『虎に翼』「女房は掃きだめから拾え?」 ― 2024-06-30
2024年6月30日 當山日出夫
『虎に翼』「女房は掃きだめから拾え?」
梅子は家を出ることになった。このことについて、SNSなどでは絶賛の声が大多数である。しかし、それだけだろうか。思うことを書いてみる。
確かに、家を捨てて自由になる決意を決めた先駆的な女性として見ることもできる。この意味では、賛美する理由がわからないではない。また、脚本、演出もこのような方向で作っているのだろうと思う。
だが、ドラマというのは、別の解釈が可能でもある。
私の率直な感想を言えば、梅子が登場してきたときから、何かしら違和感を感じるところがあった。子どもを夫のようにはしたくない。せめて三男だけでも守りぬきたい。離婚して親権を手にいれるために、法律を勉強することにした。このような事情だったのだが、これは素直にうなずけない。
一般に子ども、特に男の子は父親をまずロールモデルとして育つ。また、成長するにつれて、自分はそれでいいのかと葛藤することにもなる。この葛藤を経て、大人になっていく。
子どもを夫(父親)のようにはしたくないとは、どういう意味で言っていたのだろうか。妾をかこっていたことをいうとしても、しかし、これはその当時として特にとがめられることではない。父親としての子どもの教育について不満なのだろうか。これも、帝大に入って弁護士を目指しているという。教育に失敗したということでもないだろう。強いていえば、母親(梅子)に対して冷淡なことであるが、これは、子どもが成長していけばそうなるのは、ごく普通のことでもある。まあ、家により程度はあるだろうが。また、梅子の夫が梅子に対して暴力を振るっているということもないようである。いったい何が不満だったのだろう。
それは光三郎は、まだ小学生なので、母親の言うことを何の疑問もいだかずすなおにきく。梅子はそんな光三郎を溺愛している。
これは、自分の思い通りになる子どもは溺愛するが、成長して言うことをきかなくなった子どもは嫌悪する……ただ、母親として子どもの成長を認識することができない、わがままとしか思えない。
しかも、離婚して親権を得たいから法律を学びに大学に通っている。その間、肝心の三男の面倒は誰がみることになるのか。おそらくは、姑であったにちがない。子どもが大事なら、何よりも家にいる時間を確保することが優先されるべきであろう。さらにいえば、同級生の寅子たち仲間と、甘いものを食べておしゃべりしている時間はどうなのだろう。一刻もはやく家に帰って子どもの顔を見たいと思わなかったのだろうか。
この当時、親権は父親の側にあった。こんなことは、弁護士の妻であったならば、十分分かっていたはずのことである。自分が法律を勉強したからといって、くつがえるようなことではない。もしそうなったとしても、そのころには、もう光三郎も成長していて大人になっていて、梅子の親権など問題ではなくなってしまっているはずである。こんなことは常識的判断としてすぐに分かりそうなものである。
そして、遺産相続の場面である。梅子は、自分の取り分である、三分の一はもらうつもりでいた。しかし、遺言書の偽造があり、また、妾だったすみれ光三郎の関係があかるみになると態度を一変させて、家を出て何もかも放棄することを決意する。ここのところについて、絶賛する意見が圧倒的であったことになる。
しかし、ここも、自分のことを思ってくれるはずだと信じていた光三郎に裏切られたということで、自暴自棄になったとも受け取れる。
梅子は、子どもに対して、溺愛するか、あるいは、嫌悪するか、どちらかの態度しかとることができない。母親である自分とは独立した一個の人間であり、人格を持っている、そして、成長して大人になっていくものである、ということがまったく理解できていないとしか思えない。子育てについていろいろということはできるが、昔も今も、子どもを自分とは別の人格をもった一個の人間としてあつかう、そして、いずれ大人になって手元から離れていく、これは当たり前のことである。特に、憲法が新しくなり、家制度を否定して、新しい家族観のもとに夫婦と子どもを基本とする新しい民法のもとでは、なおさらである。このことが、梅子のなかでまったく理解できていなかったとしかいいようがない。
大庭の家を出ることになった、言いかえれば、家からの解放ということになり、このことは絶賛されている。しかし、では、大庭の家の姑の面倒は誰がみることになるのか。常識的には、長男(徹太)の妻の仕事になっただろう。つまり、解放とはいっても、実質的には、逃亡であり、今でいうケアの仕事を自分の子どもの妻(それは女性である)におしつけただけのことである。
