BS世界のドキュメンタリー「モダン・タイムス チャップリンの声なき抵抗」2025-02-12

2025年2月12日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「モダン・タイムス チャップリンの声なき抵抗」

録画しておいたのをようやく見た。

チャップリンの無声映画は、昔、学生だったとき(半世紀ほど前のことになる)、そのころ京橋にあったフィルムセンターで、かなり見たことがある。フィルムセンターができて、あまり人に知られていないころである。ガラガラだった。ちょうど『ぴあ』が刊行されたころで、それをたよりに東京の名画座などを回ったものである。(私の記憶にあるかぎりで、フィルムセンターで行列をしたのは、『天井桟敷の人々』だけである。)

おそらく、映画史、また、チャップリン研究に詳しい人なら、この番組で語ったことはよく知られていることだろうと思う。

映画がトーキーになって、どういう意味を持つことになったのか、俳優や映画監督にとって、トーキーは新しい技術で人を引きつけるだけのものではなかった。声が悪いという理由で、消えていったスターが多くいたことは知られている。

たしかに無声映画ならではの表現はある。『街の灯』のラストシーンなどは、無声映画だからこそのものにちがいない。

ハリウッド映画に、アメリカで検閲が行われるようになる。このこと自体は、歴史的にそうなのだろうということだが、それがどのような内容であったかが、問題である。

何時の時代でも、日本でもそうなのだが、検閲は「エロ・グロ・ナンセンス」から始まる。社会の良識ある人びとが目をそむけるようなものを、取り締まること、排除することから、徐々にひろがっていく。

これを当局が前面に出ておこなうか、あるいは、業界の自主規制というような形にするのか、これは、国や時代によって違いがあることになる。日本で行われた検閲は、たしかに見える形のものもあったが、実際には、自主規制という形のものがあったということは、確かだろうと思っている。それは、今の日本のメディアにもつながっていることである。近年では、かつてのような「エロ・グロ・ナンセンス」にかわり、「PC」ということが基準になってきている。「正しさ」によって、人をさばき評価する、ということは、私は反対である。「正しさ」は人を攻撃するためのものではない。自らを律するためのものである。(だからといって、なんでもかんでも野放しでいいとは思わないが、メディアのあり方やコンテンツの評価については、常に自覚的であるべきとは思う。)

また、メディアと人間の声という観点からも考えることはある。ラジオが登場したとき、いったい世の中の人は、どう反応したのだろうか。これは、現代からは、もう想像することしかできない。

それが、今では、スマホ一つあれば、誰でもが自由に、音声と画像……それが本物であれ偽物であれ、AIが作ったものであっても……自由に発信することができ、また、見ることが可能になってきている。

かつて、ラジオが登場したとき、映画が登場したとき、その映画が音声を出すようになったとき、その後、色のついた映像になったとき、人びとはどう感じたのだろうか。

ところで、日本で現在もっとも評価の高い映画監督の一人として、小津安二郎がいる。小津は戦前から無声映画を多く撮っている。著名な小津安二郎の映画を見ると(今の時代だからテレビの画面でということになるが)、無声映画の作り方を踏襲していると感じるところがある。

映画、あるいは、テレビのドラマもそうだが、人間の想像力をどう刺激するかということが、重要である。そこにどのような政治的主張をこめるとしても、エンターテイメントであるならば、見る人の想像力に対する信頼感がなければならないと、私は考える。そして、そういう作品は、芸術的価値を持ちうる。

2025年2月6日記

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