半藤一利『日露戦争史 1』 ― 2016-08-21
2016-08-21 當山日出夫
半藤一利.『日露戦争史 1』(平凡社ライブラリー).平凡社.2016 (原著.平凡社.2012)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b218045.html
この本、全部で三巻になる。本当は、全部読んでから感想など書くべきかと思うが、とりあえず、第一冊目を読み終わったので、その時点で思ったことなどまとめておきたい。単行本で出たとき、いずれ平凡社ライブラリーになるだろうから、そのときになってからまとめて買って読もうと思っていた本である。
日露戦争とくれば、私などは、ともかく『坂の上の雲』(司馬遼太郎)を思い出してしまう。これは、二回読んでいる。新・旧の文春文庫版で読んだ。最初に読んだのは、かなり若いときだったと覚えている。電車のなかで読む本として読んだ。司馬遼太郎の小説は新聞連載なので、短く切って読んでもわかりやすく書いてある。この意味では、外出先で電車の中で読む本ときめて読むには、ちょうどよかった。
それから、もちろん、NHKのドラマ『坂の上の雲』。これの放送は、2009年から2011年までだったか。これも録画して、何度か繰り返し見たものである。それから、再編集の再放送も、ほとんど見た。
このようなことを、とりあえず書いておかないと、この本『日露戦争史』(半藤一利)の位置づけがはっきりしない。著者は、(第一巻までは)はっきり書いてはいないのだが、当然ながら、司馬遼太郎『坂の上の雲』やNHKドラマのことは、かなり意識して書いているように、私などには思える。むろん、まだ、『坂の上の雲』を読んでいない人にも、わかるようには書いてあると思うのだが、その叙述のあり方を見ると、かなり意識しているという感じがしてならない。
その理由を二つほど考えてみる。
第一に、これは、「歴史小説」でも「歴史書」でもないと、自ら述べていること。「歴史探偵」と言っている。これは、半藤一利の他の著作でも同じであるが、「歴史探偵」ということばを、ここまで自覚的につかっているのは、半藤一利ぐらいなものかもしれない。
では、「歴史小説」ではないのはなぜか。これは、〈歴史とは何か〉という疑問について考えることにもなる。基本的には、史料にもとづいて書く、フィクションを交えることはない(原則)、ということになるのだろう。また、異論・異説があれば、それに言及することも忘れてはいない。
次に、それならば「歴史書」「歴史研究」ではないのは、どういう点においてか。強いて忖度すれば、研究者として、史料に基づいてそれまで知られていない史実をあきらかにしよう、という姿勢で臨んでいるのではない、ということになろうか。基本は、あくまでも、すでに知られている、公刊されているような史書にしたがいながら、歴史がこのようなものであったことを叙述していく。
この本のなかには、詳しいことは既刊の歴史書にゆずる旨の記載が、いくつか見られる。細かな歴史的経緯、事実関係については、専門書や論文、さらには史料を読んでほしいということになっている。
第二には、その歴史を見る視点のおきかたである。著者は、「民草」と書いている。「国民」とも「市民」とも書いていない。「民草」……しいて言い換えるならば、一般庶民とでもなるだろうか。それをあえて「民草」と称しているのは、かなり、その立場からの視点というのを意識してのことだろうと思う。
その当時の「民草」の目から見ると政府のうごきはどうであったか、戦争にいたるまでの「民草」の反応はどのようなものであったか、そのような視点からの叙述が、随所にいれられている。時代の動きそのものを主人公にしたというのでもない。また、政府の誰か、国民の誰かをを、主人公にしたのでもない。「民草」ということばでしか表せないような、多くの国民の一般の視点を、取り込もうとしている。そして、作者自身も、時代という大きな流れのなかにあっては、「民草」の一人にすぎないという自覚をもって書いてある。
この意味では、最近の半藤一利の本、『B面昭和史』に重なるところがある。
半藤一利.『B面昭和史-1926-1945-』.平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b214434.html
以上の二点を考えてみたが、このような点が、「歴史小説」でもないし、「歴史書」でもない。だが、「歴史」をあつかった読み物としての「歴史探偵」という呼称の背景にあるものだと、私などは思う。
ところで、第一冊目を読んだところまでで、重要だと思うところを、さらに二つほど、あげておく。
第一のこととしては、上述のこととも関連するが、たとえば、広瀬武夫のエピソードについての、あまりにそっけない、あるいは冷淡ともいえる記載である。広瀬武夫の旅順港閉塞作戦は、日露戦争における重要なエピソードである。なにせ、「軍神」なのであるから。司馬遼太郎も、また、NHKドラマも大きくとりあげていた。いや、NHKドラマでは、主人公(秋山真之、秋山好古、正岡子規)につぐ重要な人物として登場していた。司馬遼太郎の原作にはないロシア留学の場面にかなりの分量をつかっていた。その広瀬武夫についての、あまりにそっけない記述は、読んでいてうっかり読み過ごしてしまいかねないほどである。
章末の注でさりげなくふれてあるが、広瀬武夫のことはあまりにも有名なので、大きくとりあげなかったとある。このあたりを見ると、『坂の上の雲』を読んでいる、あるいは、軍神広瀬中佐のことを知っている、場合によっては、歌も知っている、ということを、読者の前提として書かれていることになる。
この意味では、やはり、この本は、読者とともにある現代という時代を意識して書かれている本、ということになる。
第二のこととしては、上述のように、はっきりと自覚的に現代の視点から、日露戦争を見ていることである。
それは、たとえば、折に触れてでてくる、太平洋戦争当時の日本との比較である。端的には、明治の時代のリアリズムといってよいであろうか。日露戦争にあっては、決して簡単に勝てるなどと、指導者は思っていなかった。何よりも重要なことは、戦争を始めるにあたって、それをどう終わらせるかということを、視野にいれていたことだろう。アメリカを仲介とした和平工作を、戦争開始にあたってすでにはじめている。このあたりの現実的な感覚は、後の太平洋戦争、それ以前の日中戦争をはじめるにあたっての日本の指導者のあり方と、きわめて対照的である。
なにかことをはじめるのは簡単かもしれない。しかし、同時に、それを始めるときには、どうやってそれを終わらせるかを考えなければならない……日露戦争当時の日本の指導者には、このような現実的な感覚があった。
現代の視点から、太平洋戦争当時の日本のありさまをふりかえるとき、かつての日露戦争のときの日本のあり方が、きわめて重要なものとしてうかびあがってくる。このような記述がいたるところにある。
上記、二点、さらに思うことを書いてみた。この本、のこる第二巻、第三巻とある、読んでから、思ったことなど書いてみたい。
追記
このつづきは、
半藤一利『日露戦争史 2』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163037
半藤一利.『日露戦争史 1』(平凡社ライブラリー).平凡社.2016 (原著.平凡社.2012)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b218045.html
この本、全部で三巻になる。本当は、全部読んでから感想など書くべきかと思うが、とりあえず、第一冊目を読み終わったので、その時点で思ったことなどまとめておきたい。単行本で出たとき、いずれ平凡社ライブラリーになるだろうから、そのときになってからまとめて買って読もうと思っていた本である。
日露戦争とくれば、私などは、ともかく『坂の上の雲』(司馬遼太郎)を思い出してしまう。これは、二回読んでいる。新・旧の文春文庫版で読んだ。最初に読んだのは、かなり若いときだったと覚えている。電車のなかで読む本として読んだ。司馬遼太郎の小説は新聞連載なので、短く切って読んでもわかりやすく書いてある。この意味では、外出先で電車の中で読む本ときめて読むには、ちょうどよかった。
それから、もちろん、NHKのドラマ『坂の上の雲』。これの放送は、2009年から2011年までだったか。これも録画して、何度か繰り返し見たものである。それから、再編集の再放送も、ほとんど見た。
このようなことを、とりあえず書いておかないと、この本『日露戦争史』(半藤一利)の位置づけがはっきりしない。著者は、(第一巻までは)はっきり書いてはいないのだが、当然ながら、司馬遼太郎『坂の上の雲』やNHKドラマのことは、かなり意識して書いているように、私などには思える。むろん、まだ、『坂の上の雲』を読んでいない人にも、わかるようには書いてあると思うのだが、その叙述のあり方を見ると、かなり意識しているという感じがしてならない。
その理由を二つほど考えてみる。
第一に、これは、「歴史小説」でも「歴史書」でもないと、自ら述べていること。「歴史探偵」と言っている。これは、半藤一利の他の著作でも同じであるが、「歴史探偵」ということばを、ここまで自覚的につかっているのは、半藤一利ぐらいなものかもしれない。
では、「歴史小説」ではないのはなぜか。これは、〈歴史とは何か〉という疑問について考えることにもなる。基本的には、史料にもとづいて書く、フィクションを交えることはない(原則)、ということになるのだろう。また、異論・異説があれば、それに言及することも忘れてはいない。
次に、それならば「歴史書」「歴史研究」ではないのは、どういう点においてか。強いて忖度すれば、研究者として、史料に基づいてそれまで知られていない史実をあきらかにしよう、という姿勢で臨んでいるのではない、ということになろうか。基本は、あくまでも、すでに知られている、公刊されているような史書にしたがいながら、歴史がこのようなものであったことを叙述していく。
この本のなかには、詳しいことは既刊の歴史書にゆずる旨の記載が、いくつか見られる。細かな歴史的経緯、事実関係については、専門書や論文、さらには史料を読んでほしいということになっている。
第二には、その歴史を見る視点のおきかたである。著者は、「民草」と書いている。「国民」とも「市民」とも書いていない。「民草」……しいて言い換えるならば、一般庶民とでもなるだろうか。それをあえて「民草」と称しているのは、かなり、その立場からの視点というのを意識してのことだろうと思う。
その当時の「民草」の目から見ると政府のうごきはどうであったか、戦争にいたるまでの「民草」の反応はどのようなものであったか、そのような視点からの叙述が、随所にいれられている。時代の動きそのものを主人公にしたというのでもない。また、政府の誰か、国民の誰かをを、主人公にしたのでもない。「民草」ということばでしか表せないような、多くの国民の一般の視点を、取り込もうとしている。そして、作者自身も、時代という大きな流れのなかにあっては、「民草」の一人にすぎないという自覚をもって書いてある。
この意味では、最近の半藤一利の本、『B面昭和史』に重なるところがある。
半藤一利.『B面昭和史-1926-1945-』.平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b214434.html
以上の二点を考えてみたが、このような点が、「歴史小説」でもないし、「歴史書」でもない。だが、「歴史」をあつかった読み物としての「歴史探偵」という呼称の背景にあるものだと、私などは思う。
ところで、第一冊目を読んだところまでで、重要だと思うところを、さらに二つほど、あげておく。