大庭の兄弟は男三人という設定であった。これは意図的にそうなのだろう。もし、娘がいたとしたら、もし結婚していて大庭の家から離れていたとしても、自分の実家の母親の、あるいは、祖母の面倒をみなければならないことになる。これも、女性に対するケアのおしつけである。あからさまにそうならないために、男三人兄弟という設定にしたのかと思う。
このドラマでは、弱い立場にある男性を救わない。男爵であった涼子の父親も、華族制度、家父長制の犠牲者の一人であるはずだが、そのような視点では描いていなかった。大庭家の次男の徹次も、戦争に行って体が不自由になりこころも病んでいる。このような男性がその当時は多くいたことになる。しかし、このドラマでは、このような男性は、法的には無論のこと、個人的な善意からでも、救済の対象とはみなされていない。女性は弱いものだから救わなければならないというメッセージは伝わってくるのだが、男性については、どうでもいいとほうっておかれる。よねの台詞では、クズあつかいされる。寅子がしたことは、せいぜい、街角の傷痍軍人に小銭をめぐんだことと、浮浪少年だった道男の面倒をみたことぐらいである。これは、法律家としての判断ではなく、ただ個人的な善意である(せいぜいよく言って)。
それから、気になることがある。大庭家の光三郎と妾だったすみれの抱擁の場面を寅子は目撃する。このとき、寅子は、家庭裁判所の裁判官として、大庭の家の遺産相続問題の担当になっていたはずである。その裁判官が、まったくの偶然で、しかも、寅子(と小橋)しか知り得ない、関係者の情報を得たことになる。このとき、法律家としては、どうすべきなのだろうか。
もし刑事事件なら、新しい証拠や証言が出てきたとしても、それを得た手続きの適法性が、まず問題になるはずである。かつて、寅子の父親は、自白を強要されたこともあった。
家庭裁判所の案件の場合、光三郎とすみれの関係は、どのような手続きを経て関係者(大庭家の人間、轟とよね)に知らされるべきなのだろうか。家庭裁判所に調査権があって、それによって得られた新事実ではない。あきらかに遺産相続問題における関係者の判断に影響をあたえる。
考え方によっては、寅子が、光三郎たちに、「今のは見なかったことにするから」と言って立ち去り、家庭裁判所の審判においては、正当な調査や手続きで得られた証拠や証言だけにもとづいて、法律的な判断を下す……このような展開もあり得たのかもしれない。だが、ドラマでは、このような展開にはなっていなかった。この当時、家庭裁判所において、証言とか証拠とかは、どのようにあつかわれることになっていたのだろうか。
そもそも、梅子は、新しい時代の女性として、自由を得たいという渇望、独立した個人としての尊厳が胸のうちからふつふつとわきあがってきてどうしようもない……まあ、『人形の家』を思い起こしてもいいのだが……という人物造形になっていない。このような前世紀的な女性の権利思想はそぐわないという判断だったのかもしれない。前にも書いたことだが、このドラマでは、思想の歴史を描こうとしていない。ここで破綻をきたしたのが、梅子という人物だったのではないかと思ってみる。梅子は、いうならばノラになれなかった愚かな女なのである。
梅子は、民法七三〇条……家族は助け合わなければならない……を引き合いにだして、おしつけかえしてやったのよ、と自慢げに言っていたが、しかし、ケアをおしつけあったところで、何の解決にもならないことは、現代社会の問題として論じられていることである。社会保障の諸制度の問題、法的な整備、人びとの意識の変革、これらが総合的に求められている。この意味では、梅子は今日の価値観からして時代遅れとしかいいようがない。私はどうしても梅子を絶賛する気にはなれないのである。
梅子がこのような人物であることはドラマの作り方の問題なのであり、そのように見ておけばいいことなのだが、しかし、梅子のことが絶賛されている世評のあり方には、一抹の危惧を感じるのが、正直な気持ちである。だから、このようなことを書いてみたことになる。
私なら、最後に、ナレーションの尾野真千子にこう言わせたい。「梅子は逃げたのでした。しかし、この時代にはこうでもするしかなかったのです。」
2024年6月29日記
『虎に翼』「女房は掃きだめから拾え?」
