世界をまるごと分かりたい2016-06-17

2016-06-17 當山日出夫

今回は、この本について書いてみたい。

戸田山和久.『科学哲学の冒険-サイエンスの目的と方法をさぐる-』(NHKブックス).日本放送出版協会.2005
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910222005.html

この本については、このブログでかなり以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2008年6月8日
科学について思うこと:『論文の教室』と『科学哲学の冒険』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/08/3568333

今回この本を読みなおしてみようと思った理由は、『歴史を哲学する』(野家啓一)の本を読んだからである。歴史的事実とは何か、あたりまえのこととして、事実を認定することはむずかしい。

やまもも書斎記 2016年5月23日
『歴史学ってなんだ?』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/23/8094500

さて、現在、この本をよみなおして感じることは、基本的に三つある。

第一には、すでに、2008年のときに述べたことの確認である。論文を書くときには、時事と意見を区別する必要がある。しかし、その事実とはなんであるか、確定的にいうことはむずかしい。これは、学生に作文を教えるなかで問題となる。(この点については、ここではもうくりかえさない。)

第二には、上にのべた点をうけてのことであるが、歴史哲学における事実の認定の問題である。『歴史を哲学する』(野家啓一)を読んで、歴史は物語である……という趣旨の主張に、私がさほど違和感をいだかずに読みすすめることができのは、おそらく、以前に、『科学哲学の冒険』(戸田山和久)を読んでいたせいだろう。

物質は原子からなる、このような自明とも思われるようなことであっても、それを事実として認定することは、科学哲学上の大問題である。科学的実在論を主張するのは、なかなか困難であることが、この本を読むと理解できる。

たぶん、高校生ぐらいまでの知識(歴史・科学について)で、自明の事実とされるものであっても、それを、歴史哲学・科学哲学の分野の課題として、確実にいいきることは、なかなか困難なことである。社会構成主義は、きわめて手強い。

この論点については、また、あらためて考えてみたい。

第三には、(これが今回、ここで特にいいたいことであるが)なぜ勉強するのか、その基本姿勢についてである。勉強するときの心構えととでもいおうか。これは、すでに書いた……『文学』(岩波書店)休刊について書いたこととも、関連する。

やまもも書斎記 2016年6月12日
『文学』休刊に思うこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/12/8109505

このとき、私は、現在にいたるまでの勉強する姿勢の変化とでもいうべきことについて書いておいた。『文学』を継続的に読むような勉強のスタイルが消えてなくなってしまったのであると。

これは、文学研究という文科系のこととして書いたのであったが、今回『科学哲学の冒険』を読んで、理系でもそのようなことがあるのかと、思った次第である。たぶん、この本の本来の趣旨からすれば脇道にはいって書いたとおもわれる、つぎのような箇所。

「(この本を書いた動機として)、もう半分は、若い人から「世界をまるごと分かりたい」という気持ちが失われてきているし、社会全体からもそういう活動に払う敬意がなくなってきているってこと。大学で教えていると、最近ものすごく痛感する。」(p.242)

「むしろ理系の学生に顕著な傾向だよね。教えていると、え、この世の仕組みをもっとよく分かりたいから科学を勉強しているんじゃないのって言いたくなることがけっこうあるよ。」(p.242)

「問題は、そうして入ってくる理数系学生の気持ち、というか知的動機づけの問題なんだよね。」(p.242)

今回、このような箇所に、ふかく同意するところがあった。やはり理系でもそうなのか、という思いである。しかも、この本が書かれたのは、今から10年以上もまえである(2005年の刊行)。

「世界をまるごとわかる」……だいそれた望みかもしれない。しかし、若い時に勉強する動機というか、原動力としては、このような感覚は大事である。

私の若いころ、学生のころのことをいえば、哲学を勉強していたということではなかったが(所属していたのは文学部の国文科)、文学作品、哲学書などを読むときの感覚として、いま自分が読んでいるこの小さな本をとおして、その向こう側に、この世の世界のすべてがひろがっている、そこに通じている道にいま、自分はたっている……このような感覚をもっていた。そのように、自分の若いころのことを思い出す。

もちろん、学生のころに、そんなこと(世界をまるごとわかる)が可能であろうはずはない。しかし、どのような基本姿勢が根底にあって勉強にのぞんでいるか、本を読んでいるか……年をとってふりかえってみると、このような姿勢の価値とでもいうべきものがわかってくる。

たとえば、文学研究でいえば……一首の歌について、その三十一文字のなかに、世界が凝縮された宇宙がある、というような感覚である。

ところで、そういえば、かつては理系の分野では、『科学朝日』という雑誌があった。この雑誌も、かなり以前に休刊になってしまっている。世の中全体の理系離れなどということがいわれたような記憶があるが、実は、問題の根底には深いものがあったのだなと、いまさら考えてみたりしている。

科学であろうが、歴史であろうが、文学であろうが……何を勉強しているにせよ、世界をまるごとわかりたい、この一冊の書物のなかに世の中の真実のすべてがつまっている……このような感覚が、特に若いひとたちのなかから消えていってしまっていといってよいであろうか。このような状況のなかでは、もはや『文学』(岩波書店)が生きのびるのは、むずかしいことであるといわざるをえない。

そして、このようなことが、現在いわれている人文学の危機的状況の根底にある問題なのだと、私は思う。さらにいわせてもらえれば、私とて、まだ、世界をまるごとわかりたい、という気持ちを捨て去ったわけではない。まだ、こころの奥底になにがしかは残っていると感じる。埋み火のように。若いころのようにはいかないかもしれないが。

コメント

_ 土屋信一 ― 2018-06-18 10時21分45秒

私は當山さんのように、思慮深くなく、物事を深く考えるタイプでもありませんが、若い人<四十代、五十代、ひょっとしたら六十代の方々も、物事を深く考えていないんじゃないかと、感じることがあります。これが日本語学界等、学会発表を聞いていて感じるのですから、困ったものです。何が起きているんでしょうか?

_ 當山日出夫 ― 2018-06-19 09時29分18秒

最近の日本語研究でも、日本語をまるごと、さらには、言語というものをまるごと分かろう、という研究が無くなってきたようにも感じますね。ふと思って『国語学原論』(時枝誠記)など読んだりしているのですが、この本ぐらいまでは、多少無理をしてでも日本語を全部分かろうという気概のようなものを感じます。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/17/8113547/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。