BSスペシャル「50年目の悪夢 〜大虐殺 加害者たちのカンボジア〜」 ― 2025-04-26
2025年4月26日 當山日出夫
BSスペシャル 50年目の悪夢 〜大虐殺 加害者たちのカンボジア〜
録画してあったのをようやく見た。
世界中で紛争や内戦は絶えない。そのなかで、カンボジアのことは、あまり日本で大きく報道されることはなかったかと記憶している。その前のベトナム戦争のときのような、熱心な報道という雰囲気ではなかったというのが、私の記憶である。ポル・ポト政権が何をしたのか、ということが明らかになったのは、かなり時間がたってからだったが、それが大問題として、日本国内の世論、論壇でにぎやかであったということはなかった。(これも、現代のウクライナでの戦争や、イスラエルとパレスチナのことなどと比べれば、ということもあるが。)
どのようなことが行われてきたかについて、資料を集め、また、関係者の証言を記録しておくということは、重要である。カンボジアの場合で、やはり興味深いと感じるのは、被害者と加害者と区別することをせずに、両方の人びとの証言を残そうとしていることである。これは、もし、ポル・ポト政権のときの、加害者側の関係者を全員排除してしまう、ということになったら、国家の運営ができなくなってしまう、という現実的な判断もあったことになる。
しかし、その一方で、同じ国内で、敵と味方に分断して対立することを避けようという意識も、どこかで働いているのだろうと感じるところである。(このあたりの感覚は、かなり特殊な事情があってのことだろう。)
番組として取材して範囲でも、加害者側の口はなかなかかたい。容易に、その当時のことを語ろうとしない。まれに過去のことを語る場合でも、非常に淡々とした口調である。自分に罪があったかどうかという責任論を論じるよりも、その時代はそういう時代であった、殺す側にならなければ、殺される側になるしかない時代だった、といことを語ることになる。
ポル・ポトも死んでしまったことだし、これ以上、生きている人の責任を追及しても意味がない……このように感じるところがある。また、このように考えなければ、この国で生きていくことはできないのかもしれない。(このような感覚は、おそらく、今のウクライナやパレスチナの人びとが感じていることとは、かなり違ったものかと思う。)
加害の責任を論じるのではなく、そこにあるのは、赦しであったり、あるいは、悔悟であったり、ということになる。
番組製作者の意図とはずれることになるかもしれないが、悪いやつらの責任をとことん追及することこそが正義である、という現代の日本、そして、西欧世界の価値観とは、ちょっと違う感性のなかに、カンボジアの人びとは生きていると感じる。こういう感性からは、憎悪と反感の連鎖ということにはならないかと思う。
2025年4月23日記
BSスペシャル 50年目の悪夢 〜大虐殺 加害者たちのカンボジア〜
録画してあったのをようやく見た。
世界中で紛争や内戦は絶えない。そのなかで、カンボジアのことは、あまり日本で大きく報道されることはなかったかと記憶している。その前のベトナム戦争のときのような、熱心な報道という雰囲気ではなかったというのが、私の記憶である。ポル・ポト政権が何をしたのか、ということが明らかになったのは、かなり時間がたってからだったが、それが大問題として、日本国内の世論、論壇でにぎやかであったということはなかった。(これも、現代のウクライナでの戦争や、イスラエルとパレスチナのことなどと比べれば、ということもあるが。)
どのようなことが行われてきたかについて、資料を集め、また、関係者の証言を記録しておくということは、重要である。カンボジアの場合で、やはり興味深いと感じるのは、被害者と加害者と区別することをせずに、両方の人びとの証言を残そうとしていることである。これは、もし、ポル・ポト政権のときの、加害者側の関係者を全員排除してしまう、ということになったら、国家の運営ができなくなってしまう、という現実的な判断もあったことになる。
しかし、その一方で、同じ国内で、敵と味方に分断して対立することを避けようという意識も、どこかで働いているのだろうと感じるところである。(このあたりの感覚は、かなり特殊な事情があってのことだろう。)
番組として取材して範囲でも、加害者側の口はなかなかかたい。容易に、その当時のことを語ろうとしない。まれに過去のことを語る場合でも、非常に淡々とした口調である。自分に罪があったかどうかという責任論を論じるよりも、その時代はそういう時代であった、殺す側にならなければ、殺される側になるしかない時代だった、といことを語ることになる。
ポル・ポトも死んでしまったことだし、これ以上、生きている人の責任を追及しても意味がない……このように感じるところがある。また、このように考えなければ、この国で生きていくことはできないのかもしれない。(このような感覚は、おそらく、今のウクライナやパレスチナの人びとが感じていることとは、かなり違ったものかと思う。)
加害の責任を論じるのではなく、そこにあるのは、赦しであったり、あるいは、悔悟であったり、ということになる。
番組製作者の意図とはずれることになるかもしれないが、悪いやつらの責任をとことん追及することこそが正義である、という現代の日本、そして、西欧世界の価値観とは、ちょっと違う感性のなかに、カンボジアの人びとは生きていると感じる。こういう感性からは、憎悪と反感の連鎖ということにはならないかと思う。
2025年4月23日記
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