第一のこととしては、上述のこととも関連するが、たとえば、広瀬武夫のエピソードについての、あまりにそっけない、あるいは冷淡ともいえる記載である。広瀬武夫の旅順港閉塞作戦は、日露戦争における重要なエピソードである。なにせ、「軍神」なのであるから。司馬遼太郎も、また、NHKドラマも大きくとりあげていた。いや、NHKドラマでは、主人公(秋山真之、秋山好古、正岡子規)につぐ重要な人物として登場していた。司馬遼太郎の原作にはないロシア留学の場面にかなりの分量をつかっていた。その広瀬武夫についての、あまりにそっけない記述は、読んでいてうっかり読み過ごしてしまいかねないほどである。
章末の注でさりげなくふれてあるが、広瀬武夫のことはあまりにも有名なので、大きくとりあげなかったとある。このあたりを見ると、『坂の上の雲』を読んでいる、あるいは、軍神広瀬中佐のことを知っている、場合によっては、歌も知っている、ということを、読者の前提として書かれていることになる。
この意味では、やはり、この本は、読者とともにある現代という時代を意識して書かれている本、ということになる。
第二のこととしては、上述のように、はっきりと自覚的に現代の視点から、日露戦争を見ていることである。
それは、たとえば、折に触れてでてくる、太平洋戦争当時の日本との比較である。端的には、明治の時代のリアリズムといってよいであろうか。日露戦争にあっては、決して簡単に勝てるなどと、指導者は思っていなかった。何よりも重要なことは、戦争を始めるにあたって、それをどう終わらせるかということを、視野にいれていたことだろう。アメリカを仲介とした和平工作を、戦争開始にあたってすでにはじめている。このあたりの現実的な感覚は、後の太平洋戦争、それ以前の日中戦争をはじめるにあたっての日本の指導者のあり方と、きわめて対照的である。
なにかことをはじめるのは簡単かもしれない。しかし、同時に、それを始めるときには、どうやってそれを終わらせるかを考えなければならない……日露戦争当時の日本の指導者には、このような現実的な感覚があった。
現代の視点から、太平洋戦争当時の日本のありさまをふりかえるとき、かつての日露戦争のときの日本のあり方が、きわめて重要なものとしてうかびあがってくる。このような記述がいたるところにある。
上記、二点、さらに思うことを書いてみた。この本、のこる第二巻、第三巻とある、読んでから、思ったことなど書いてみたい。
追記
このつづきは、
半藤一利『日露戦争史 2』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163037
松本健一『「日の丸・君が代」の話』 ― 2016-08-22
2016-08-22 當山日出夫
松本健一.『「日の丸・君が代」の話』(PHP新書).PHP研究所.1999
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-60858-2
この本、いまは、品切れ重版未定ということらしい。
オリンピックで、日の丸・君が代を目にする、耳にすることが多い。個人的な感想を先に述べておくならば、私は、日の丸・君が代を、国旗・国歌として認める立場をとる。そのうえで、それがどのような場面でつかわれるべきかについては、慎重な判断がもとめられると思っている。
オリンピックのような、基本的に国(国民国家という擬制の上になりたつものかもしれないが)、その国家を基本の単位として、選手たちがが集まり、競技をきそう。そのような場面においては、国旗・国家というものは必要であると思うし、それなりの礼節をもって扱われなければならなないものだと思っている。
だが、その日の丸・君が代の歴史となると、意外と知らないことに気づく。本棚からとりだしてきて読んでみることにした。
ここでは、日の丸(日章旗)について、著者(松本健一)の言っていることを見ておきたい。
松本健一という人は、ナショナリストだといっていいと思っている。(これは、決して批判しているわけではない。自覚的に、そのような立場をつらぬいた、そして、そのことの意味を考え続けた人間であると思うだけのことである。)
まず、次のような認識の確認がある。
「日本とはどういう国で、日本民族はどのような歴史を生きてきたのか。「日本」という国号はいつごろ生まれたのか。それはどういう文化に拠っているのか。あるいは皇室とはいつごろできて、どういう制度的・文化的な根拠があるのか、ということを一度明らかにしなければナショナル・アイデンティティの議論は明確にならない。」(p.45)
確認しておけば、この本は、1999年の本。東西冷戦が終わり、新たな国際社会の秩序をそれぞれの国が模索しているような状態のなかで、日本のあり方はどうあるべきか、という視点から書かれている。
まず、日の丸は、古く『平家物語』の時代から確認できるとある。那須与一の射貫いた扇は、日の丸のデザインであったと指摘する。
そして、この日の丸は、幕末になって、日本がいやおうなく開国をせまられる状況においこまれたなかで、日本国のシンボルとして歴史のなかで登場することになる。時の幕府は「日本国総船印」を定める必要があった。そこで選ばれたのが日の丸ということになる。
そして、この日の丸は、戊辰戦争のとき、幕府軍の使うところともなった。日の丸を掲げることで、その正統性を主張したのである。なお、これに対して、倒幕の側がかかげたのが錦旗(天皇の象徴である菊紋)であった。
その後、明治になって、明治政府の方針として、菊の紋章は皇室のものと定められ、一般の使用が禁止される。そして、日の丸が、郵船・商船・軍艦における御国旗として定められることになった。
そして、日の丸については、このように結論づける。
「「日の丸」は、文化的にも法的にも、日本という国家の対外的な存在証明でありつづけてきたのである。」(p.85)
たぶん、このような日の丸の歴史に、そのものについては異論はないであろうと思う。ただ、問題があるとすれば、日の丸が、どのような場面で、どのような意味があるのか、という議論になっている、それが現在の問題であると思う。
オリンピックで、日本選手の応援に日の丸を掲げるのは、これは特に批判されるべきではないと思う。日本という国家として、オリンピックに参加しており、他の選手も、それぞれの国家を代表して参加しているのであるから、ここでは、国旗(それから国歌)は、等しく平等にあつかわれ、それぞれに敬意をもって、とりあつかわれるべきものになる。
このような素直(といっておくが)な、ナショナリズムの象徴である日の丸が、日本国内での行事(たとえば学校の行事)などでは、忌避される対象ともなっている。こういう、いわばねじれたような状況は、私はよくないと思っている。
ここで論点を整理すれば、
第一に、国家(近代的な国民国家)には、国旗というものがあること。
第二に、日本においては、それは日の丸であること。
第三に、国旗としてしかるべき礼節をもってとりあつかわれねばならないこと。
第四に、にもかかわらず、日の丸に忌避感をいだく人間のいることも配慮して、それが、どのような場面で、どのようにあつかわれるべきかは、慎重であるべきこと。
以上のようになるであろうか。このような論点を整理したうえで、日の丸というものにつきあっていかねばならないと私は考えるのである。
原則をいうならば、国旗・国歌は礼節をもってあつかわれねばならないが、しかし、強制すべき性質のものではない、ということなる。ただ、日の丸を忌避するだけでは、建設的な方向にむかってはいかないと思う次第である。
松本健一.『「日の丸・君が代」の話』(PHP新書).PHP研究所.1999
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-60858-2
この本、いまは、品切れ重版未定ということらしい。
オリンピックで、日の丸・君が代を目にする、耳にすることが多い。個人的な感想を先に述べておくならば、私は、日の丸・君が代を、国旗・国歌として認める立場をとる。そのうえで、それがどのような場面でつかわれるべきかについては、慎重な判断がもとめられると思っている。
オリンピックのような、基本的に国(国民国家という擬制の上になりたつものかもしれないが)、その国家を基本の単位として、選手たちがが集まり、競技をきそう。そのような場面においては、国旗・国家というものは必要であると思うし、それなりの礼節をもって扱われなければならなないものだと思っている。
だが、その日の丸・君が代の歴史となると、意外と知らないことに気づく。本棚からとりだしてきて読んでみることにした。
ここでは、日の丸(日章旗)について、著者(松本健一)の言っていることを見ておきたい。
松本健一という人は、ナショナリストだといっていいと思っている。(これは、決して批判しているわけではない。自覚的に、そのような立場をつらぬいた、そして、そのことの意味を考え続けた人間であると思うだけのことである。)
まず、次のような認識の確認がある。
「日本とはどういう国で、日本民族はどのような歴史を生きてきたのか。「日本」という国号はいつごろ生まれたのか。それはどういう文化に拠っているのか。あるいは皇室とはいつごろできて、どういう制度的・文化的な根拠があるのか、ということを一度明らかにしなければナショナル・アイデンティティの議論は明確にならない。」(p.45)
確認しておけば、この本は、1999年の本。東西冷戦が終わり、新たな国際社会の秩序をそれぞれの国が模索しているような状態のなかで、日本のあり方はどうあるべきか、という視点から書かれている。
まず、日の丸は、古く『平家物語』の時代から確認できるとある。那須与一の射貫いた扇は、日の丸のデザインであったと指摘する。
そして、この日の丸は、幕末になって、日本がいやおうなく開国をせまられる状況においこまれたなかで、日本国のシンボルとして歴史のなかで登場することになる。時の幕府は「日本国総船印」を定める必要があった。そこで選ばれたのが日の丸ということになる。
そして、この日の丸は、戊辰戦争のとき、幕府軍の使うところともなった。日の丸を掲げることで、その正統性を主張したのである。なお、これに対して、倒幕の側がかかげたのが錦旗(天皇の象徴である菊紋)であった。
その後、明治になって、明治政府の方針として、菊の紋章は皇室のものと定められ、一般の使用が禁止される。そして、日の丸が、郵船・商船・軍艦における御国旗として定められることになった。
そして、日の丸については、このように結論づける。
「「日の丸」は、文化的にも法的にも、日本という国家の対外的な存在証明でありつづけてきたのである。」(p.85)
たぶん、このような日の丸の歴史に、そのものについては異論はないであろうと思う。ただ、問題があるとすれば、日の丸が、どのような場面で、どのような意味があるのか、という議論になっている、それが現在の問題であると思う。
オリンピックで、日本選手の応援に日の丸を掲げるのは、これは特に批判されるべきではないと思う。日本という国家として、オリンピックに参加しており、他の選手も、それぞれの国家を代表して参加しているのであるから、ここでは、国旗(それから国歌)は、等しく平等にあつかわれ、それぞれに敬意をもって、とりあつかわれるべきものになる。
このような素直(といっておくが)な、ナショナリズムの象徴である日の丸が、日本国内での行事(たとえば学校の行事)などでは、忌避される対象ともなっている。こういう、いわばねじれたような状況は、私はよくないと思っている。
ここで論点を整理すれば、
第一に、国家(近代的な国民国家)には、国旗というものがあること。
第二に、日本においては、それは日の丸であること。
第三に、国旗としてしかるべき礼節をもってとりあつかわれねばならないこと。
第四に、にもかかわらず、日の丸に忌避感をいだく人間のいることも配慮して、それが、どのような場面で、どのようにあつかわれるべきかは、慎重であるべきこと。
以上のようになるであろうか。このような論点を整理したうえで、日の丸というものにつきあっていかねばならないと私は考えるのである。
原則をいうならば、国旗・国歌は礼節をもってあつかわれねばならないが、しかし、強制すべき性質のものではない、ということなる。ただ、日の丸を忌避するだけでは、建設的な方向にむかってはいかないと思う次第である。
