英雄たちの選択「ラストサムライ 謎多き新選組隊士 斎藤一」 ― 2025-04-05
2025年4月5日 當山日出夫
英雄たちの選択 ラストサムライ 謎多き新選組隊士 斎藤一
現代の歴史研究の本筋からするならば、新撰組というのはあまり研究する価値はないと思っているのだが、はたしてどうなのだろうか。その存在が、当時の政治や社会に大きな影響があったということではないだろうし(新撰組のために殺されてしまった人はいたにちがいないが)、明治維新の趨勢に影響力のあるパラメータであったということはないだろう。強いていえば、幕末の会津藩という存在を考えるときに、新撰組のことが出てくるぐらいだろうか。
しかし、その一方で、近代になってからのサブカルチャーの領域で、新撰組は圧倒的な人気である。古くは、永倉新八のことぐらいからはじまって、『新撰組始末記』があり、『新撰組血風録』へとつづいていく。それに、幕末を舞台にした映画などがからんでくることになり、マンガなどもある。
ともあれ、新撰組を生きのびた……斬り合いをして死ななかったばかりか、切腹させられずに済んだ……という意味では、斎藤一とか永倉新八は、すごいとしかいいようがないだろう。
この番組で斎藤一をとりあげる意味はいったい何だったのだろう、と思うところもある。
ひょっとすると、萱野稔人が語ったように、近代人としての心性を斎藤一の生き方に見出したかったということなのかもしれない。自分の職務に忠実であり、同時に、現実に即した判断ができる。こういうことを、マックス・ウェーバーが言っているとして、(まあ、私も「プロ倫」ぐらいは読んでいるが)、それにあてはまる人物として見ることは、はたしてどれぐらい妥当だろうか。
時代遅れの生き方しか出来ないような人間ほど、場合によっては、時代のなかで自己をつらぬいて生きているように見える、ということもあるだろう。近代的と見える側面と、非近代的と考えられる側面とは、一つのことの裏表というべきかもしれない。
磯田道史の言った、会津藩の史料にあった、碁盤の筋で定められた領域のなかで、人間は生きなければならないものである……これは、前近代的な考え方とも言えるし(封建的な身分秩序の維持)、しかし、社会や組織のなかでの自分の職務に忠実であれ、という近代的な発想とも見ることも可能である。
ところで、磯田道史は榎本武揚のことが嫌いなのだろうか。番組のなかで、オランダかぶれ、と言っていたが、これは函館に陣取った榎本武揚のことだろう。榎本武揚は、オランダに留学して海軍を学んだ幕臣である。(さて、榎本武揚は再来年の大河ドラマの『逆賊の幕臣』には登場することになるだろうか。)
一般論として近代人の心性としてもとめられるのは、社会や組織のなかで自己に与えられた職務を遂行することであり、それと同時に、学歴出世主義(特に日本の場合は)ということになると思っている。このバランスのなかで近代的な日本人の心性が涵養されていったと思うが、これを総合的に考えるのは、いろいろと難しいことになりそうではある。
どうでもいいことだが、番組のなかで使われていた映像には、『八重の桜』のものがあった。四月から再放送である。これは、見るつもりでいる。
2025年3月29日記
英雄たちの選択 ラストサムライ 謎多き新選組隊士 斎藤一
現代の歴史研究の本筋からするならば、新撰組というのはあまり研究する価値はないと思っているのだが、はたしてどうなのだろうか。その存在が、当時の政治や社会に大きな影響があったということではないだろうし(新撰組のために殺されてしまった人はいたにちがいないが)、明治維新の趨勢に影響力のあるパラメータであったということはないだろう。強いていえば、幕末の会津藩という存在を考えるときに、新撰組のことが出てくるぐらいだろうか。
しかし、その一方で、近代になってからのサブカルチャーの領域で、新撰組は圧倒的な人気である。古くは、永倉新八のことぐらいからはじまって、『新撰組始末記』があり、『新撰組血風録』へとつづいていく。それに、幕末を舞台にした映画などがからんでくることになり、マンガなどもある。
ともあれ、新撰組を生きのびた……斬り合いをして死ななかったばかりか、切腹させられずに済んだ……という意味では、斎藤一とか永倉新八は、すごいとしかいいようがないだろう。
この番組で斎藤一をとりあげる意味はいったい何だったのだろう、と思うところもある。
ひょっとすると、萱野稔人が語ったように、近代人としての心性を斎藤一の生き方に見出したかったということなのかもしれない。自分の職務に忠実であり、同時に、現実に即した判断ができる。こういうことを、マックス・ウェーバーが言っているとして、(まあ、私も「プロ倫」ぐらいは読んでいるが)、それにあてはまる人物として見ることは、はたしてどれぐらい妥当だろうか。
時代遅れの生き方しか出来ないような人間ほど、場合によっては、時代のなかで自己をつらぬいて生きているように見える、ということもあるだろう。近代的と見える側面と、非近代的と考えられる側面とは、一つのことの裏表というべきかもしれない。
磯田道史の言った、会津藩の史料にあった、碁盤の筋で定められた領域のなかで、人間は生きなければならないものである……これは、前近代的な考え方とも言えるし(封建的な身分秩序の維持)、しかし、社会や組織のなかでの自分の職務に忠実であれ、という近代的な発想とも見ることも可能である。
ところで、磯田道史は榎本武揚のことが嫌いなのだろうか。番組のなかで、オランダかぶれ、と言っていたが、これは函館に陣取った榎本武揚のことだろう。榎本武揚は、オランダに留学して海軍を学んだ幕臣である。(さて、榎本武揚は再来年の大河ドラマの『逆賊の幕臣』には登場することになるだろうか。)
一般論として近代人の心性としてもとめられるのは、社会や組織のなかで自己に与えられた職務を遂行することであり、それと同時に、学歴出世主義(特に日本の場合は)ということになると思っている。このバランスのなかで近代的な日本人の心性が涵養されていったと思うが、これを総合的に考えるのは、いろいろと難しいことになりそうではある。
どうでもいいことだが、番組のなかで使われていた映像には、『八重の桜』のものがあった。四月から再放送である。これは、見るつもりでいる。
2025年3月29日記
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