
「古典は本当に必要なのか」については、
やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

『最後の読書』津野海太郎(その二)2019-01-05

2019-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月28日
『最後の読書』津野海太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/28/9018078

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

読みながら付箋をつけた箇所がいくつかある。そのうちのひとつが、電子書籍についての箇所。

第7章「蔵書との別れ」の106~107ページのあたり。

ちょっと引用してみると、

「でも、いまになってわかる。私たちがあんなに元気によくしゃべることができたのは、そこに、いま私はこんなことをやっている、この先はこうやっていくつもりだ、という実践の裏付けがあったからなのだ。」(p.107)

書籍とコンピュータの未来について語った箇所である。また、紀田順一郎が、なぜ、蔵書を処分するという段階になって、電子書籍のことについて語っていないのか、ということに思いをはせての部分である。

ここには、私は、半分は同意する。

私は、かつて、パソコンが世の中に登場しはじめてころから使ってきている。そこには、引用したような、「実践」ということがあった。私のつくってみた『和漢朗詠集漢字索引』なども、その「実践」のひとつの形であると言えるかもしれない。

だが、しかし、今は、半分は違った思いがある。

今の、電子書籍……その周縁には、人文情報学というような新しい学問分野を想定することもできる……が、ある程度実現してみて……たとえば、Kindleがそうである……こんなはずではなかったのに、という思いがある。かつて「電子書籍」は「夢」であった。こんなことができたらすばらしい、みんなは、そこに「夢」を語っていた。

しかし、今、実現している電子書籍はどうであろうか。かつての「夢」を実現してくれているであろうか。

私の答えは「否」である。

とはいえ、電子書籍、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズの将来に悲観しているというのともちょっとちがう。そこに、将来の希望を見てはいる。しかし、もはや、自分が実践的にそこにかかわろうとは思わなくなってしまった。(年をとったからだと言われればそれまでである。)

私は、紙の本にもどっている。本を、古典を、文学を、読んで時間をつかいたいと思う。

「夏目漱石」は、Kindle版に全集がはいっている。それは、外出するときは持ち歩くことにしている。今は「芥川龍之介」を読むことにしている。

しかし、本当に本を読んでいると感じるのは、やはり、自分の部屋の自分の机において、紙の本を読むときである。これからの「実践」は、若い人たちにまかせたいと思うようになってきている。私は、それを眺めながら、自分で好きな「古典」を読んでおきたいのである。

追記 2019-01-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月17日
『最後の読書』津野海太郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/17/9025947