谷崎潤一郎『文章読本』 ― 2016-08-23
2016-08-23 當山日出夫
谷崎潤一郎.『陰影礼賛・文章読本』(新潮文庫).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/100516/
新潮文庫で新しい本がでたので、買って再読してみた、というところである。
谷崎潤一郎は、昭和40年(1965)になくなっている。つまり、もう、著作権の保護期間が終わっているということになる。そのせいか……『谷崎潤一郎全集』が刊行になるし、また、この新潮文庫の『陰影礼賛・文章読本』が出ている。他には、気づいたところでは、『細雪』が、角川文庫で出ている。ちなみに、この新潮文庫版の帯には、「没後五〇年」と記してある。
角川文庫版『細雪』
http://www.kadokawa.co.jp/product/321512000005/
ところで、この『文章読本』、いまどきどんな人間が買って読むのだろう……たぶん、私のような人間か、昔、谷崎の作品のいくつかを読んだり、また、『文章読本』をどこかで読んだ経験があって、今、新しいのが出たので買って読んでみよう……というような人間なんだろう、と思ったりしている。
というのも、読んでみて(再読になるか)、なるほどと思わせるところもある一方で、こんなにも陳腐な文章論、日本語論であったのか、と今更ながらある意味で感心したりする。
たとえば次のような箇所。
「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」(p.178)
現在の言語研究の観点からすれば、日本語は、特に、語彙・文法の面において、特殊な言語ということはない、というのが常識的なところだろうと思っている。日本語があいまいな言語だとかというのは、単なる思い込み、迷信のようなものにすぎない。
にもかかわらず、やはり『文章読本』というと谷崎のこの本をあげることになってしまう。これは、日本語における文章教育、国語教育の宿痾のようなものかと思っている。よくいわれることであるが、言語コミュニケーション技能と、文学的情操教育の関係の問題である。本来、これらは、別の観点から教えられるべきものであるはずである。しかし、それが、未分化なまま混在しているのが、日本の国語教育(特に、初等中等教育)の問題なのであろうと思う。いまだに、読書感想文などというものが横行していることを見ても、そのことは言えると思うのである。
私は、学生には、「文章読本」の類は、すすめることはない。教えているのは、大学(高等教育)における、文章コミュニケーション技能のトレーニング、つまり、論文やレポートの書き方である。論文やレポートを書くのに、「文章読本」の類は、役にたつことはないと言っておく。それよりも、紹介するのは木下是雄の本『理科系の作文技術』『レポートの組み立て方』などである。
とはいえ、文学とか、言語文化というような領域について勉強しようという学生にとっては、「文章読本」の類は、読んでおくべき一群の書物ということになるだろう。谷崎潤一郎のほかにも、今、名前がうかぶだけでも、三島由紀夫、川端康成、などが書いている。ほかにも、井上ひさし、丸谷才一などにも、著作があある。文学部で、文学研究などに興味関心のある学生にとっては、むしろ、逆に必読書といえるかもしれない。
いうまでもないが、これは、谷崎潤一郎の文章論、日本語論に賛成してのことではない。このような文章論、日本語論が、一般に受け入れられている日本の現状を認識しておかなければならない、という意味においてである。特に、日本語学などを専攻する学生にとっては、この谷崎潤一郎『文章読本』は、批判的に読まれるべき性質のものと考える。
ところで、今回、『文章読本』を読み直してみて、一つだけ面白い箇所があった。変体仮名についてである。これについては、また、別に書いてみることにする。
それから蛇足にもうひとつ。新潮文庫版を手にして、まず解説から読んだが……書いているのが、筒井康隆だった。どうして、斎藤美奈子に頼まなかったのだろう。あるいは、頼んで断られたのか。
『文章読本』を読んでから、本棚を探してみた。
斎藤美奈子.『文章読本さん江』(ちくま文庫).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424037/
この本についても改めて再読しての読後感など書きたいと思っている。
追記 2016-08-31
人名を間違えていた。斉藤→斎藤に訂正。
谷崎潤一郎.『陰影礼賛・文章読本』(新潮文庫).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/100516/
新潮文庫で新しい本がでたので、買って再読してみた、というところである。
谷崎潤一郎は、昭和40年(1965)になくなっている。つまり、もう、著作権の保護期間が終わっているということになる。そのせいか……『谷崎潤一郎全集』が刊行になるし、また、この新潮文庫の『陰影礼賛・文章読本』が出ている。他には、気づいたところでは、『細雪』が、角川文庫で出ている。ちなみに、この新潮文庫版の帯には、「没後五〇年」と記してある。
角川文庫版『細雪』
http://www.kadokawa.co.jp/product/321512000005/
ところで、この『文章読本』、いまどきどんな人間が買って読むのだろう……たぶん、私のような人間か、昔、谷崎の作品のいくつかを読んだり、また、『文章読本』をどこかで読んだ経験があって、今、新しいのが出たので買って読んでみよう……というような人間なんだろう、と思ったりしている。
というのも、読んでみて(再読になるか)、なるほどと思わせるところもある一方で、こんなにも陳腐な文章論、日本語論であったのか、と今更ながらある意味で感心したりする。
たとえば次のような箇所。
「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」(p.178)
現在の言語研究の観点からすれば、日本語は、特に、語彙・文法の面において、特殊な言語ということはない、というのが常識的なところだろうと思っている。日本語があいまいな言語だとかというのは、単なる思い込み、迷信のようなものにすぎない。
にもかかわらず、やはり『文章読本』というと谷崎のこの本をあげることになってしまう。これは、日本語における文章教育、国語教育の宿痾のようなものかと思っている。よくいわれることであるが、言語コミュニケーション技能と、文学的情操教育の関係の問題である。本来、これらは、別の観点から教えられるべきものであるはずである。しかし、それが、未分化なまま混在しているのが、日本の国語教育(特に、初等中等教育)の問題なのであろうと思う。いまだに、読書感想文などというものが横行していることを見ても、そのことは言えると思うのである。
私は、学生には、「文章読本」の類は、すすめることはない。教えているのは、大学(高等教育)における、文章コミュニケーション技能のトレーニング、つまり、論文やレポートの書き方である。論文やレポートを書くのに、「文章読本」の類は、役にたつことはないと言っておく。それよりも、紹介するのは木下是雄の本『理科系の作文技術』『レポートの組み立て方』などである。
とはいえ、文学とか、言語文化というような領域について勉強しようという学生にとっては、「文章読本」の類は、読んでおくべき一群の書物ということになるだろう。谷崎潤一郎のほかにも、今、名前がうかぶだけでも、三島由紀夫、川端康成、などが書いている。ほかにも、井上ひさし、丸谷才一などにも、著作があある。文学部で、文学研究などに興味関心のある学生にとっては、むしろ、逆に必読書といえるかもしれない。
いうまでもないが、これは、谷崎潤一郎の文章論、日本語論に賛成してのことではない。このような文章論、日本語論が、一般に受け入れられている日本の現状を認識しておかなければならない、という意味においてである。特に、日本語学などを専攻する学生にとっては、この谷崎潤一郎『文章読本』は、批判的に読まれるべき性質のものと考える。
ところで、今回、『文章読本』を読み直してみて、一つだけ面白い箇所があった。変体仮名についてである。これについては、また、別に書いてみることにする。
それから蛇足にもうひとつ。新潮文庫版を手にして、まず解説から読んだが……書いているのが、筒井康隆だった。どうして、斎藤美奈子に頼まなかったのだろう。あるいは、頼んで断られたのか。
『文章読本』を読んでから、本棚を探してみた。
斎藤美奈子.『文章読本さん江』(ちくま文庫).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424037/
この本についても改めて再読しての読後感など書きたいと思っている。
追記 2016-08-31
人名を間違えていた。斉藤→斎藤に訂正。
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』夏目漱石『こころ』 ― 2016-08-24
2016-08-24 當山日出夫
会田弘継.『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、新潮社.2008 文庫化にあたり加筆。)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206273.html
この本、例によって、あとがきの方から先によんでみた。本編は、それとして非常に興味深いのだが、ここでは、最終章(エピローグ)についてふれてみたい。このエピローグは、文庫版にあたって加筆された箇所でもある。「戦後アメリカ思想史を貫いた漱石『こころ』」とある。
夏目漱石の『こころ』、日本では、定番の国語教材であり、生徒・学生にとって「読書感想文」で読むことになる本、というイメージが強い。また、漱石の作品のなかでも、特に人気のある作品のひとつであろう。その連載100年を記念して、朝日新聞が、再連載したのはつい近年のことでもある。
その『こころ』(”Kokoro”)を訳したのは、エドウィン・マクレラン。今では、アメリカでは、「政治経済を含め日本学を修める学生の最初の課題図書のひとつになっている」とある。
ここで『こころ』に関連して登場する人物は、
フリードリヒ・A・ハイエク(経済学者)
ラッセル・カーク(戦後アメリカの保守思想家、本書に詳しい。)
エドウィン・マクレラン(アメリカの日本文学研究者)
そして、
江藤淳
である。
まず、アメリカの保守主義者であるカークは、こう述べている。日本の保守主義の背景として、
「「日本は次々と欧米風の仮面をつけていく。真剣なのかもしれないが、それらは次々と脱ぎ捨てられてもいく。仮面の裏には古い日本の特質が生きている。今日の欧米風の物質主義と技術主義は永遠には続かない。」」(p.259)
そして、漱石の『こころ』に言及していく。
マクレランは、英国人(スコットランド)の父と日本人の母との間に、1925年、神戸で生まれた。太平洋戦争中は、軍務(米軍)につくが、その後、大学にもどる。そして、シカゴ大学のハイエクのもとにおもむくことになる。そして、ハイエクのもとで勉強しながら、同時にデイビッド・グリーン(ギリシャ古典文学)にも接する。そんな彼が、博士論文のテーマに選んだのが、漱石の『こころ』であった。そして、漱石『こころ』の翻訳は、「知のるつぼ」であったシカゴ大学の社会思想委員会のなかに放り込まれることになる。
ときをほぼ同じくして、日本でも、若き俊英が漱石論を書く。若き日の江藤淳である。『夏目漱石』である。その後、江藤淳は、アメリカにわたり、『こころ』の訳者・マクレランと出会い、終生の親交をむすぶことになる。
そのマクレランは、一方で、ハイエクのもとで、その著作のリライト(英文として)をおこなっていた。
このような経緯を著者は次のようにまとめている。
