『光る君へ』「いけにえの姫」2024-07-01

2024年7月1日 當山日出夫

『光る君へ』「いけにえの姫」

まひろが宣孝と不仲になって、下女(といっていいのかな)のいとが、夫に逃げ道を作ってあげなければならなりません、理詰めで正しさだけを主張してはならないのです、夫婦とはそういうものなのです、いとおしいとはそういうことなのです……という意味のことを言っていた。このときのまひろの表情は、『源氏物語』における紫上を彷彿とさせるものだった。その後、まひろが石山寺に参詣するというストーリーのはこびは、まさに『源氏物語』の作者である紫式部の誕生ということにつながるのだろう。無論、この場合、光源氏のモデルになるのは、藤原道長である。

宣孝に火鉢の灰をなげつける場面、これは、『源氏物語』で髭黒大将の北の方のエピソードである。(面倒なので、『源氏物語』のどの巻か確認することはしないでいるのだが。玉鬘系統の話しの中に出てくる。)

大河ドラマで「多淫」ということばが出てきたのは初めてかもしれない。

陰陽師の安倍晴明が、実は道長の摂関政治の黒幕であった……というのは、面白い。このドラマ、安倍晴明が出てくると面白くなる。

一条天皇が中宮定子にほれこんで政をおろそかにする、これは、『源氏物語』の「桐壺」における桐壺の更衣とのことを踏まえているのだろうし、もとをたどれば、白楽天の「長恨歌」における玄宗皇帝と楊貴妃の話になる。唐では、安史の乱がおこることになるが、日本ではそうはならない。地震、洪水、ということであった。

このドラマの最初の方から出てきている藤原公任たち男性貴族仲間があつまる場面でも、みんな出世したせいか、この回は料理が豪勢になっていた。

清少納言は「唐(から)の国」と言っていた。「宋」ではなかった。まひろは「宋」と言っていた。その当時の中国の王朝と、歴史的文化的な中国を区別していることになる。このような場合、以前では「支那」ということばがあったのだが、最近は使わなくなった(あるいは、使えなくなった)。今の共産党政権の中国と、歴史的にみた中国とは区別したいときがある。

冒頭のところで、まひろが宣孝から贈られた鏡に自分の顔を映して見るシーンがあった。考えてみれば、おそらく近代になって生活のなかにガラス製の鏡が普及するまで、人間は、自分の顔がどんなであるか自分の目で見ることなくすごしてきたことになる。鏡と顔の社会史、というような研究があるのかとも思うが、もう隠居した身としては、もうこれ以上のことを調べてみようという気にならないでいる。

彰子は裳着の儀式をすませ、入内することになった。これで、紫式部の誕生の素地ができたことになる。まひろは、物語の着想をどのようにして得ることになるのだろうか。そこに石山寺のシーンの意味があるのだろう。

次週は、東京都知事選のためお休みである。買っておいたままになっている、紫式部関係の本を整理して、読んでみようか。

2024年6月30日記

「命の離島へ 母たちの果てなき戦い」2024-07-02

2024年7月2日 當山日出夫

新プロジェクトX 命の離島へ 母たちの果てなき戦い

沖縄の公衆衛生看護婦の話し。

本筋とは関係ないことなのだが、昭和二〇年の沖縄戦の記録映像からはじまっていた。これはアメリカ側が撮影したものである。カラー映像である。最近、昔の白黒影像をカラー化することがよく行われる。私は、これにはあまり賛成できない。もとの影像が、カラーフィルムを使っていることそれ自体が、貴重な資料的意味をもつと考えるからである。この当時、日本側が撮影したものでカラーはないはずである。(あるいは、あるのかもしれないが、見たことはない。)

その目の前に人間がいることがわかっていながら、火炎放射器の炎を向けるということが、やはり何度見ても、戦争というものの残酷さを象徴しているように感じる。

沖縄が戦後、一九七二年の返還まで、どのような法的制度のもとにあったのか、これが実はよく知られていないことかもしれない。たぶん、専門家にとってはよく分かっていることなのかとも思うが、一般的な書物やテレビ報道などでは、あまり解説されることがない。アメリカ軍の横暴と住民の悲惨な生活ということは、大きく語られるのであるが。

