「“同じで違う”傷を、共に生きて〜震災から12年 夫婦の日々〜」 ― 2023-10-21
2023年10月21日 當山日出夫
ETV特集 “同じで違う”傷を、共に生きて〜震災から12年 夫婦の日々〜
正直に言うと、この夫婦はどちらともちょっとおかしいと感じる。だが、その一方で、夫婦とはこんなものかと思うところもある。
これまで、東日本大震災のことは、いろんな番組でとりあげられている。(たまたま、その日、私は家にいたので、ずっとテレビを見ていた。津波の被害のリアルな映像を見ていたのを憶えている。これも、今では、テレビで津波の場面は放送しなくなっている。)
感じることの一つとしては、死というものを受け入れるには、何か形式が必要なのだろうということである。洞場を作るのも、観音像を立てるのも、何かの形式を求めてのことかと思う。あるいは、位牌を祀るということも、含めて考えていいかもしれない。
しかし、そのようにしてもなお、息子たちの死を容易には受け入れがたいまま、一二年が過ぎてきていると言っていいのだろうか。震災の問題でもあるが、人々の死生観の問題でもある。
このようにして生活している夫婦を見つけてきて、その生活の内部にまで入りこんで取材しているということは、驚くべきことかもしれない。あるいは、実際には、このような夫婦の事例は、そう例外的なものではなく、他に多くの人びとが震災の後の気持ちの整理がつかないままで生きているのかとも思う。
気持ちを整理して、死者を死者として弔うということの重要性は分かる。だが、その一方で、自分の気持ちを決められないままで、不安定な状態のままで生き続けることも、あり得ることではある。
震災関連の番組というよりは、私にとって、人間の死生観について考えることになる内容のものであった。
2023年10月20日記
ETV特集 “同じで違う”傷を、共に生きて〜震災から12年 夫婦の日々〜
正直に言うと、この夫婦はどちらともちょっとおかしいと感じる。だが、その一方で、夫婦とはこんなものかと思うところもある。
これまで、東日本大震災のことは、いろんな番組でとりあげられている。(たまたま、その日、私は家にいたので、ずっとテレビを見ていた。津波の被害のリアルな映像を見ていたのを憶えている。これも、今では、テレビで津波の場面は放送しなくなっている。)
感じることの一つとしては、死というものを受け入れるには、何か形式が必要なのだろうということである。洞場を作るのも、観音像を立てるのも、何かの形式を求めてのことかと思う。あるいは、位牌を祀るということも、含めて考えていいかもしれない。
しかし、そのようにしてもなお、息子たちの死を容易には受け入れがたいまま、一二年が過ぎてきていると言っていいのだろうか。震災の問題でもあるが、人々の死生観の問題でもある。
このようにして生活している夫婦を見つけてきて、その生活の内部にまで入りこんで取材しているということは、驚くべきことかもしれない。あるいは、実際には、このような夫婦の事例は、そう例外的なものではなく、他に多くの人びとが震災の後の気持ちの整理がつかないままで生きているのかとも思う。
気持ちを整理して、死者を死者として弔うということの重要性は分かる。だが、その一方で、自分の気持ちを決められないままで、不安定な状態のままで生き続けることも、あり得ることではある。
震災関連の番組というよりは、私にとって、人間の死生観について考えることになる内容のものであった。
2023年10月20日記
こころの時代「無宗教からの扉(1)「無宗教」から開く「大きな物語」」 ― 2023-10-21
2023年10月21日 當山日出夫
こころの時代 無宗教からの扉(1)「無宗教」から開く「大きな物語」
昨年の四月に放送の再放送である。
今であれば、昨年七月に起きた安倍晋三銃撃事件をきっかけに問題となった統一教会のことに触れざるをえないだろう。なぜ、その教えに引きつけられる人びとがいたのか、問いかける必要がある。この事件の前の放送であるということを、どこか意識して見ることになった。
『歎異抄』は、今でも読まれている。新聞の書籍の広告は毎日目を通すことにしているのだが、おそらく『歎異抄』は、月に一度は登場すると言っていいだろう。新聞の書籍の広告費は、決して安いものではない。それが、大量に広告が出ているということからして、よほど売れている本、あるいは、作品、文献なのだなということを、常々感じている。
また、私の認識では、『歎異抄』が広く読まれるようになったのは近代になってからであると、思っている。近代以降の『歎異抄』理解の歴史と、唯円が書き記したことと、親鸞が説いた教え、これは区別して考えるべきというのが、歴史的に見るときのことになるはずである。少なくとも、『歎異抄』イコール親鸞、ということではないと思っておくべきだろう。(だが、世の中の一般の理解では、『歎異抄』には親鸞の教えが書いてある、ということになっている。番組も基本的にこのような方針で作ってある。)
「大きな物語」が必要であるという。これは確かにそのとおりなのだが、日本の伝統的に伝わってきた民俗的な宗教感覚は、「大きな物語」にはなり得ないのだろうか、ということが気になったことである。日本の古来の民俗な宗教感覚が基底にあって、創唱宗教も存在してきている、という理解ではいけないだろうか。
2023年10月16日記
こころの時代 無宗教からの扉(1)「無宗教」から開く「大きな物語」
昨年の四月に放送の再放送である。
今であれば、昨年七月に起きた安倍晋三銃撃事件をきっかけに問題となった統一教会のことに触れざるをえないだろう。なぜ、その教えに引きつけられる人びとがいたのか、問いかける必要がある。この事件の前の放送であるということを、どこか意識して見ることになった。
『歎異抄』は、今でも読まれている。新聞の書籍の広告は毎日目を通すことにしているのだが、おそらく『歎異抄』は、月に一度は登場すると言っていいだろう。新聞の書籍の広告費は、決して安いものではない。それが、大量に広告が出ているということからして、よほど売れている本、あるいは、作品、文献なのだなということを、常々感じている。
また、私の認識では、『歎異抄』が広く読まれるようになったのは近代になってからであると、思っている。近代以降の『歎異抄』理解の歴史と、唯円が書き記したことと、親鸞が説いた教え、これは区別して考えるべきというのが、歴史的に見るときのことになるはずである。少なくとも、『歎異抄』イコール親鸞、ということではないと思っておくべきだろう。(だが、世の中の一般の理解では、『歎異抄』には親鸞の教えが書いてある、ということになっている。番組も基本的にこのような方針で作ってある。)
「大きな物語」が必要であるという。これは確かにそのとおりなのだが、日本の伝統的に伝わってきた民俗的な宗教感覚は、「大きな物語」にはなり得ないのだろうか、ということが気になったことである。日本の古来の民俗な宗教感覚が基底にあって、創唱宗教も存在してきている、という理解ではいけないだろうか。
2023年10月16日記
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