「(ハイエクの)名前と、英語世界における最高の漱石学者マクレランを結びつけるハイエク学徒は果たしているだろうか。日本文学研究者にとってはハイエクは無縁であり、ハイエク研究者にとっては日本文学も同様だろう。マクレランをハイエクにつないだラッセル・カークとなれば、日本文学研究者にはさらに縁がない。」(p.275)
そして、その後、この本は、日本における江藤淳の足取りを、(その最後まで)追っていく。これはこれとして、江藤淳論として読める内容のものになっている。
私の認識としては、アメリカで漱石は翻訳で読まれている本としてあるだろう、ぐらいのつもりでいたのが正直なところである。戦後アメリカにおける、漱石の受容にハイエクやカークのような学者がかかわっていたとは、まったく知らなかった。そして、アメリカで、漱石が重要な日本文学作品として読まれていることも。
この本『追跡・アメリカの思想家たち』は、現代アメリカ思想についての概説書として書かれた本であるが、この最終章(エピローグ)は、本書を読み終えた後で、再読してみると、感慨深いものがある。知と文学のドラマのようなものを感じるといえばいいだろうか。漱石の『こころ』が、アメリカで読まれているとして、その理解はどのようなものであるのか、これは気になるところである。
この意味では、次の人脈は興味深い。ケビン・ドウク(ジョージタウン大教授)は、シカゴ大学でマクレランの孫弟子にあたるとある。そのイェール大学での教え子の一人が、水村美苗であるという。つまり、はるばるアメリカを経由して、漱石をはじめとする日本文学理解が、現代日本文学に、ある意味でつながっていることになる。
追記 2016-08-27
この続きとして、フランシス・フクヤマについては、
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』フランシス・フクヤマ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/27/8163682
会田弘継.『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、新潮社.2008 文庫化にあたり加筆。)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206273.html
この本、例によって、あとがきの方から先によんでみた。本編は、それとして非常に興味深いのだが、ここでは、最終章(エピローグ)についてふれてみたい。このエピローグは、文庫版にあたって加筆された箇所でもある。「戦後アメリカ思想史を貫いた漱石『こころ』」とある。
夏目漱石の『こころ』、日本では、定番の国語教材であり、生徒・学生にとって「読書感想文」で読むことになる本、というイメージが強い。また、漱石の作品のなかでも、特に人気のある作品のひとつであろう。その連載100年を記念して、朝日新聞が、再連載したのはつい近年のことでもある。
その『こころ』(”Kokoro”)を訳したのは、エドウィン・マクレラン。今では、アメリカでは、「政治経済を含め日本学を修める学生の最初の課題図書のひとつになっている」とある。
ここで『こころ』に関連して登場する人物は、
フリードリヒ・A・ハイエク(経済学者)
ラッセル・カーク(戦後アメリカの保守思想家、本書に詳しい。)
エドウィン・マクレラン(アメリカの日本文学研究者)
そして、
江藤淳
である。
まず、アメリカの保守主義者であるカークは、こう述べている。日本の保守主義の背景として、
「「日本は次々と欧米風の仮面をつけていく。真剣なのかもしれないが、それらは次々と脱ぎ捨てられてもいく。仮面の裏には古い日本の特質が生きている。今日の欧米風の物質主義と技術主義は永遠には続かない。」」(p.259)
そして、漱石の『こころ』に言及していく。
マクレランは、英国人(スコットランド)の父と日本人の母との間に、1925年、神戸で生まれた。太平洋戦争中は、軍務(米軍)につくが、その後、大学にもどる。そして、シカゴ大学のハイエクのもとにおもむくことになる。そして、ハイエクのもとで勉強しながら、同時にデイビッド・グリーン(ギリシャ古典文学)にも接する。そんな彼が、博士論文のテーマに選んだのが、漱石の『こころ』であった。そして、漱石『こころ』の翻訳は、「知のるつぼ」であったシカゴ大学の社会思想委員会のなかに放り込まれることになる。
ときをほぼ同じくして、日本でも、若き俊英が漱石論を書く。若き日の江藤淳である。『夏目漱石』である。その後、江藤淳は、アメリカにわたり、『こころ』の訳者・マクレランと出会い、終生の親交をむすぶことになる。
そのマクレランは、一方で、ハイエクのもとで、その著作のリライト(英文として)をおこなっていた。
このような経緯を著者は次のようにまとめている。
「(ハイエクの)名前と、英語世界における最高の漱石学者マクレランを結びつけるハイエク学徒は果たしているだろうか。日本文学研究者にとってはハイエクは無縁であり、ハイエク研究者にとっては日本文学も同様だろう。マクレランをハイエクにつないだラッセル・カークとなれば、日本文学研究者にはさらに縁がない。」(p.275)
そして、その後、この本は、日本における江藤淳の足取りを、(その最後まで)追っていく。これはこれとして、江藤淳論として読める内容のものになっている。
私の認識としては、アメリカで漱石は翻訳で読まれている本としてあるだろう、ぐらいのつもりでいたのが正直なところである。戦後アメリカにおける、漱石の受容にハイエクやカークのような学者がかかわっていたとは、まったく知らなかった。そして、アメリカで、漱石が重要な日本文学作品として読まれていることも。
この本『追跡・アメリカの思想家たち』は、現代アメリカ思想についての概説書として書かれた本であるが、この最終章(エピローグ)は、本書を読み終えた後で、再読してみると、感慨深いものがある。知と文学のドラマのようなものを感じるといえばいいだろうか。漱石の『こころ』が、アメリカで読まれているとして、その理解はどのようなものであるのか、これは気になるところである。
この意味では、次の人脈は興味深い。ケビン・ドウク(ジョージタウン大教授)は、シカゴ大学でマクレランの孫弟子にあたるとある。そのイェール大学での教え子の一人が、水村美苗であるという。つまり、はるばるアメリカを経由して、漱石をはじめとする日本文学理解が、現代日本文学に、ある意味でつながっていることになる。
追記 2016-08-27
この続きとして、フランシス・フクヤマについては、
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』フランシス・フクヤマ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/27/8163682
『世界の文字の物語』 ― 2016-08-25
2016-08-25 當山日出夫
夏の忙しい時期がようやく終わったので、行ってきた。我が家からだと、自動車で、一時間ほどで行ける。
『世界の文字の物語-ユーラシアの文字のかたち-』
大阪府立弥生文化博物館
2016年7月9日~9月4日
あまり大規模な展示ではなかったが、タイトルのとおり、ユーラシア大陸の各地で発生した文字と、その伝播が手際よく展示されていた。
文字についてはあたりまえというべきことかもしれないが、この展示でよくわかったことをあげておきたい。二点ある、
第一には、文字は、多言語表記が可能なものであるということ。展覧会をざっと見た印象としてであるが、ある特定の言語だけを表記する文字というものは、少数といっていいのではないだろうか。まだ、未解読の文字があるので、この点については、なんともいえないが。
ある文字が発明されると、近隣の言語の表記に流用されている事例が非常に多い。これは、今日、仮名といえば日本語、ハングルといえば朝鮮語、ときめてかかってしまうことへの反省として、考えてみなければならないことかもしれない。いや逆に、文字の歴史からすれば、日本語専用の仮名、朝鮮語専用のハングルという認識は、近年に特殊な地域で発達した文字についてのものと見るべきかもしれない。
第二には、文字は他の文字から影響をうける、あるいは、それによって変化していくものであること。隣接する諸言語との交流、あるは、支配・被支配というような関係のもと、文字は、他の言語に対応するために、いやおうなく変化していくものである。字喃(ベトナム)なども、漢字から派生した文字と考えるべきだろう。
この意味では、日本での真仮名の存在は、漢字という文字の使用法のひとつの変化した形と見なすことができるのかもしれない。仮名としてではなく、漢字の用法のひとつとして、とらえることもできよう。
ざっと以上の二点が、この展覧会を総合して残った印象である。他にも、文字とメディアの問題とか、文字の使用目的の問題とか、多言語地域としての敦煌の問題とか、そもそも文字を持たない無文字言語の問題とか、いろいろ考えるべき点、勉強すべきと感じる点が多々あった。
この展覧会を見て、考えを再整理して、今日のコンピュータ文字における仮名の問題を考えるきっかけとしてみたいと思っている。
夏の忙しい時期がようやく終わったので、行ってきた。我が家からだと、自動車で、一時間ほどで行ける。
『世界の文字の物語-ユーラシアの文字のかたち-』
大阪府立弥生文化博物館
2016年7月9日~9月4日
あまり大規模な展示ではなかったが、タイトルのとおり、ユーラシア大陸の各地で発生した文字と、その伝播が手際よく展示されていた。
文字についてはあたりまえというべきことかもしれないが、この展示でよくわかったことをあげておきたい。二点ある、
第一には、文字は、多言語表記が可能なものであるということ。展覧会をざっと見た印象としてであるが、ある特定の言語だけを表記する文字というものは、少数といっていいのではないだろうか。まだ、未解読の文字があるので、この点については、なんともいえないが。
ある文字が発明されると、近隣の言語の表記に流用されている事例が非常に多い。これは、今日、仮名といえば日本語、ハングルといえば朝鮮語、ときめてかかってしまうことへの反省として、考えてみなければならないことかもしれない。いや逆に、文字の歴史からすれば、日本語専用の仮名、朝鮮語専用のハングルという認識は、近年に特殊な地域で発達した文字についてのものと見るべきかもしれない。
第二には、文字は他の文字から影響をうける、あるいは、それによって変化していくものであること。隣接する諸言語との交流、あるは、支配・被支配というような関係のもと、文字は、他の言語に対応するために、いやおうなく変化していくものである。字喃(ベトナム)なども、漢字から派生した文字と考えるべきだろう。
この意味では、日本での真仮名の存在は、漢字という文字の使用法のひとつの変化した形と見なすことができるのかもしれない。仮名としてではなく、漢字の用法のひとつとして、とらえることもできよう。
ざっと以上の二点が、この展覧会を総合して残った印象である。他にも、文字とメディアの問題とか、文字の使用目的の問題とか、多言語地域としての敦煌の問題とか、そもそも文字を持たない無文字言語の問題とか、いろいろ考えるべき点、勉強すべきと感じる点が多々あった。
この展覧会を見て、考えを再整理して、今日のコンピュータ文字における仮名の問題を考えるきっかけとしてみたいと思っている。
半藤一利『日露戦争史 2』 ― 2016-08-26
つづきである。
半藤一利『日露戦争史 1』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/21/8157105
半藤一利.『日露戦争史 2』(平凡社ライブラリー).平凡社.2016 (原著.平凡社.2012)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b221915.html
