『街道をゆく オホーツク街道』司馬遼太郎/朝日文庫2023-06-26

2023年6月26日 當山日出夫

オホーツク街道

司馬遼太郎.『街道をゆく オホーツク街道』(朝日文庫).朝日新聞出版.2009
https://publications.asahi.com/kaidou/38/index.shtml

もとは、一九九二年に「週刊朝日」に連載。

このところ「街道をゆく」を読んでいる。「北のまほろば」を読んだ次にと思って手にしたのがこの本である。

北海道、特に、オホーツク沿岸地域を旅している。そこで語られるのは、オホーツク文化、擦文文庫、縄文文化、アイヌ文化のことなどが中心になる。

正直言って、この本を読むまで、古代のオホーツク文化、擦文文化については、ほとんど知らなかった。北海道と言えば、アイヌの地だと思っていた。だが、そうではないらしい。アイヌ文化の起源はかなり新しいとのことである。

このあたり、北海道の文化史、考古学について、最近の知見ではどうなのだろうかと思う。

ともあれ、司馬遼太郎は、日本という国を、世界史的に俯瞰して見ている。はっきり言って空想かなと思うところもある。だが、日本を日本という狭い列島の範囲だけで考えずに、東アジア全体のなかで考えようという視点は重要だと思う。

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいて感じるのは、司馬遼太郎は、基本的に人の悪口を書かない。これは、「週刊朝日」連載ということがあってのことかもしれない。ほとんど、批判的なことばが出てくることはない。登場する、どの研究者も褒めている。

私の目で読んで、言語学的な日本語の成立や、ことばの語源などについては、どうかと思うところもあるにはあるのだが、しかし、そう目くじら立てて読もうという気にはならない。司馬遼太郎の、この時代のエッセイとして読めばいいと思うことにしている。そして、そう思って読むと、これは実に楽しい読み物になっている。

開かれた日本、多層的、重層的な文化、というものを考えることの重要性を強く感じた次第である。

2023年6月25日

『街道をゆく 北のまほろば』司馬遼太郎/朝日文庫2023-06-24

2023年6月24日 當山日出夫

北のまほろば

司馬遼太郎.『街道をゆく 北のまほろば』(朝日文庫).朝日新聞出版.2009
https://publications.asahi.com/kaidou/41/index.shtml

このところ「街道をゆく」を読んでいる。

「北のまほろば」もNHKで放送していたのを見た。全部きちんと見たというのではなかったと思うが、部分的には憶えている。十三湖の映像がきれいだったのを印象的に憶えている。

もとは一九九四年に「週刊朝日」連載。一九九四年というと、この週刊誌連載の途中で、三内丸山遺跡が発見されたときになる。今からおもえば、タイムリーに連載していたことになる。

青森が舞台である。青森は、過去には通過したことがあるだけである。青函連絡船に乗った経験があるので、青森県は通っている。しかし、特にここが青森であると意識して行ったことは、残念ながらない。

著者は「まほろば」と言っている。一般に青森というと北の辺境というイメージがあるかと思うのだが、しかし、古くからそこに暮らしてきた人びとにとっては、非常に豊かな土地であったことになる。特に、縄文の昔にさかのぼれば、東北地方のこのあたりこそ、豊饒の地であった。

この本を読んで思うことは、「日本」という国の重層性、多様性である。えてして、中央……古代では奈良であり平安京であり、あるいは、江戸であり東京であり……の歴史で、「日本」を見てしまいがちであるが、そのような考え方の浅薄さに気づくことになる。「日本」には、古来よりそれぞれの土地に人びとが住み、それぞれに豊かに暮らしてきた。それを狭義の「日本人」でとらえることは無理がある。「日本」において暮らしてきた多くの人びとの多様なあり方に目を向ける必要があるだろう。

