『坂の上の雲』「(17)広瀬、死す(前編)」 ― 2025-01-10
2025年1月10日 當山日出夫
『坂之上の雲』 (17)広瀬、死す(前編)
私の年だと、このような戦争ドラマを見て、登舷礼のシーンには感動するものがある。たぶん、今の若い人には分からない感覚だろうと思うが。
広瀬武夫のことは、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』にはほとんど出てこなかったはずである。原作を最も大きく改編してあるのが、広瀬武夫の部分であると、私は思っている。
おそらく、このドラマを企画したときのスタッフの思いとしては、日露戦争を多面的に描きたい、ロシア側の人びとのことも描きたいということもあったのだろう。そして、(もうこれは歴史の結果として分かっていることだが)広瀬武夫は、旅順港閉塞作戦で戦死する。作戦の立案、実施にあたって、兵士の生還を期しがたい作戦であったのか、どうなのか……おそらく、このところを問いかけたい意図があってのことかと、考えてみることになる。
司馬遼太郎は、昭和の時代の軍隊に対してきわめて批判的であった。国の進路をあやまったのは、軍の責任、統帥権ということであったと、強く主張した。このことの歴史的な意味は別に考える必要があるが、昭和の軍隊が、兵士の命を軽視していたことは、たしかなことだといっていいかもしれない。すくなくとも、太平洋戦争の末期におこなわれた特攻については、まさに統率の外道であった。それより以前に、肉弾三勇士とか、特殊潜航艇九軍神とかのこともあるのだけれど。
旅順港閉塞作戦の日露戦争史における意味もあるが、それよりも、生還できなかった広瀬武夫によって、戦争の作戦とはいかにあるべきかを考えてみることになる、たぶんこのような意図があっての脚本と理解しておく。
このドラマは、インテリジェンスのことを描かない。旅順港の状況がどうなっているのか、日本軍はどれぐらい把握していたのだろうか。史料がどれぐらい残っているかということもあるが。
日露戦争を始めたのは、アレクセーエフ総督である……ともとれる描き方になっている。いずれにせよ、日本とロシアは戦わねばならなかっただろうが。旅順港の攻撃、それは宣戦布告の前におこなわれた。これは確かなことにちがいないが、必ずしも国際的な慣例からして問題であったわけではない。
たぶん、後の太平洋戦争のときの真珠湾攻撃のときのことを思うことになると、意図しての脚本なのだろう。通説では、アメリカに対する連絡が遅れたのは、ワシントンの日本大使館で職員が前日からの二日酔いで、暗号の解読に手間取ってしまったせいである……と言われているが、さて本当のところはどうだったろうか。たしか、これに対する検証の本も出ていたと憶えているのだが。結果としては、日本の奇襲攻撃が、逆に裏目に出たことにはなったが。
旅順艦隊に対する魚雷攻撃は、ほとんど戦果がなかったということなのだが、この当時の魚雷とはどれぐらいの威力があったのだろうか。その命中率はどれくらいだったのだろうか。こういうことも気にかかる。
軍事史としてはどうだったのだろうか。日露戦争の開戦の時点で、ロシアは、バルチック艦隊の日本への派遣を決めていたのだろうか。(といって、日露戦争関係の本を読んで調べようという気にならないのは、もう自分も歳をとったせいか。)
これまでこのドラマを見てきて、やはり問題だと思うのは、当時の日本における反戦論、非戦論を描いていないことである。戦争が始まってしまえば、マスコミは強硬路線を支持することになるし、民衆はそれに熱狂する。だが、その一方で、平和主義をとなえ、ロシアとの戦争に批判的であった人たちもいたはずなのだが、このドラマでは、登場していない。もし、今の時代に、このドラマを作るとしたら、反戦論の立場も取り入れたものになるだろうと思う。
秋山好古が手紙に書いていた、国家は上層から腐敗する、と……そうだろうなあ、とつくづく思う。以前にこのドラマを見たときには、この部分にはあまり注意しなかったけれど、今になって再放送を見ると、そのとおりだよなあ、と思う。その腐敗を加速するのが、昨今のSNSであったりもするだろうが。いや、今では、SNSによって市民から腐敗するということになるのかもしれないが。
それから、無線通信がいつごろから実用化されたのか、簡単にネットで調べてみると、まさに日露戦争の時代が、その時代になる。情報が高速で世界をめぐる時代のなかにあって、日露戦争があったことになる。
2025年1月9日記