この巻の中心は、海軍は黄海海戦、陸軍は遼陽会戦、それから、日露戦争のひとつの重要なポイントになる旅順攻略である。そして、なによりも重要人物は乃木希典である。
この本、例によって、あとがきから読んだ。乃木希典についてこうある。
「いったいに逸話というものは人の心に食い入りやすくて俗受けするものなのかもしれない。ところが、感動しやすいということは少しも人間そのものを教えてはくれないのである。過去にあったことは完了しているから明確であるとはかぎらない。史料の増加と新しい史眼とが、同じ人物の評価をいくらでも変えることは起り得る。歴史は人間がつくる。人間でなければ歴史を動かすことはできない。であるから、歴史の真実を知るためには探求すべきは人間であって、逸話や美談でないことはいうまでもない。そう考えるゆえに、乃木大将という人間を丁寧に追ってみたのであるが、正直にいってついにわからなかった。」(p.415)
とある。そして、これにつづけて、
「そしていまは、乃木さんという軍人は、近著『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』で紹介したまさに”日本型リーダー”であって、それ以外の何ものでもないという結論に達している。」(p.415)
となっている。
さて、この第二巻は、旅順攻略をメインに描いている。ところで、最初からこの本(第二巻)を読んでいくと、このようなことばがある。
「士はおのれを知る者のために死す」とは司馬遷『史記』の言葉である。」(p.29)
この箇所は、海軍において、東郷平八郎について書かれたものであるが……いずれ第三巻は日本海海戦を描くことになるのだろう。そこで、東郷平八郎のために命をかけて戦ったたものたちと、旅順攻略のための乃木希典のために命をかけて戦ったものたちとのちがいは、何になるのであろう……このようなことを、頭の片隅において、この巻を読むことになった。
で、この第二巻を読むかぎりでは、よくわからないというのが、これまた、正直な感想である。だが、これは、この本(第二巻)がつまらないという意味ではない。陸軍の遼陽会戦、海軍の黄海海戦に十分なページをつかってある。もちろん、旅順攻略がメインになることはいたしかたないとしても。もし、自分が乃木希典の指揮下にある軍人・兵士であったなら、乃木のために死をいとわないであろうか、このようなことを考えながら読んでみたのだが、私の結論としても、やはりわからないとしかいいようがない。
この第二巻も、やはり第一巻と同じく、「歴史探偵」の視点で描かれている。それを特徴付けるのは、次のような点においてである。
第一に、資料・史料・先行研究を充分に尊重しながらも、「歴史研究」として書いているのではない、という立場。それらを利用しながらも、どのような「歴史」を描くかに重点がおかれている。そのひとつとして「民草」がどのように、その戦争をとらえていたかという視点の設定がある。
第二に、後の太平洋戦争当時の主要人物(軍人)の若いときの姿が登場する。ここに出てきたこの人物が、後の太平洋戦争でこのような判断をしたので、という記述がいくつかある。そのような視点から、日露戦争と太平洋戦争をつないで見る視点を設定していること。
このような視点の設定が「歴史探偵」と自称するゆえんかなと思って読んだ。
ところで、この第二巻を読んでいて、興味深かったことのひとつ。著者は、日露戦争に従軍した兵士・軍人などの手記を、ところどころに引用している。あまり煩瑣になる、あるいは、あまりにも陰惨な描写が多いので割愛するとことわってはあるが、それでも、要所要所に、手記などの引用がある。これらを読むと、著者がその引用をためらうほどに、その戦闘の悲惨さ伝わってくるものがある。いわば、戦闘のリアリズムの文章になっている、といえばよいであろうか。まさに鬼哭啾々である。
近代の日本語というものを考えるとき、小説の文章や、新聞・雑誌の文章を考えることが多いかもしれない。だが、その一方で、おそらく初等(せいぜい中等)教育をうけたであろう、一般の「民草」の残した手記が、現代のわれわれに充分に読めるものとして残っているのである。このことは、近代の日本語の歴史、文章の歴史ということを考えるとき、見過ごすことのできないポイントであると感じた。
日露戦争のときに従軍しているということは、明治になってからの近代的な教育をうけて育った人間ということになる。そのような人間がのこした文章が、今のわれわれに戦争の現実を伝えてくれている。
近代の日本語については、「国語」として、いろいろ批判することはできるかもしれない。だが、それだけではなく、近代的な国語教育の一つの成果が、残された手記などの文章に見ることができる、このような発想で考えることもあっていいのではないか。狭義の文学史に見ることのできない、日本語の文章の歴史の一端をここで見ることができる。
半藤一利『日露戦争史 1』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/21/8157105
半藤一利.『日露戦争史 2』(平凡社ライブラリー).平凡社.2016 (原著.平凡社.2012)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b221915.html
この巻の中心は、海軍は黄海海戦、陸軍は遼陽会戦、それから、日露戦争のひとつの重要なポイントになる旅順攻略である。そして、なによりも重要人物は乃木希典である。
この本、例によって、あとがきから読んだ。乃木希典についてこうある。
「いったいに逸話というものは人の心に食い入りやすくて俗受けするものなのかもしれない。ところが、感動しやすいということは少しも人間そのものを教えてはくれないのである。過去にあったことは完了しているから明確であるとはかぎらない。史料の増加と新しい史眼とが、同じ人物の評価をいくらでも変えることは起り得る。歴史は人間がつくる。人間でなければ歴史を動かすことはできない。であるから、歴史の真実を知るためには探求すべきは人間であって、逸話や美談でないことはいうまでもない。そう考えるゆえに、乃木大将という人間を丁寧に追ってみたのであるが、正直にいってついにわからなかった。」(p.415)
とある。そして、これにつづけて、
「そしていまは、乃木さんという軍人は、近著『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』で紹介したまさに”日本型リーダー”であって、それ以外の何ものでもないという結論に達している。」(p.415)
となっている。
さて、この第二巻は、旅順攻略をメインに描いている。ところで、最初からこの本(第二巻)を読んでいくと、このようなことばがある。
「士はおのれを知る者のために死す」とは司馬遷『史記』の言葉である。」(p.29)
この箇所は、海軍において、東郷平八郎について書かれたものであるが……いずれ第三巻は日本海海戦を描くことになるのだろう。そこで、東郷平八郎のために命をかけて戦ったたものたちと、旅順攻略のための乃木希典のために命をかけて戦ったものたちとのちがいは、何になるのであろう……このようなことを、頭の片隅において、この巻を読むことになった。
で、この第二巻を読むかぎりでは、よくわからないというのが、これまた、正直な感想である。だが、これは、この本(第二巻)がつまらないという意味ではない。陸軍の遼陽会戦、海軍の黄海海戦に十分なページをつかってある。もちろん、旅順攻略がメインになることはいたしかたないとしても。もし、自分が乃木希典の指揮下にある軍人・兵士であったなら、乃木のために死をいとわないであろうか、このようなことを考えながら読んでみたのだが、私の結論としても、やはりわからないとしかいいようがない。
この第二巻も、やはり第一巻と同じく、「歴史探偵」の視点で描かれている。それを特徴付けるのは、次のような点においてである。
第一に、資料・史料・先行研究を充分に尊重しながらも、「歴史研究」として書いているのではない、という立場。それらを利用しながらも、どのような「歴史」を描くかに重点がおかれている。そのひとつとして「民草」がどのように、その戦争をとらえていたかという視点の設定がある。
第二に、後の太平洋戦争当時の主要人物(軍人)の若いときの姿が登場する。ここに出てきたこの人物が、後の太平洋戦争でこのような判断をしたので、という記述がいくつかある。そのような視点から、日露戦争と太平洋戦争をつないで見る視点を設定していること。
このような視点の設定が「歴史探偵」と自称するゆえんかなと思って読んだ。
ところで、この第二巻を読んでいて、興味深かったことのひとつ。著者は、日露戦争に従軍した兵士・軍人などの手記を、ところどころに引用している。あまり煩瑣になる、あるいは、あまりにも陰惨な描写が多いので割愛するとことわってはあるが、それでも、要所要所に、手記などの引用がある。これらを読むと、著者がその引用をためらうほどに、その戦闘の悲惨さ伝わってくるものがある。いわば、戦闘のリアリズムの文章になっている、といえばよいであろうか。まさに鬼哭啾々である。
近代の日本語というものを考えるとき、小説の文章や、新聞・雑誌の文章を考えることが多いかもしれない。だが、その一方で、おそらく初等(せいぜい中等)教育をうけたであろう、一般の「民草」の残した手記が、現代のわれわれに充分に読めるものとして残っているのである。このことは、近代の日本語の歴史、文章の歴史ということを考えるとき、見過ごすことのできないポイントであると感じた。
日露戦争のときに従軍しているということは、明治になってからの近代的な教育をうけて育った人間ということになる。そのような人間がのこした文章が、今のわれわれに戦争の現実を伝えてくれている。
近代の日本語については、「国語」として、いろいろ批判することはできるかもしれない。だが、それだけではなく、近代的な国語教育の一つの成果が、残された手記などの文章に見ることができる、このような発想で考えることもあっていいのではないか。狭義の文学史に見ることのできない、日本語の文章の歴史の一端をここで見ることができる。
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』フランシス・フクヤマ ― 2016-08-27
2016-08-27 當山日出夫
先日は、この本のエピローグから、漱石の『こころ』がアメリカでどう受容されているか、興味深かったので、ちょっと書いてみた。今日は、この本の本筋にあたるところを読んでみたいと思う。
やまもも書斎記 2016年8月24日
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』夏目漱石『こころ』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/24/8161273
会田弘継.『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、新潮社.2008 文庫化にあたり加筆。)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206273.html
この本の著者(会田弘継)、思想史研究者という感じの人ではないようだ。略歴を見ると、共同通信のジャーナリスト、ワシントン支局長などをつとめている。と同時に、フランシス・フクヤマの著書の翻訳などてがけている。現在は、青山学院大学教授。
私自身、アメリカ思想史というのにはとんと疎い。いやそもそも、一般にアメリカ思想史ということがあまりない。(フランス現代思想とかならまだわかるような気もするのだが。)そのような状況をふまえて、この本自身が、現代アメリカ思想の概説的な紹介になっている。ここでは、やはり、著者が翻訳にもたずさわっているフランシス・フクヤマの章を見ておくことにしたい。(さすがに、私でも、この名前ぐらいは知っているので。)
フクヤマの思想の前提として、