太宰治のことが出てくる。太宰治は、数年前の新潮文庫版で、その小説をまとめて読んだのだが、これも読みかえしてみたくなった。

石坂洋次郎のことが出てくる。『若い人』は、若いころから何度か読んでいる。司馬遼太郎は、この作品を高く評価している。読みかえしてみたい本の一つである。

棟方志功は、一応の知識はあるつもりでいた。だが、この本を読んで認識を新たにした。

「街道をゆく」をつづけて読んでみようと思っている。

2023年6月23日記

『街道をゆく 三浦半島記』司馬遼太郎/朝日文庫2023-06-23

2023年6月23日 當山日出夫

街道をゆく三浦半島記

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいる。たまたまNHKで「新 街道をゆく 奈良散歩」を見て、興味を持った。これまで司馬遼太郎の小説類はかなり読んできていたが、「街道をゆく」シリーズは、読まずにきた。が、読んでみると面白い。小説であれば、「余談」として書かれるようなことが、次から次へと連想のつながりで記述される。まさに自由である。

「三浦半島記」は、場所としては三浦半島を話題にしている。あつかってある時代は主に鎌倉時代である。

その歴史観、武士とはどのように発生したものなのか、あるいは、鎌倉幕府とは板東武者にとってどのような存在であったのか、頼朝は何をした人物なのか……このようなこと、現在の歴史学からすれば、ちょっと疑問になるところもあるにちがいない。だが、これは自由なエッセイとして読めばいいと思う。歴史学書ではない(と、思って私は読むことにしている。)

そう思って、気楽に読むことにすると、これが実に面白い。

最新の歴史学的研究はそれはそれとして、司馬遼太郎という人物が何をどう思って、何から何を連想するか、そのつながりと飛躍がが面白いのである。

去年のNHKの大河ドラマが、『鎌倉殿の13人』であった。これは全部見た。そのせいもあるのだろうが、この本を読みながら、あのシーンはこういうことだったのかとうなづくところがいくつかあった。あるいは、ここは、司馬遼太郎と解釈の違う脚本になっていたなと思うところもある。

つづけて、「街道をゆく」を読んでみたいと思っている。

2023年6月22日記

『街道をゆく 近江散歩 奈良散歩』司馬遼太郎/朝日文庫2023-06-20

2023年6月20日 當山日出夫


司馬遼太郎.『街道をゆく 近江散歩 奈良散歩』(朝日文庫).朝日新聞出版.2009
https://publications.asahi.com/kaidou/24/index.shtml

元は一九八四年に週刊朝日に連載。その後、単行本になり文庫本になりして、今にいたっている。

NHKの「新 街道をゆく」の「奈良散歩」の回を見て、これがよかったので、本を読んでみることにした。まず、「奈良散歩」の方から読んだ。原作(と言っていいだろうか)を読むと、NHKの番組が非常によく作ってあることが理解される。

二月堂の修二会を軸にして、「兜率天」としての東大寺のあり方を、貴重な映像資料で追っていることになる。番組では、仏教史にまつわるいろんなことは削除されたことになるが、これは致し方ないことかと思う。

「近江散歩」は、読む順番が後になった。これもとてもいい。一九八四年というと、高度成長期後の日本であり、日本列島改造の嵐のふきあれた後のことになる。その時代の流れのなかにあって、それ以前の古き良き日本の姿を、この文章はとらえている。

琵琶湖というものの環境保全の重要さを、特に力説している。これが、一九八四年に書かれているということを思ってみると、この当時の司馬遼太郎の目の確かさ、それから、武村知事の環境行政の姿勢が、高く評価される。

その他、戦国の時代のこと、姉川の合戦とか、鉄砲鍛冶のこととか、好きな方向に自由に脱線していく。それが、読んでいて楽しい。その中におりこまれている、地域の風景の描写がいい。司馬遼太郎の文章の良さが発揮されている。

もう今になって司馬遼太郎の小説を読み返してみようという気はおこらないでいるのだが、「街道をゆく」シリーズは読んでみようかという気になった。週刊朝日の連載である。かなり自由に書いているし、自由に読めばいいだろう。小説ならば、余談として書かれるような話題が豊富である。それも、今の研究からすれば、ちょっと古めかしいかという気もしないではない。だが、この文章の書かれた時代、まだ私が若かったころのことになる。その時代の歴史学のあり方がどんなものであったか、書き残しておいてくれるという側面もあるかと思う。

この文章が連載された、週刊朝日ももうなくなってしまう。だが、「街道をゆく」はこれからも読み続けられていくことだろうと思う。

2023年6月19日記

『流人道中記』(下)浅田次郎/中公文庫2023-06-17

2023年6月17日 當山日出夫

流人道中記(下)