『坂之上の雲』 (17)広瀬、死す(前編)
私の年だと、このような戦争ドラマを見て、登舷礼のシーンには感動するものがある。たぶん、今の若い人には分からない感覚だろうと思うが。
広瀬武夫のことは、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』にはほとんど出てこなかったはずである。原作を最も大きく改編してあるのが、広瀬武夫の部分であると、私は思っている。
おそらく、このドラマを企画したときのスタッフの思いとしては、日露戦争を多面的に描きたい、ロシア側の人びとのことも描きたいということもあったのだろう。そして、(もうこれは歴史の結果として分かっていることだが)広瀬武夫は、旅順港閉塞作戦で戦死する。作戦の立案、実施にあたって、兵士の生還を期しがたい作戦であったのか、どうなのか……おそらく、このところを問いかけたい意図があってのことかと、考えてみることになる。
司馬遼太郎は、昭和の時代の軍隊に対してきわめて批判的であった。国の進路をあやまったのは、軍の責任、統帥権ということであったと、強く主張した。このことの歴史的な意味は別に考える必要があるが、昭和の軍隊が、兵士の命を軽視していたことは、たしかなことだといっていいかもしれない。すくなくとも、太平洋戦争の末期におこなわれた特攻については、まさに統率の外道であった。それより以前に、肉弾三勇士とか、特殊潜航艇九軍神とかのこともあるのだけれど。
旅順港閉塞作戦の日露戦争史における意味もあるが、それよりも、生還できなかった広瀬武夫によって、戦争の作戦とはいかにあるべきかを考えてみることになる、たぶんこのような意図があっての脚本と理解しておく。
このドラマは、インテリジェンスのことを描かない。旅順港の状況がどうなっているのか、日本軍はどれぐらい把握していたのだろうか。史料がどれぐらい残っているかということもあるが。
日露戦争を始めたのは、アレクセーエフ総督である……ともとれる描き方になっている。いずれにせよ、日本とロシアは戦わねばならなかっただろうが。旅順港の攻撃、それは宣戦布告の前におこなわれた。これは確かなことにちがいないが、必ずしも国際的な慣例からして問題であったわけではない。
たぶん、後の太平洋戦争のときの真珠湾攻撃のときのことを思うことになると、意図しての脚本なのだろう。通説では、アメリカに対する連絡が遅れたのは、ワシントンの日本大使館で職員が前日からの二日酔いで、暗号の解読に手間取ってしまったせいである……と言われているが、さて本当のところはどうだったろうか。たしか、これに対する検証の本も出ていたと憶えているのだが。結果としては、日本の奇襲攻撃が、逆に裏目に出たことにはなったが。
旅順艦隊に対する魚雷攻撃は、ほとんど戦果がなかったということなのだが、この当時の魚雷とはどれぐらいの威力があったのだろうか。その命中率はどれくらいだったのだろうか。こういうことも気にかかる。
軍事史としてはどうだったのだろうか。日露戦争の開戦の時点で、ロシアは、バルチック艦隊の日本への派遣を決めていたのだろうか。(といって、日露戦争関係の本を読んで調べようという気にならないのは、もう自分も歳をとったせいか。)
これまでこのドラマを見てきて、やはり問題だと思うのは、当時の日本における反戦論、非戦論を描いていないことである。戦争が始まってしまえば、マスコミは強硬路線を支持することになるし、民衆はそれに熱狂する。だが、その一方で、平和主義をとなえ、ロシアとの戦争に批判的であった人たちもいたはずなのだが、このドラマでは、登場していない。もし、今の時代に、このドラマを作るとしたら、反戦論の立場も取り入れたものになるだろうと思う。
秋山好古が手紙に書いていた、国家は上層から腐敗する、と……そうだろうなあ、とつくづく思う。以前にこのドラマを見たときには、この部分にはあまり注意しなかったけれど、今になって再放送を見ると、そのとおりだよなあ、と思う。その腐敗を加速するのが、昨今のSNSであったりもするだろうが。いや、今では、SNSによって市民から腐敗するということになるのかもしれないが。
それから、無線通信がいつごろから実用化されたのか、簡単にネットで調べてみると、まさに日露戦争の時代が、その時代になる。情報が高速で世界をめぐる時代のなかにあって、日露戦争があったことになる。
2025年1月9日記
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