「リベラルな民主主義(政教分離、言論・結社の自由などを維持して行う民主制)は近代化プロセスの必然だという主張である。それはキリスト教文明の下でなければうまく機能しないという考え方をフクヤマはとらない。伝統的保守主義者がしばしば、西欧政治思想の伝統の中で生まれた自由主義などは西洋でしか機能しないと考えるのとは異なる。近代化プロセスは米欧だけでなく、日本をはじめ東アジアでも機能しているし、トルコやインドネシアのようなイスラム圏の国でも機能し始めているとみる。」(pp.174-175)
それは、フクヤマが、
「近代を前近代、ポストモダンの立場から見つめ直したうえで、近代化プロセスの意味をつかみ取った思想家だとみてよいだろう。」(p.177)
であるからとする。そして、それが、
「そうしてつかみ取られた近代への執念こそが、ネオコンサーバティズムの本質といえる。」(p.177)
という。そして、そのような近代批判のあり方については、福沢諭吉や夏目漱石の思想の構造との類比が指摘してある。(p.186)
そのフクヤマについて、
「学問の世界がどんどんと狭い専門領域に閉じこもる時代に、こうした大きな構えで著作を世に問う学者はきわめて少なくなった。一人で通史を書く学者もまれだ。そうした意味で、フクヤマは貴重な存在であり、また学者というより思想家と呼ぶのが相応しい。」(p.206)
と評価したうえで、最近の著書『政治の起源』について、次のように紹介する。会田弘継は、この本の翻訳者でもある。
「フクヤマの叙述は、政治制度の歴史をギリシャ・ローマから中世ヨーロッパ、宗教革命を経て啓蒙思想によるブルジョア革命から産業革命――と、西欧中心にたどるのとはまったく違う。まず中国の秦の始皇帝がつくった中央集権化した強力な国家権力と能力本位の官僚制創設に政治制度における「近代性」の萌芽を見る。」(pp.206-207)
「古典的な近代観――宗教革命による自我の確立と個人主義の誕生、それをベースにした啓蒙思想による社会契約の思想の発展――を振り切って、フクヤマは近代の政治制度発展をまったく新しい観点で論じる道に踏み出すことができた。古典的な近代観を離れたからこそ、あえてギリシャ・ローマに帰る必要もなくなり、近代政治制度の発展の道筋を、大胆に、広く人類全体のさまざま政治制度のなかに探っていくことができたのである。」(p.207)
と、このように引用してくると『政治の起源』を読んでみたくなる。この本かと思う。
『政治の起源』上
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171502
『政治の起源』下
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171519
この本、いまから、夏休みの宿題にするには、ちょっと荷が重い。ちょっと待って冬休みの宿題ぐらいにしようかと思っている。
先日は、この本のエピローグから、漱石の『こころ』がアメリカでどう受容されているか、興味深かったので、ちょっと書いてみた。今日は、この本の本筋にあたるところを読んでみたいと思う。
やまもも書斎記 2016年8月24日
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』夏目漱石『こころ』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/24/8161273
会田弘継.『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、新潮社.2008 文庫化にあたり加筆。)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206273.html
この本の著者(会田弘継)、思想史研究者という感じの人ではないようだ。略歴を見ると、共同通信のジャーナリスト、ワシントン支局長などをつとめている。と同時に、フランシス・フクヤマの著書の翻訳などてがけている。現在は、青山学院大学教授。
私自身、アメリカ思想史というのにはとんと疎い。いやそもそも、一般にアメリカ思想史ということがあまりない。(フランス現代思想とかならまだわかるような気もするのだが。)そのような状況をふまえて、この本自身が、現代アメリカ思想の概説的な紹介になっている。ここでは、やはり、著者が翻訳にもたずさわっているフランシス・フクヤマの章を見ておくことにしたい。(さすがに、私でも、この名前ぐらいは知っているので。)
フクヤマの思想の前提として、
「リベラルな民主主義(政教分離、言論・結社の自由などを維持して行う民主制)は近代化プロセスの必然だという主張である。それはキリスト教文明の下でなければうまく機能しないという考え方をフクヤマはとらない。伝統的保守主義者がしばしば、西欧政治思想の伝統の中で生まれた自由主義などは西洋でしか機能しないと考えるのとは異なる。近代化プロセスは米欧だけでなく、日本をはじめ東アジアでも機能しているし、トルコやインドネシアのようなイスラム圏の国でも機能し始めているとみる。」(pp.174-175)
それは、フクヤマが、
「近代を前近代、ポストモダンの立場から見つめ直したうえで、近代化プロセスの意味をつかみ取った思想家だとみてよいだろう。」(p.177)
であるからとする。そして、それが、
「そうしてつかみ取られた近代への執念こそが、ネオコンサーバティズムの本質といえる。」(p.177)
という。そして、そのような近代批判のあり方については、福沢諭吉や夏目漱石の思想の構造との類比が指摘してある。(p.186)
そのフクヤマについて、
「学問の世界がどんどんと狭い専門領域に閉じこもる時代に、こうした大きな構えで著作を世に問う学者はきわめて少なくなった。一人で通史を書く学者もまれだ。そうした意味で、フクヤマは貴重な存在であり、また学者というより思想家と呼ぶのが相応しい。」(p.206)
と評価したうえで、最近の著書『政治の起源』について、次のように紹介する。会田弘継は、この本の翻訳者でもある。
「フクヤマの叙述は、政治制度の歴史をギリシャ・ローマから中世ヨーロッパ、宗教革命を経て啓蒙思想によるブルジョア革命から産業革命――と、西欧中心にたどるのとはまったく違う。まず中国の秦の始皇帝がつくった中央集権化した強力な国家権力と能力本位の官僚制創設に政治制度における「近代性」の萌芽を見る。」(pp.206-207)
「古典的な近代観――宗教革命による自我の確立と個人主義の誕生、それをベースにした啓蒙思想による社会契約の思想の発展――を振り切って、フクヤマは近代の政治制度発展をまったく新しい観点で論じる道に踏み出すことができた。古典的な近代観を離れたからこそ、あえてギリシャ・ローマに帰る必要もなくなり、近代政治制度の発展の道筋を、大胆に、広く人類全体のさまざま政治制度のなかに探っていくことができたのである。」(p.207)
と、このように引用してくると『政治の起源』を読んでみたくなる。この本かと思う。
『政治の起源』上
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171502
『政治の起源』下
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171519
この本、いまから、夏休みの宿題にするには、ちょっと荷が重い。ちょっと待って冬休みの宿題ぐらいにしようかと思っている。
網野善彦『歴史を考えるヒント』 ― 2016-08-28
2016-08-28 當山日出夫
網野善彦.『歴史を考えるヒント』(新潮文庫).新潮社.2012 (原著は、新潮社.2001)
http://www.shinchosha.co.jp/book/135661/
網野善彦の亡くなったのは2004年。それを考えると、この本は、著者の最晩年の著作ということになる。と同時に、網野善彦歴史学の入門的な意味も、見いだせるかもしれないと思って読んだ。
自分も年をとってきたせいか……昔、読んだ本、古典的な書物などになるが……を、再度、じっくりと読んでみたいという気持ちが強くなってきている。そのなかで、網野善彦の書いた本で、手軽に読めるものとして手にとってみたものである。
この本の読後感をあげておけば、次の二点になるだろうか。
第一には、網野善彦歴史学の入門書的な意味で読むことのできる本である、ということ。「あとがき」によれば、この本のもとになったのは、1997年の新潮社主催の講演会。その後、『波』に連載。その途中で、著者は、肺癌の手術をうけることになる。このような経過の本ということを考えてみるならば、その最晩年において、それまでの研究を凝縮したものになっていると評価できようか。そして、読んでみても、そのように読める本となっている。
まず、第Ⅰ章が、「日本」という国名、である。「日本」の国号は、いつごろ、どのようにして使われはじめたのか、このあたりから問題を説き起こして「日本史」とは何かを考えていくあたり、網野史学の真骨頂といえるだろう。
ついで、「列島の多様な地域」、「地域名の誕生」、「「普通の人々」の呼称」、「誤解された「百姓」」、「不自由民と職能民」、「被差別民の呼称」、「商業用語について」、「日常用語の中から」、とつづいていく。どの回も、〈ことば〉をてがかりにして、その意味・用法が、歴史的な経緯のなかでどのように発生し、現代に受け継がれてきたのかを、史料にもとづきながら、批判的に考察してある。
網野歴史学……一言でいうにはあまりにも膨大な仕事であるが、その一つの視点のおきかたに、「非農業民」という視点があることは大方の了解が得られるところであろう。「農業民=百姓」を中心とした歴史観への、大胆な挑戦であるといってもよいだろうか。この意味においては、現代の一般の理解は、まだ、農耕定住民(百姓)を中心とした歴史観のなかにあるといってよいであろうか。いまだに、歴史ドラマなど見ると、「~~藩、何万石」というような表現がごく普通に使われている。(これなど、いわゆる年貢について、あるいはその土地のでの生産(農業のみならず商工業全般)について、米に換算していっているだけのことにすぎないと思うのだが、その「換算して」という認識は乏しいように感じている。)
第二に、これは、私の専門とも関連するのだが、やはり、ことばというものの重要性である。
たとえば、次のような指摘。
「日本でも中世、とくに十三世紀後半からは信用経済といってもよいほどに、商業・金融が発達し、さまざまな手工業が広範に展開しており、近世を通じて、商工業は高度の経済社会といってもよいほどに発達していたことは間違いないと思われます。/そのことを証明しているのが、商業に関わる言葉や、実務的な取引の用語には翻訳語がないという事実です。例えばこれから述べるように、「小切手」「手形」「為替」などは中世から古代にまで遡ることができる古い言葉なのです。」(p.153)
日本語史・国語史というような分野にたずさわっている人間のはしくれとしては、このような指摘は、おおいに気になるところである。個々のことばの語誌をたどるというかたちにおいては、歴史学研究者と歩調をあわせることもできるのかもしれない。だが、そこから、ちょっと距離をおいて、そのような種類のことばが、どのような歴史的・社会的・文化的背景をもって、今日にまで使われてきたのか、という点になると、(私の知る範囲でいうことになるが)現在の、日本語史・国語史という分野においては、およばないところが多々あるように思えてならない。
日本語史・国語史という研究分野が、これまで、日本文学・国文学とともにあったという経緯はあるにしても、文学作品のことばのように、精緻な研究が、古文書・古記録などの史料類においてなされているということはないといってよいであろう。このような方面に果敢にとりくんでいる研究者がいることは承知しているが、全体的な傾向としては、まずもって、日本語史・国語史という分野の衰退傾向といってよいかもしれない。ざっくばらんにいえば、日本語研究というのが、現代日本語中心になってきているということでもあるのだが。