浅田次郎.『流人道中記』(下)(中公文庫).中央公論新社.2023(中央公論新社.2020)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2023/02/207316.html

下巻である。

浅田次郎の作品、特にその時代小説において顕著なテーマとしては、武士、正義、ということがある。この作品においても、武士とは何かと問いかけるところがある。武士とはなんであるか、今までの多くの時代小説で描いてきたところだと思う。そのなかにあって、浅田次郎の作品は、かなり特異な視点から武士について問いかけていると思う。このあたり、浅田次郎の武士観というようなことで、誰か論じていることなのかもしれない。私が知らないだけで。もし、まだそのような論考がないならば、これは考えてみる価値のあるテーマである。

それから、これは浅田次郎の時代小説に限らず他の作品でも言えることだと思うが、母ということがある。浅田次郎にとって母とはなんであろうか。この小説では、そう強く出てきているということはないが、随所に母とはどのような存在であるかと、問いかけるところがある。これもまた、興味のあるテーマである。

武士とは何か、この世の正義とは何か、母とは何か……浅田次郎の作品が、多く読まれるのは、このあたりの描写が、読者の心の琴線に触れるところがあるからであろう。

2023年6月12日記

『流人道中記』(上)浅田次郎/中公文庫2023-06-16

2023年6月16日 當山日出夫

流人道中記(上)

浅田次郎.『流人道中記』(上)(中公文庫).中央公論新社.2023(中央公論新社.2020)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2023/02/207315.html

浅田次郎は、その作品の多くを読んで来ていると思う。私の見るところ、その代表作と言っていいのは、『きんぴか』であると思っている。最初期の作品だが、その後の浅田次郎のエッセンスがすべてつまっている。他には「プリンズンホテル」シリーズ、「天切り松」シリーズもいい。「蒼穹の昴」シリーズは、これは全部読んできている。

浅田次郎は、時代小説の書き手でもある。だが、ここに、時代考証というようなものを持ち込むのは野暮である。作者の設定した時代小説のなかで十分に楽しんで読めばよいと思っている。

それにしても、なぜ浅田次郎は、その時代小説において、幕末という時代設定を好むのであろうか。もうじき江戸時代が終わるというときを、ことさらに選んで時代設定にしているようである。

これは、「武士」というものの生き方を描こうとするからなのだろう。江戸時代、二〇〇年以上にわたって続いてきた武士の時代。その時代がまさに終わろうとするころ、まさしく武士としかいいようのない生き方をする人間が登場する。悲劇的でもあり、喜劇的でもある。

この小説の時代は、万延元年ということになっている。黒船もやってきている。しかし、登場する武士たちは、もうじき歴史の流れとして武士の時代が終わることを、まったく意識していない。いや、これからもずっと武士の時代がつづくことを信じている。そして、武士らしくあろうとしている。

この愚直さが、浅田次郎の時代小説の醍醐味と言っていいのだろうと思っている。

私は、浅田次郎の小説を特徴付けるのは、登場人物の愚直さと、作品全体にただよう幻想性にあると考える。この『流人道中記』においても、登場人物たちのなんと愚直なことかと思う。いくらなんでも、こんな人間がこの時代にいたはずはないと思ってしまう。だが、読み進めていくうちに、その愚直な登場人物に共感してしまうことになる。

エンタテイメントとしての時代小説の面白さ、そして、そこにあるある種のヒューマニズム。もう隠居、居職と思っている身の上としては、まさに楽しみの読書である。つづけて、下巻を読むことにしよう。

2023年6月9日記

「赤い靴を履いて」2023-06-12

2023年6月12日 當山日出夫

ETV特集 赤い靴を履いて〜作家 有吉佐和子の問いかけ〜

有吉佐和子の作品のいくつか読んだと憶えている。が、そう熱心な読者ではなかった。

『華岡青洲の妻』は読んだ。『紀ノ川』は、どうだったろうか。『複合汚染』は読んだが、特に強い印象があったということはない。『恍惚の人』は読んでいない。

有吉佐和子が、今、再び注目されているという。今の時代において、かつて有吉佐和子が書いたようなテーマで、果敢にいどんでいく作家が少なくなったということなのかもしれない。