梅子は家を出ることになった。このことについて、SNSなどでは絶賛の声が大多数である。しかし、それだけだろうか。思うことを書いてみる。
確かに、家を捨てて自由になる決意を決めた先駆的な女性として見ることもできる。この意味では、賛美する理由がわからないではない。また、脚本、演出もこのような方向で作っているのだろうと思う。
だが、ドラマというのは、別の解釈が可能でもある。
私の率直な感想を言えば、梅子が登場してきたときから、何かしら違和感を感じるところがあった。子どもを夫のようにはしたくない。せめて三男だけでも守りぬきたい。離婚して親権を手にいれるために、法律を勉強することにした。このような事情だったのだが、これは素直にうなずけない。
一般に子ども、特に男の子は父親をまずロールモデルとして育つ。また、成長するにつれて、自分はそれでいいのかと葛藤することにもなる。この葛藤を経て、大人になっていく。
子どもを夫(父親)のようにはしたくないとは、どういう意味で言っていたのだろうか。妾をかこっていたことをいうとしても、しかし、これはその当時として特にとがめられることではない。父親としての子どもの教育について不満なのだろうか。これも、帝大に入って弁護士を目指しているという。教育に失敗したということでもないだろう。強いていえば、母親(梅子)に対して冷淡なことであるが、これは、子どもが成長していけばそうなるのは、ごく普通のことでもある。まあ、家により程度はあるだろうが。また、梅子の夫が梅子に対して暴力を振るっているということもないようである。いったい何が不満だったのだろう。
それは光三郎は、まだ小学生なので、母親の言うことを何の疑問もいだかずすなおにきく。梅子はそんな光三郎を溺愛している。
これは、自分の思い通りになる子どもは溺愛するが、成長して言うことをきかなくなった子どもは嫌悪する……ただ、母親として子どもの成長を認識することができない、わがままとしか思えない。
しかも、離婚して親権を得たいから法律を学びに大学に通っている。その間、肝心の三男の面倒は誰がみることになるのか。おそらくは、姑であったにちがない。子どもが大事なら、何よりも家にいる時間を確保することが優先されるべきであろう。さらにいえば、同級生の寅子たち仲間と、甘いものを食べておしゃべりしている時間はどうなのだろう。一刻もはやく家に帰って子どもの顔を見たいと思わなかったのだろうか。
この当時、親権は父親の側にあった。こんなことは、弁護士の妻であったならば、十分分かっていたはずのことである。自分が法律を勉強したからといって、くつがえるようなことではない。もしそうなったとしても、そのころには、もう光三郎も成長していて大人になっていて、梅子の親権など問題ではなくなってしまっているはずである。こんなことは常識的判断としてすぐに分かりそうなものである。
そして、遺産相続の場面である。梅子は、自分の取り分である、三分の一はもらうつもりでいた。しかし、遺言書の偽造があり、また、妾だったすみれ光三郎の関係があかるみになると態度を一変させて、家を出て何もかも放棄することを決意する。ここのところについて、絶賛する意見が圧倒的であったことになる。
しかし、ここも、自分のことを思ってくれるはずだと信じていた光三郎に裏切られたということで、自暴自棄になったとも受け取れる。
梅子は、子どもに対して、溺愛するか、あるいは、嫌悪するか、どちらかの態度しかとることができない。母親である自分とは独立した一個の人間であり、人格を持っている、そして、成長して大人になっていくものである、ということがまったく理解できていないとしか思えない。子育てについていろいろということはできるが、昔も今も、子どもを自分とは別の人格をもった一個の人間としてあつかう、そして、いずれ大人になって手元から離れていく、これは当たり前のことである。特に、憲法が新しくなり、家制度を否定して、新しい家族観のもとに夫婦と子どもを基本とする新しい民法のもとでは、なおさらである。このことが、梅子のなかでまったく理解できていなかったとしかいいようがない。
大庭の家を出ることになった、言いかえれば、家からの解放ということになり、このことは絶賛されている。しかし、では、大庭の家の姑の面倒は誰がみることになるのか。常識的には、長男(徹太)の妻の仕事になっただろう。つまり、解放とはいっても、実質的には、逃亡であり、今でいうケアの仕事を自分の子どもの妻(それは女性である)におしつけただけのことである。