やはり、これは、網野善彦のいうように「歴史学」の問題であると同時に、「日本語学」の問題でもある、このような問題意識のもとに、研究の再構築ということが必要なのではないかと思う。
環境はやりやすくなっている。史料・資料のデジタル化である。用例の検索・閲覧ということについていえば、近年は、かなり楽になってきているといってよいであろう。ただ、問題は、どのような研究課題の問題意識を持ってのぞむかということになる。
日本語史・国語史を研究しようとするものは、歴史を学んで、古文書や古記録なども読んであたりまえ、そのことが、日本語研究からも、歴史学研究からも、認識される日のおとずれることを願っている。
追記 2016-09-02
このつづきは、
網野善彦『歴史を考えるヒント』常民
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/02/8167854
網野善彦.『歴史を考えるヒント』(新潮文庫).新潮社.2012 (原著は、新潮社.2001)
http://www.shinchosha.co.jp/book/135661/
網野善彦の亡くなったのは2004年。それを考えると、この本は、著者の最晩年の著作ということになる。と同時に、網野善彦歴史学の入門的な意味も、見いだせるかもしれないと思って読んだ。
自分も年をとってきたせいか……昔、読んだ本、古典的な書物などになるが……を、再度、じっくりと読んでみたいという気持ちが強くなってきている。そのなかで、網野善彦の書いた本で、手軽に読めるものとして手にとってみたものである。
この本の読後感をあげておけば、次の二点になるだろうか。
第一には、網野善彦歴史学の入門書的な意味で読むことのできる本である、ということ。「あとがき」によれば、この本のもとになったのは、1997年の新潮社主催の講演会。その後、『波』に連載。その途中で、著者は、肺癌の手術をうけることになる。このような経過の本ということを考えてみるならば、その最晩年において、それまでの研究を凝縮したものになっていると評価できようか。そして、読んでみても、そのように読める本となっている。
まず、第Ⅰ章が、「日本」という国名、である。「日本」の国号は、いつごろ、どのようにして使われはじめたのか、このあたりから問題を説き起こして「日本史」とは何かを考えていくあたり、網野史学の真骨頂といえるだろう。
ついで、「列島の多様な地域」、「地域名の誕生」、「「普通の人々」の呼称」、「誤解された「百姓」」、「不自由民と職能民」、「被差別民の呼称」、「商業用語について」、「日常用語の中から」、とつづいていく。どの回も、〈ことば〉をてがかりにして、その意味・用法が、歴史的な経緯のなかでどのように発生し、現代に受け継がれてきたのかを、史料にもとづきながら、批判的に考察してある。
網野歴史学……一言でいうにはあまりにも膨大な仕事であるが、その一つの視点のおきかたに、「非農業民」という視点があることは大方の了解が得られるところであろう。「農業民=百姓」を中心とした歴史観への、大胆な挑戦であるといってもよいだろうか。この意味においては、現代の一般の理解は、まだ、農耕定住民(百姓)を中心とした歴史観のなかにあるといってよいであろうか。いまだに、歴史ドラマなど見ると、「~~藩、何万石」というような表現がごく普通に使われている。(これなど、いわゆる年貢について、あるいはその土地のでの生産(農業のみならず商工業全般)について、米に換算していっているだけのことにすぎないと思うのだが、その「換算して」という認識は乏しいように感じている。)
第二に、これは、私の専門とも関連するのだが、やはり、ことばというものの重要性である。
たとえば、次のような指摘。
「日本でも中世、とくに十三世紀後半からは信用経済といってもよいほどに、商業・金融が発達し、さまざまな手工業が広範に展開しており、近世を通じて、商工業は高度の経済社会といってもよいほどに発達していたことは間違いないと思われます。/そのことを証明しているのが、商業に関わる言葉や、実務的な取引の用語には翻訳語がないという事実です。例えばこれから述べるように、「小切手」「手形」「為替」などは中世から古代にまで遡ることができる古い言葉なのです。」(p.153)
日本語史・国語史というような分野にたずさわっている人間のはしくれとしては、このような指摘は、おおいに気になるところである。個々のことばの語誌をたどるというかたちにおいては、歴史学研究者と歩調をあわせることもできるのかもしれない。だが、そこから、ちょっと距離をおいて、そのような種類のことばが、どのような歴史的・社会的・文化的背景をもって、今日にまで使われてきたのか、という点になると、(私の知る範囲でいうことになるが)現在の、日本語史・国語史という分野においては、およばないところが多々あるように思えてならない。
日本語史・国語史という研究分野が、これまで、日本文学・国文学とともにあったという経緯はあるにしても、文学作品のことばのように、精緻な研究が、古文書・古記録などの史料類においてなされているということはないといってよいであろう。このような方面に果敢にとりくんでいる研究者がいることは承知しているが、全体的な傾向としては、まずもって、日本語史・国語史という分野の衰退傾向といってよいかもしれない。ざっくばらんにいえば、日本語研究というのが、現代日本語中心になってきているということでもあるのだが。
やはり、これは、網野善彦のいうように「歴史学」の問題であると同時に、「日本語学」の問題でもある、このような問題意識のもとに、研究の再構築ということが必要なのではないかと思う。
環境はやりやすくなっている。史料・資料のデジタル化である。用例の検索・閲覧ということについていえば、近年は、かなり楽になってきているといってよいであろう。ただ、問題は、どのような研究課題の問題意識を持ってのぞむかということになる。
日本語史・国語史を研究しようとするものは、歴史を学んで、古文書や古記録なども読んであたりまえ、そのことが、日本語研究からも、歴史学研究からも、認識される日のおとずれることを願っている。
追記 2016-09-02
このつづきは、
網野善彦『歴史を考えるヒント』常民
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/02/8167854
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』平和主義と立憲主義 ― 2016-08-29
2016-08-29 當山日出夫
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月19日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』外国人
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/19/8154768
いよいよこの本の本題のところにさしかかる。第8章「平和主義と立憲主義」のところである。この章、かなりわかりづらいところがあるのだが、ともかく、読みながら付箋をつけた箇所をひろってみることにする。
この章については、
「本章の議論の主要なテーマの一つは、こうした絶対平和主義と立憲主義の間にひそむ深刻な緊張関係を明らかにすることである。」(p.129)
とある。立憲主義……日本国憲法は平和主義の憲法なんだから、それは即ち平和主義にきまっているではないか……という立場を、この本はとっていない。いや、むしろ、そのような短絡的な発想を否定している。立憲主義ということと、平和主義ということとは、そう簡単に結びつくものではないらしい。
「調整問題」「囚人のディレンマ」については、この本に書いてある以上の要約はむずかしいので、割愛することにする。とはいえ、このようなモデルにもとづいて、国家としての意思決定のあり方を考えることは、絶対平和主義……たとえ外国から攻められることがあっても反撃すこともしない……とは、一線を画す議論を構築するためには、必要な手続きであることは確認しておきたい。このような問題が、国際的な国家間にあることをふまえたうえで、憲法について述べた箇所でつぎのようなところが気になった。
「ただ、日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。」(p.142)
としたうえで、
「国は、「いかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法第二〇条にもかかわらず、宗教とかかわる一切の国家活動が禁じられているわけではない。」(p.142)
とある。他に「表現の自由」も例にあげられている。それをふまえて、
「第九条の文言を文字どおりに理解しようとする支配的見解の背景には、それに対応する実質的な根拠が条文の外側にあると思われる。」(p.143)
とある。このあたりの議論になると、法律の専門知識がなければ、憲法の解釈には踏み込めない、という感じになってくる。では、法律学者は、これから先の議論をどのように考えているのであろうか。本書からいくつかひろって読んでみることにする。立憲主義と平和主義との関連では、つぎのような箇所がある。
「国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって不合理な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。」(p.155)
これまで読んできたように、立憲主義というのは、ある意味では民主的な多数決を否定するものである。そのときの民主的多数派の意見に歯止めをかけるものとしての立憲主義ということになる。
この観点で、平和主義との関連では、つぎような箇所になるのだろう。
「ことに、第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい。」(p.156)
「リベラルな立憲主義にもとづく国家は、市民に生きる意味を与えない。それは、「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない。われわれ一人ひとりが、自分の生の意味を自ら見出すものと想定されている。そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬよう、市民を強制することは困難であろう。以上の議論が正しいとすれば、立憲主義国家にとって最大限可能な軍備の整備は、せいぜい傭兵と志願兵に頼ることとなる。」(p.158)
そして、どのような軍備をそなえておくにせよ、
「合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる。」(p.159)
としてある。
ここまで読んできたところでは、やはり井上達夫のいうところとするどく対立することになる。井上達夫は、憲法第九条を削除したうえで、徴兵制ということをいっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
憲法の、いや、そもそも法律の門外漢としては、どちらの意見がただしいのかは、すぐに判断しかねる。しかし、憲法にもとづいた平和主義といっても、その立論の仕方には、いろんな考え方があることは理解できる。すくなくとも、憲法を尊重する、憲法学という立場からしても、そう簡単に、平和主義と結びつくものではないことが確認できるだろうと思う次第である。素人目には、かなり屈折したというか、複雑な議論が、そこにはあることになる。
追記 2016-08-31
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
