英雄たちの選択 スペシャル 「紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜」 ― 2024-01-07
2024年1月7日 當山日出夫
英雄たちの選択 スペシャル 紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜
一月六日の夜の放送。翌日(七日)の午前中に見た。たいていなら、ブログにアップロードするのは、さらに翌日ということになるのだが、今回は特別に今日のうちに掲載しておく。今日(七日)から、『光る君へ』がスタートであるので、それを見る前にと思って。
『光る君へ』関連番組はたいてい見ているつもりである。この「英雄たちの選択」で目新しかったこととしては、次のようになる。
まず、『源氏物語』の大島本が映っていたこと。今、普通に『源氏物語』を読むとき、現代の校注本で読むことになるが、その底本は、基本的に定家本系統を使っている。そのなかで、もっとも多く使われるのが大島本である。
次に、『源氏物語』の成立論に少し言及していたこと。『源氏物語』がどの順番で書かれたかは、いまだに多くの議論があると思っている。「桐壺」の最初から書き始めたのか、それとも、先行するいくつかの物語があったのか。ここでは、「帚木」からの三帖を最初に書き始めたという立場であった。これは、ある意味で理解できる。『源氏物語』を実際に読むと、「桐壺」の始まりと、「帚木」のいわゆる雨夜の品定めの始まりと、違和感を感じることになる。
だが、いわゆる源氏物語三段階成立説には触れるところがなかった。これは、古く武田宗俊によってとなえられ、その後、大野晋が同様のことを論じた。さらには、村上征勝によってコンピュータを用いた計量分析も行われている。
以上の二点が、他の『光る君へ』関連番組と比較して、気づいたところである。
気になるのは、『源氏物語』の人物のモデルとして、定子、彰子を考えていることである。さて、これはどうだろうか。
『源氏物語』を論じるとき、「純愛」ということばを使っているあたり、ちょっとどうかなという気もする。まあ、確かに現代の我々の価値観、恋愛感からして、「純愛」という側面がないではない。平安時代の恋を論じるとき、かつては「いろごのみ」ということばが使われたものであるが、近年では使わなくなっているかと思う。少なくとも、平安時代の貴族において、現代の我々の恋愛感、結婚観、家族間を投影して見ることには、慎重であるべきかと思う。
だが、一方、現代の目で読んで、「純愛」の物語として読めることもたしかなことであって、これは文学というものの普遍性ということになるだろう。
その時代の人びとのものの考え方に即して読むということと、現代にも通じる文学的普遍性を感じることと、この両方への目配りが必要ということになる。これは、特に『源氏物語』に限ったことではなく、文学のみならず芸術全般についていえることである。
この番組では、「紫式部」のことを「式部」と言っていた。これはどうかと思う。ただ、山本淳子だけは必ず「紫式部」と言っていたが。
2024年1月7日記
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