北原白秋「空に真赤な雲のいろ」 ― 2016-11-20
2016-11-20 當山日出夫
川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21105-8/
この本の読後感は、読み終わってから後で別に書きたいが、とりあえず、北原白秋のことについていささか。
私が北原白秋を読んだのは、いつのころだったろうか……たぶん、高校生のころのことであった。岩波文庫の、
『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』
あたりを手にしてのことだったかと思う。そのころは、中央公論の「日本の詩歌」のシリーズもあったころだが、これまで読んだかどうかは、記憶が定かではない。その後、このシリーズは、中公文庫になったりもしているが、買ってはいない。やはり、私の場合、岩波文庫版での白秋ということになる。
これは、今でも持っているはずである。すぐに出てこない、どこにしまったか分からなくなってしまってはいるけれど。とにかく、私は、本をなにがしか処分することはあっても、詩集の類だけは、絶対に手放さなかった。
詩集ほど、物理的なその本のてざわり、感触、活字の印象、などが残るものはないと思っている。萩原朔太郎なども、高校生のころに読んだ文庫本がどこかにまだ残っているはずである。
小説の類は、他の文庫になっても、あるいは、全集にはいっても、さほど違和感なく読むことができる。最近では、キンドルで読むこともある。漱石の作品など、キンドルで読めるものは、買って入れてある。しかし、詩をキンドルで読もうという気にはなれない。
この意味では、テキスト論として、興味深い考察の対象になるにちがいないと思ってはいるのだが、まだ、そこまで、私の考えはおよんでいない。また、このような感覚は、私だけのものかもしれないとも思ったりもするし。
空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
記憶で書いているので、表記や語句がまちがっているかもしれない。出典もわすれた。だが、いまでも、高校生のころにおぼえた、この詩が、ふと思い浮かぶことがある。(と、ここまで書いて、後から出典と表記を確認してみた。「日本の詩歌」の『北原白秋』、中公文庫版、1974年、によると『邪宗門』である。古本で買った。詩のタイトルは「空に真赤な」。)
このごろの若い人は、詩を読むということをしないのだろうか。
そういえば、中央公論の「日本の詩歌」も絶版になったままである。岩波文庫の『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』も、今は無いようだ。北原白秋はもう古いのか。たぶん、今の若い世代には、古色蒼然とうつるか、あるいは、難解で珍奇なことばの羅列と見えるか。
とはいえ、このとしになって思うことは、詩にこころひかれるということがあるならば、それは、わかいときの特権のようなものである、という感慨である。もう私のとし(還暦をすぎた)になってくると、初期の北原白秋の作品……『邪宗門』など……を読んで、そのことばの魔力とでもいうようなものに魅了されるということはない。
いや、これでも、なにがしか理解はできるつもりである。だが、もはや、初々しい感動、こころのふるえのようなものは消えている。としをとったものだと思う。
白秋の晩年の短歌など、読んでみたくなっている。そんなことを思うこのごろである。
川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21105-8/
この本の読後感は、読み終わってから後で別に書きたいが、とりあえず、北原白秋のことについていささか。
私が北原白秋を読んだのは、いつのころだったろうか……たぶん、高校生のころのことであった。岩波文庫の、
『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』
あたりを手にしてのことだったかと思う。そのころは、中央公論の「日本の詩歌」のシリーズもあったころだが、これまで読んだかどうかは、記憶が定かではない。その後、このシリーズは、中公文庫になったりもしているが、買ってはいない。やはり、私の場合、岩波文庫版での白秋ということになる。
これは、今でも持っているはずである。すぐに出てこない、どこにしまったか分からなくなってしまってはいるけれど。とにかく、私は、本をなにがしか処分することはあっても、詩集の類だけは、絶対に手放さなかった。
詩集ほど、物理的なその本のてざわり、感触、活字の印象、などが残るものはないと思っている。萩原朔太郎なども、高校生のころに読んだ文庫本がどこかにまだ残っているはずである。
小説の類は、他の文庫になっても、あるいは、全集にはいっても、さほど違和感なく読むことができる。最近では、キンドルで読むこともある。漱石の作品など、キンドルで読めるものは、買って入れてある。しかし、詩をキンドルで読もうという気にはなれない。
この意味では、テキスト論として、興味深い考察の対象になるにちがいないと思ってはいるのだが、まだ、そこまで、私の考えはおよんでいない。また、このような感覚は、私だけのものかもしれないとも思ったりもするし。
空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
記憶で書いているので、表記や語句がまちがっているかもしれない。出典もわすれた。だが、いまでも、高校生のころにおぼえた、この詩が、ふと思い浮かぶことがある。(と、ここまで書いて、後から出典と表記を確認してみた。「日本の詩歌」の『北原白秋』、中公文庫版、1974年、によると『邪宗門』である。古本で買った。詩のタイトルは「空に真赤な」。)
このごろの若い人は、詩を読むということをしないのだろうか。
そういえば、中央公論の「日本の詩歌」も絶版になったままである。岩波文庫の『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』も、今は無いようだ。北原白秋はもう古いのか。たぶん、今の若い世代には、古色蒼然とうつるか、あるいは、難解で珍奇なことばの羅列と見えるか。
とはいえ、このとしになって思うことは、詩にこころひかれるということがあるならば、それは、わかいときの特権のようなものである、という感慨である。もう私のとし(還暦をすぎた)になってくると、初期の北原白秋の作品……『邪宗門』など……を読んで、そのことばの魔力とでもいうようなものに魅了されるということはない。
いや、これでも、なにがしか理解はできるつもりである。だが、もはや、初々しい感動、こころのふるえのようなものは消えている。としをとったものだと思う。
白秋の晩年の短歌など、読んでみたくなっている。そんなことを思うこのごろである。
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