放送(録画であるが)を見ていて、出てこなかったのが、『悪女について』。これは私は傑作だと思って読んだのを憶えている。現代に生きる女性というものを、多面的に捕らえている。このような小説は、女性ならではのものかもしれない。(まあ、このような感想をいだくというのも、ある意味では問題なのかなとも思うが。やはり、男性とか女生とか、そういうことを抜きにして文学作品は評価されるべきだろう。)

『悪女について』は、文体論としても面白い。一人の作家が、どれほど多くの文体を変えて書けるものなのか、私個人としては、計量文体論の課題として面白い作品ではないかとかねがね思っている。

『非色』は、話題になっている本であるということは知っているのだが、さて、今の私としては、これを今から読んでみようという気にはならないでいる。が、これも、若い人は読んでおくべき作品であると言うべきだろうか。

2023年6月9日記

『村上T』村上春樹/新潮文庫2023-06-04

2023年6月4日 當山日出夫

村上T

村上春樹.『村上T-僕の愛したTシャツたち-』(新潮文庫).新潮社.2023(マガジンハウス.2020)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100177/

私はTシャツを着ない。そうと決めているわけでもないし、特にそのようなポリシーがあるわけでもないのだが、何故か若いころから着ないままで今にいたっている。

何故だろうか。私が若いころ、Tシャツは、ある種のメッセージがあった。それがあまり好きになれなかったということもある。なるべく無色透明でいたいといえばいいだろうか。

さらに強いていえば、半袖のものは着ないことにしている。夏のよほど暑いときでないと着ない。いや、夏の暑いときこそ、半袖は着ない。今はさほどではなくなったが、夏の暑いとき、冷房が強くきいているところに行ったりするとき、調節のために、あえて長袖を着るようにしているということもある。これも、この頃では、電車に乗って冷房が効きすぎていると感じはあまりしなくなっている。社会全体の省エネの傾向の結果だろう。

この本は、村上春樹が、Tシャツにまつわる話題で書いたエッセイとインタビューを収めている。村上春樹には、Tシャツが似合うと思う。逆に言えば、あまりフォーマルな恰好は、イメージできないということもあるが。

読んで面白い。Tシャツに関係して、小説のこと、レコードのこと、旅のこと、ビールのこと、その他、いろんな話題に及んでいる。村上春樹のエッセイの世界である。

2023年6月3日記

『英語達人列伝Ⅱ』斎藤兆史/中公新書2023-03-27

2023年3月27日 當山日出夫

英語達人列伝Ⅱ

斎藤兆史.『英語達人列伝Ⅱ』(中公新書).中央公論新社.2023
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/02/102738.html

先に刊行の『英語達人列伝』は読んでいる。非常に面白く読んだのを覚えている。これは、その続編である。

取り上げてあるのは、

嘉納治五郎
夏目南方熊楠
杉本鉞子
勝俣銓吉郎
朱牟田夏雄
國弘正雄
山内久明

よく知っている名前もあれば、名前だけ知っているという人もあり、始めて目にする名前もある。が、読めば分かるが、どれも先の『英語達人列伝』と同様に、英語の達人ばかりである。それも、基本的には、日本で英語教育の基礎を学んだ人を集めてある。時代としては、明治から現代にまでおよぶことになる。

タイトルのとおり英語の達人の紹介、短い評伝なのだが、総じて、英語教育論になっている。昨今の口頭でのコミュニケーション重視の英語教育ではなく、読み書きを基本においた、オーソドックスな英語教育の方法に価値を再発見している。

この本を読んで、私なりに思うこととしては、次の二点。

第一には、英語教育について。

何のための英語教育なのか、分からなくなっているのが昨今の状況ではないだろうか。子供の小さい時から英語を学べばいいのか。それは何のためか。英会話が出来ればいいということなのか。あるいは、高度で専門的な英語による議論のためなのか。すべての子供、学生に課すものとしての英語教育はどうあるべきなのだろうか。

一部の、それを必要する学生に対する英語教育であるならば、それなりに目的がはっきりしているかもしれない。そうではなく、将来、英語を日常的に使う必要がさほどあるとは思えない、一般の多くの人びとが英語を学ぶことの必然性はいったいどこにあるのか。まあ、このようなことを言い出せば、学校教育そのものの必用性という議論になってしまうのであるが。

