『おむすび』「人それぞれでよか」 ― 2024-12-08
2024年12月8日 當山日出夫
『おむすび』「人それぞれでよか」
この週についても、良かったと思うところと、あまり感心しないなと感じたところと、書いてみる。
良かったと思うところ。
震災について何を感じるか、そこからどのように生きていくか、それはひとそれぞれである。靴屋の渡辺は、元の生活にもどることができないでいる。パン屋(その前は惣菜屋)の美佐江はとにかく前向きに生きていこうとする。そして、結の父の聖人は、いったんは糸島に戻ったものの再び神戸に来て理髪店を再開する。ひとそれぞれということである。
これを結は、野菜……アスパラガスやトマトやブロッコリー……にたとえていた。これはそのとおりなので、災害や事故などについて、何を感じ、それからどのような生き方を選択するかは、それぞれの人によって違う。ひとくくりに被災者という枠のなかで考えるべきではない。
これは非常に大事なことであると、私は思う。
次に、あまり感心しないところ。
このドラマでは仕事が描かれていない。糸島のときには、まだ農家の仕事ぶりが出てきていたが、神戸になってから、聖人の理髪店ぐらいしか、商店街のなかで仕事をしている人が出てこない。
渡辺が靴の仕事をしているところ。美佐江の店でパンを作っているところ。こういうシーンがあった方がいい。たしかに、このようなシーンをいれると、ドラマの制作コストはかかる。何故、神戸で震災にあった人たちが、そこから離れずに街を復興することに尽力することになるのか、その原動力になるのは、(その一つとしては)地元に密着した仕事を通じてであるはずである。特に、個人商店を中心とした商店街を舞台に描くならば、仕事を通してのお客さんとの交流が不可欠だろうと思う。ここは是非ともきちんと描いておくべきところだと感じる。
比べてみるならばということになるが……『カーネーション』では、小原の店(呉服店から洋装店)で、岸和田の地元の商店街の人びととの交流が描かれている。『カムカムエヴリバディ』では、岡山のたちばなの菓子屋の仕事を通じてそれを買うお客さんの顔が見える。また、以前の『舞いあがれ!』では、東大阪のネジの町工場の仕事を通じて、地元の人たちとの関係性が描かれていた。しかし、『おむすび』では、特に神戸編になってから、そのような地元の人との関係性を仕事を通じて描くということがなくなっている。今風の言い方をすれば、職業を通じての自己実現ということになるが、それがないのである。
それから気になることとしては、祖父の永吉が、震災の後で避難所に来ていたが、それまでにいくつかの避難所を回って探し当てたと言っていた。これは、その当時、どこに避難所が開設されているのか、という情報自体、どうやって手にいれたのだろうか。行政が用意したもの以外にも、いろんな場所に被災した人たちはいたと思うのだが。おそらく、学校を探して回るというのが、せいぜい出来ることだったかと思うのだが、どうなのだろうか。この時代、一九九五年の段階では、インターネットはおろか、携帯電話さえそんなに普及していない。強いて描くとするならば、聖人か愛子が、糸島の両親に自分たちの無事を、かろうじてつながっていた公衆電話で知らせるということがあったなら、というぐらいかと思う。(ちなみに、旧来の普通の電話は、もし停電していても回戦が切れていなければ通じる。だからこそ、現在でも、災害時のために公衆電話を残すことが言われている。)
2024年12月6日記
『おむすび』「人それぞれでよか」
この週についても、良かったと思うところと、あまり感心しないなと感じたところと、書いてみる。
良かったと思うところ。
震災について何を感じるか、そこからどのように生きていくか、それはひとそれぞれである。靴屋の渡辺は、元の生活にもどることができないでいる。パン屋(その前は惣菜屋)の美佐江はとにかく前向きに生きていこうとする。そして、結の父の聖人は、いったんは糸島に戻ったものの再び神戸に来て理髪店を再開する。ひとそれぞれということである。
これを結は、野菜……アスパラガスやトマトやブロッコリー……にたとえていた。これはそのとおりなので、災害や事故などについて、何を感じ、それからどのような生き方を選択するかは、それぞれの人によって違う。ひとくくりに被災者という枠のなかで考えるべきではない。
これは非常に大事なことであると、私は思う。
次に、あまり感心しないところ。
このドラマでは仕事が描かれていない。糸島のときには、まだ農家の仕事ぶりが出てきていたが、神戸になってから、聖人の理髪店ぐらいしか、商店街のなかで仕事をしている人が出てこない。
渡辺が靴の仕事をしているところ。美佐江の店でパンを作っているところ。こういうシーンがあった方がいい。たしかに、このようなシーンをいれると、ドラマの制作コストはかかる。何故、神戸で震災にあった人たちが、そこから離れずに街を復興することに尽力することになるのか、その原動力になるのは、(その一つとしては)地元に密着した仕事を通じてであるはずである。特に、個人商店を中心とした商店街を舞台に描くならば、仕事を通してのお客さんとの交流が不可欠だろうと思う。ここは是非ともきちんと描いておくべきところだと感じる。
比べてみるならばということになるが……『カーネーション』では、小原の店(呉服店から洋装店)で、岸和田の地元の商店街の人びととの交流が描かれている。『カムカムエヴリバディ』では、岡山のたちばなの菓子屋の仕事を通じてそれを買うお客さんの顔が見える。また、以前の『舞いあがれ!』では、東大阪のネジの町工場の仕事を通じて、地元の人たちとの関係性が描かれていた。しかし、『おむすび』では、特に神戸編になってから、そのような地元の人との関係性を仕事を通じて描くということがなくなっている。今風の言い方をすれば、職業を通じての自己実現ということになるが、それがないのである。
それから気になることとしては、祖父の永吉が、震災の後で避難所に来ていたが、それまでにいくつかの避難所を回って探し当てたと言っていた。これは、その当時、どこに避難所が開設されているのか、という情報自体、どうやって手にいれたのだろうか。行政が用意したもの以外にも、いろんな場所に被災した人たちはいたと思うのだが。おそらく、学校を探して回るというのが、せいぜい出来ることだったかと思うのだが、どうなのだろうか。この時代、一九九五年の段階では、インターネットはおろか、携帯電話さえそんなに普及していない。強いて描くとするならば、聖人か愛子が、糸島の両親に自分たちの無事を、かろうじてつながっていた公衆電話で知らせるということがあったなら、というぐらいかと思う。(ちなみに、旧来の普通の電話は、もし停電していても回戦が切れていなければ通じる。だからこそ、現在でも、災害時のために公衆電話を残すことが言われている。)
2024年12月6日記
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