大庭の兄弟は男三人という設定であった。これは意図的にそうなのだろう。もし、娘がいたとしたら、もし結婚していて大庭の家から離れていたとしても、自分の実家の母親の、あるいは、祖母の面倒をみなければならないことになる。これも、女性に対するケアのおしつけである。あからさまにそうならないために、男三人兄弟という設定にしたのかと思う。
このドラマでは、弱い立場にある男性を救わない。男爵であった涼子の父親も、華族制度、家父長制の犠牲者の一人であるはずだが、そのような視点では描いていなかった。大庭家の次男の徹次も、戦争に行って体が不自由になりこころも病んでいる。このような男性がその当時は多くいたことになる。しかし、このドラマでは、このような男性は、法的には無論のこと、個人的な善意からでも、救済の対象とはみなされていない。女性は弱いものだから救わなければならないというメッセージは伝わってくるのだが、男性については、どうでもいいとほうっておかれる。よねの台詞では、クズあつかいされる。寅子がしたことは、せいぜい、街角の傷痍軍人に小銭をめぐんだことと、浮浪少年だった道男の面倒をみたことぐらいである。これは、法律家としての判断ではなく、ただ個人的な善意である(せいぜいよく言って)。
それから、気になることがある。大庭家の光三郎と妾だったすみれの抱擁の場面を寅子は目撃する。このとき、寅子は、家庭裁判所の裁判官として、大庭の家の遺産相続問題の担当になっていたはずである。その裁判官が、まったくの偶然で、しかも、寅子(と小橋)しか知り得ない、関係者の情報を得たことになる。このとき、法律家としては、どうすべきなのだろうか。
もし刑事事件なら、新しい証拠や証言が出てきたとしても、それを得た手続きの適法性が、まず問題になるはずである。かつて、寅子の父親は、自白を強要されたこともあった。
家庭裁判所の案件の場合、光三郎とすみれの関係は、どのような手続きを経て関係者(大庭家の人間、轟とよね)に知らされるべきなのだろうか。家庭裁判所に調査権があって、それによって得られた新事実ではない。あきらかに遺産相続問題における関係者の判断に影響をあたえる。
考え方によっては、寅子が、光三郎たちに、「今のは見なかったことにするから」と言って立ち去り、家庭裁判所の審判においては、正当な調査や手続きで得られた証拠や証言だけにもとづいて、法律的な判断を下す……このような展開もあり得たのかもしれない。だが、ドラマでは、このような展開にはなっていなかった。この当時、家庭裁判所において、証言とか証拠とかは、どのようにあつかわれることになっていたのだろうか。
そもそも、梅子は、新しい時代の女性として、自由を得たいという渇望、独立した個人としての尊厳が胸のうちからふつふつとわきあがってきてどうしようもない……まあ、『人形の家』を思い起こしてもいいのだが……という人物造形になっていない。このような前世紀的な女性の権利思想はそぐわないという判断だったのかもしれない。前にも書いたことだが、このドラマでは、思想の歴史を描こうとしていない。ここで破綻をきたしたのが、梅子という人物だったのではないかと思ってみる。梅子は、いうならばノラになれなかった愚かな女なのである。
梅子は、民法七三〇条……家族は助け合わなければならない……を引き合いにだして、おしつけかえしてやったのよ、と自慢げに言っていたが、しかし、ケアをおしつけあったところで、何の解決にもならないことは、現代社会の問題として論じられていることである。社会保障の諸制度の問題、法的な整備、人びとの意識の変革、これらが総合的に求められている。この意味では、梅子は今日の価値観からして時代遅れとしかいいようがない。私はどうしても梅子を絶賛する気にはなれないのである。
梅子がこのような人物であることはドラマの作り方の問題なのであり、そのように見ておけばいいことなのだが、しかし、梅子のことが絶賛されている世評のあり方には、一抹の危惧を感じるのが、正直な気持ちである。だから、このようなことを書いてみたことになる。
私なら、最後に、ナレーションの尾野真千子にこう言わせたい。「梅子は逃げたのでした。しかし、この時代にはこうでもするしかなかったのです。」
2024年6月29日記
名前の表記が間違っていたので訂正しました。正三郎→光三郎。2024年6月30日
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