母語とは異なる言語に触れることの意味、これにつきるかもしれない。この意味では、学ぶ言語は、特に英語に限る必要はないかもしれない。中国語でも、朝鮮語でも、ロシア語でも、何語でもかまわなともいえる。

ただ、世界の趨勢として、英語の時代であることは確かなので、英語の実用的な優先順位は高くなるだろうとは思う。

第二に、古典ということ。

この本では、まったく触れていないことなのだが、この本で語られていることの多くは、古典をめぐる最近の議論にも通じるところがあると私は思う。実用性という観点からは、実務的な英会話と、古典教育は、相反することかもしれない。しかし、その教授法、勉強法、そして、真の意味での教養として身につけるべきものはなんであるのかという考え方からして、英語教育と古典教育には、通じるものがあると思う。

教育において何をどう教えることに意味があるのか、再度考えてみる必要を強く感じる。その一つの事例として、学校での英語教育ということで読むと、いろいろと考えところの多い本である。

以上の二点のようなことを思ってみる。

もうこの年になって、新たに外国語を学ぶという気力も無いようなものではあるが、しかし、日本語とは違った言語の世界があること、そして、それは学ぶに価するものであるということは、確認できる。

さらに思うこととしては、どのような人物を取り上げるかとなったとき、政治家、軍人が入っていてもよかったのではないかとも思う。近代の日本の英語ということを考えるとき、政治家、軍人といった人びとが、どのように英語教育をうけ、そして使ったのか興味あるところでもある。

2023年2月23日記

『私たちの想像力は資本主義を超えるか』大澤真幸/角川ソフィア文庫2023-03-17

2023年3月17日 當山日出夫

私たちの想像力は資本主義を超えるか

大澤真幸.『私たちの想像力は資本主義を超えるか』(角川ソフィア文庫).KADOKAWA.2023(KADOKAWA.2018.『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』改題)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322208000921/

早稲田大学文化構想学部で講義をまとめたもの。講義自体は二〇一六年度のものであるという。あつかってあるものとしては、『シン・ゴジラ』、『おそ松さん』、『デスノート』、『君の名は。』、『この世界の片隅に』など、近年のいわゆるサブカルチャーの作品である。これを読み解くことで、今の我々の社会のあり方のどのような面が見えてくるのか、これが主眼と言っていいのだろう。無論、同時に、あつかってある作品の、社会学的な分析をともなうものになっている。

この本は面白く読んだ。あつかってある作品は、たいてい、少なくとも名前は知っているものが多い。ただ、私の場合、ほとんど映画もテレビドラマも見ない、また、漫画も読まないので、名前だけ知っているというのがほとんどなのだが。(その中の例外は、『この世界の片隅に』である。これは、原作の漫画も読んだし、テレビではあるが映画版も見ている。また、テレビドラマ版も見た。)

この世界がどう見えてくるか……サブカルチャー作品だからこそ見えてくる世界がある、これには同意できる。だが、残念ながら、その分析対象になっているサブカルチャー作品にうといので、はたして妥当な分析になっているかどうか、今一つ隔靴掻痒の感じが残ってしまう。しかし、結論的に言うならば、おそらくここでの分析は妥当なものなのだろうと思う。

『シン・ゴジラ』に関連しては、たとえば『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)が出てくるあたりは、懐かしく思って読んだところでもある。ウルトラマン、すなわち、日本における米軍である、というあたりの評価はうなづけるところがある。

それから、『この世界の片隅に』の原作漫画を読んで、私が一番、ある種の違和感を感じたのは、太極旗の一コマである。昭和二〇年の終戦のときに登場している。ここのところに、主人公のすずの生きてきた世界が、朝鮮半島を植民地にもつ大日本帝国であったことが示される。しかし、この大澤真幸のこの本では、この点についての言及はない。

この本では「資本主義」と現代の我々の生きている社会、世界のことを言っている。そして、資本主義の行き詰まりをなにがしか意識して生きているのが、現代という時代である。とはいえ、「資本主義」の終わり、あるいは、その後の世界を想像することは難しい。

だが、これも、近年のサブカルチャーを分析することで見えてくるところがあるのかもしれない。ここのところは、この本の続編に期待することになる。

2023年1月31日記