やまもも書斎記 2016年8月19日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』外国人
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/19/8154768
いよいよこの本の本題のところにさしかかる。第8章「平和主義と立憲主義」のところである。この章、かなりわかりづらいところがあるのだが、ともかく、読みながら付箋をつけた箇所をひろってみることにする。
この章については、
「本章の議論の主要なテーマの一つは、こうした絶対平和主義と立憲主義の間にひそむ深刻な緊張関係を明らかにすることである。」(p.129)
とある。立憲主義……日本国憲法は平和主義の憲法なんだから、それは即ち平和主義にきまっているではないか……という立場を、この本はとっていない。いや、むしろ、そのような短絡的な発想を否定している。立憲主義ということと、平和主義ということとは、そう簡単に結びつくものではないらしい。
「調整問題」「囚人のディレンマ」については、この本に書いてある以上の要約はむずかしいので、割愛することにする。とはいえ、このようなモデルにもとづいて、国家としての意思決定のあり方を考えることは、絶対平和主義……たとえ外国から攻められることがあっても反撃すこともしない……とは、一線を画す議論を構築するためには、必要な手続きであることは確認しておきたい。このような問題が、国際的な国家間にあることをふまえたうえで、憲法について述べた箇所でつぎのようなところが気になった。
「ただ、日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。」(p.142)
としたうえで、
「国は、「いかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法第二〇条にもかかわらず、宗教とかかわる一切の国家活動が禁じられているわけではない。」(p.142)
とある。他に「表現の自由」も例にあげられている。それをふまえて、
「第九条の文言を文字どおりに理解しようとする支配的見解の背景には、それに対応する実質的な根拠が条文の外側にあると思われる。」(p.143)
とある。このあたりの議論になると、法律の専門知識がなければ、憲法の解釈には踏み込めない、という感じになってくる。では、法律学者は、これから先の議論をどのように考えているのであろうか。本書からいくつかひろって読んでみることにする。立憲主義と平和主義との関連では、つぎのような箇所がある。
「国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって不合理な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。」(p.155)
これまで読んできたように、立憲主義というのは、ある意味では民主的な多数決を否定するものである。そのときの民主的多数派の意見に歯止めをかけるものとしての立憲主義ということになる。
この観点で、平和主義との関連では、つぎような箇所になるのだろう。
「ことに、第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい。」(p.156)
「リベラルな立憲主義にもとづく国家は、市民に生きる意味を与えない。それは、「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない。われわれ一人ひとりが、自分の生の意味を自ら見出すものと想定されている。そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬよう、市民を強制することは困難であろう。以上の議論が正しいとすれば、立憲主義国家にとって最大限可能な軍備の整備は、せいぜい傭兵と志願兵に頼ることとなる。」(p.158)
そして、どのような軍備をそなえておくにせよ、
「合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる。」(p.159)
としてある。
ここまで読んできたところでは、やはり井上達夫のいうところとするどく対立することになる。井上達夫は、憲法第九条を削除したうえで、徴兵制ということをいっている。
やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326
憲法の、いや、そもそも法律の門外漢としては、どちらの意見がただしいのかは、すぐに判断しかねる。しかし、憲法にもとづいた平和主義といっても、その立論の仕方には、いろんな考え方があることは理解できる。すくなくとも、憲法を尊重する、憲法学という立場からしても、そう簡単に、平和主義と結びつくものではないことが確認できるだろうと思う次第である。素人目には、かなり屈折したというか、複雑な議論が、そこにはあることになる。
追記 2016-08-31
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492
『真田丸』あれこれ「挙兵」 ― 2016-08-30
2016-08-30 當山日出夫
この前のNHKの『真田丸』(第34回、「挙兵」)を見て、いさかか。
第一は、「百姓」ということば。
桃の木を植えるシーン。信繁が、「百姓」ということばをつかっていた。これはやっぱり気になる。「百姓=農民」という発想だろう。もちろん、「百姓」のなかには、農民もふくむことになるのだろうが、決して農民とはかぎらない。このようなことは、網野善彦が強く言っていたことではないのか。このことについては、ついこの前に書いたばかりのことである。
やまもも書斎記 2016年8月28日
網野善彦『歴史を考えるヒント』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/28/8164364
これに対しては、古くは様々な職業を意味したものが、次第に農民を意味するようになってきたと批判もある、と網野も認めてはいる。だが、そのような批判があることを認めたうえで、「百姓=農民」と規定してしまうことの問題点を言っている。
『真田丸』ではどうだろうか。「百姓=農民」という図式で考えていいだろうか。それとも、多様な職種を意味する者としての「百姓」を考えた方がいいだろうか。
第二に、米を単位とすること。
家康は、北条征伐におもむくにあたって、兵糧を、豊臣(茶々)に要望している。そのとき、確か、二万石と言っていたように思う。このあたり歴史考証としてはどうなのだろうか。実際に食料とする意味で米のことを意味したのか、その他の食料をふくめて米に換算してという意味で言ったのか。
ささいなことかもしれないが、日本の歴史を考えるうえでは重要なことだと思っている。日本人は何を食べてきたのか、という問題とつながるからである。米ははたして主食だったのだろうか。米以外に何を食べてきていたのだろうか。このようなことが、ただ、何万石という米の量で言われてしまうと、わからなくなってしまう。
第三は、やはり主人公・信繁の行動の原理である。
エトスといってもよいか。徳川の配下に入ることはないときっぱりと断言していた。では、この信繁のエトスはいったい何なのだろうか。真田のイエの一員として、それを守ることなのか。あるいは、豊臣(あるいは、石田三成)の臣下としての忠誠心なのか。
父・昌幸は、真田のイエのために戦う。さらには、戦国の領土ナショナリズムをもう一度と夢見る。兄・信幸も、真田のイエの一員として戦うことを選んでいる。そのためには、舅の徳川方に敵対することもいとわないと言っていた。では、信繁はどうか。真田のイエの一員であると同時に、豊臣の臣下として天下太平のためにつくすことを考えているように描かれている。もはや戦乱の世にもどることはないとして、父・昌幸を欺く立場をとっている。
ここで、もし戦乱の世を終わらせることを目的とするならば、徳川について、つまり最終的な勝利者になる方につくべきだろう(ただ、これは、歴史の結果を知っている後世の見方ではあるが。)それとも、豊臣に忠誠をつくすことが、天下太平のためになると信じていることになるのか。
このあたりの描き方が、どれほど説得力があるか、ここが、今後のこのドラマの見所ということになるのだろうと思って見ていた。次週のタイトルは「犬伏」。つまり、ここで、真田の一族が、敵味方に分かれる決断をくだすことになる。このとき、信繁の行動のエトスはどのようなものとして描かれることになるのだろうか。
この前のNHKの『真田丸』(第34回、「挙兵」)を見て、いさかか。
第一は、「百姓」ということば。
桃の木を植えるシーン。信繁が、「百姓」ということばをつかっていた。これはやっぱり気になる。「百姓=農民」という発想だろう。もちろん、「百姓」のなかには、農民もふくむことになるのだろうが、決して農民とはかぎらない。このようなことは、網野善彦が強く言っていたことではないのか。このことについては、ついこの前に書いたばかりのことである。
やまもも書斎記 2016年8月28日
網野善彦『歴史を考えるヒント』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/28/8164364
これに対しては、古くは様々な職業を意味したものが、次第に農民を意味するようになってきたと批判もある、と網野も認めてはいる。だが、そのような批判があることを認めたうえで、「百姓=農民」と規定してしまうことの問題点を言っている。
『真田丸』ではどうだろうか。「百姓=農民」という図式で考えていいだろうか。それとも、多様な職種を意味する者としての「百姓」を考えた方がいいだろうか。
第二に、米を単位とすること。
家康は、北条征伐におもむくにあたって、兵糧を、豊臣(茶々)に要望している。そのとき、確か、二万石と言っていたように思う。このあたり歴史考証としてはどうなのだろうか。実際に食料とする意味で米のことを意味したのか、その他の食料をふくめて米に換算してという意味で言ったのか。
ささいなことかもしれないが、日本の歴史を考えるうえでは重要なことだと思っている。日本人は何を食べてきたのか、という問題とつながるからである。米ははたして主食だったのだろうか。米以外に何を食べてきていたのだろうか。このようなことが、ただ、何万石という米の量で言われてしまうと、わからなくなってしまう。
第三は、やはり主人公・信繁の行動の原理である。
エトスといってもよいか。徳川の配下に入ることはないときっぱりと断言していた。では、この信繁のエトスはいったい何なのだろうか。真田のイエの一員として、それを守ることなのか。あるいは、豊臣(あるいは、石田三成)の臣下としての忠誠心なのか。
父・昌幸は、真田のイエのために戦う。さらには、戦国の領土ナショナリズムをもう一度と夢見る。兄・信幸も、真田のイエの一員として戦うことを選んでいる。そのためには、舅の徳川方に敵対することもいとわないと言っていた。では、信繁はどうか。真田のイエの一員であると同時に、豊臣の臣下として天下太平のためにつくすことを考えているように描かれている。もはや戦乱の世にもどることはないとして、父・昌幸を欺く立場をとっている。
ここで、もし戦乱の世を終わらせることを目的とするならば、徳川について、つまり最終的な勝利者になる方につくべきだろう(ただ、これは、歴史の結果を知っている後世の見方ではあるが。)それとも、豊臣に忠誠をつくすことが、天下太平のためになると信じていることになるのか。
このあたりの描き方が、どれほど説得力があるか、ここが、今後のこのドラマの見所ということになるのだろうと思って見ていた。次週のタイトルは「犬伏」。つまり、ここで、真田の一族が、敵味方に分かれる決断をくだすことになる。このとき、信繁の行動のエトスはどのようなものとして描かれることになるのだろうか。
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