医師が不足している。離島が多い。そのような状況下にあって、公衆衛生看護婦の駐在ということは、理にかなった方策であったにちがいない。では、なぜ、沖縄復帰のときに、日本政府は、これをそのまま継承しようとしなかったのか、その理由を知りたい。結果的には、制度が残ることになったのではあるが。

家に結核患者がいる場合、医療関係者を家に入れようとしない。その当時の価値観としては、そうだったのだろうと思ってみることになる。別の角度から見るならば、沖縄の古くからの人びとの因習的な生活ということになる。

結果的には、ストレプトマイシンの普及によって、治る病気ということで、患者数が減っていくことになる。これは、日本本土においても、似たようなものだったかと思うのだが、結核治療の戦後史というのは実際どうだったのだろうか。

印象に残るのは、看護婦だった女性の子どもで、ポリオの影響で体が不自由にもかかわらず、アメリカに渡り医者になったという話し。どういう人生だったか想像すらできないのだが、こういう人もいるのか、と感じるところがあった。

この番組でこころに残ることは、人間は利他的に生きうるものである、ということかと思う。人のためにつくす仕事があり、それに人生をささげる。今の時代の価値観にはそぐわない考え方かもしれないが、このように生きた人たちがいたということは、記憶にとどめられるべきだと思う。年収いくらかせぐのが人生の成功である、というような言説がひろまっている時代にあって、数十年前の沖縄の看護婦の女性たちの生き方をふり返ってみるべきである。

2024年7月1日記

ドキュメント72時間「日本海 フェリーで旅する人生行路」2024-07-03

2024年7月3日 當山日出夫

ドキュメント72時間 日本海 フェリーで旅する人生行路

フェリーで夜の間に航行して、翌朝に目的地に着くというのは、若いときに一度だけ経験しただろうか。もう昔のことで、忘れてしまっている。

新潟から小樽まで行くなら、飛行機もあるかもしれないが、フェリーで寝ている間に到着するというのが、合理的な選択かなと思う。

いろんな人が乗っているものである。

トラベルナースとして、旅行しながら、同時に仕事しながらというのは、このような仕事のスタイルもあるのかなと思う。たぶん、若いからこその考え方なのかもしれないが。

北海道は、バイクで走りたくなるものらしい。そういえば、以前は、多くの若者がバイクで北海道を旅行していたのだが、このごろはどうなっているのだろうと思う。

何より興味深かったのは、牛を専門に輸送するトラックドライバー。たしかに言われてみれば、生きた牛をそのまま輸送するには、専門の車両と設備が必要である。そして、その専門のドライバーたちが、フェリーのなかで談笑し、時には、協力しあっているのは、そういう人たちの仕事の世界があるのだなと感じる。

旅は、旅をする時間を楽しむものである……という意味では、まさにフェリーで旅行するというのは、今の日本において、手軽にできる贅沢なのかとも思う。

日本海に沈む夕陽を船から眺めるのは、とても素敵な体験になるにちがいない。

2024年7月2日記

「#壁を撮る人」2024-07-04

2024年7月4日 當山日出夫

ドキュメント20min. 「#壁を撮る人」

まず、見ていて、写真としてとてもいい。ただ、壁が映っているだけなのだが、そこからいろんな想像がわいてくる。あるいは、ただ、それがそこにあることを見ていられる。

なるほど、こういう写真の撮り方もあるのか、と考えるところがある。

そして、この番組自体が、見ながら考える余裕を持たせて作ってある。このごろ、こういう作り方の番組が少なくなってきたかもしれない。頻繁に影像を切り替えて、扇情的なナレーションを入れて、見ているものに考える時間を与えない、そのような作り方の番組が目立つようになってきた。

あえて、時間に余裕を持たせるように編集して作ってあることになる。これはこれで一つの考え方である。

壁の写真なのだが、そこから街やそこに住む人、生活の歴史のようなものが見えてくる。このような写真があり、それが発表できる場所としてSNSがあるということである。

見ていると、そう高額な機材を使っているというのではない。やはり、写真は、それを撮る人の感覚である。

2024年7月2日記

「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語」2024-07-04

2024年7月4日 當山日出夫

100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語

今から半世紀ほど前、三田の学生のとき、宮家準先生の講義で文化人類学の話しを聞いたことを思い出す。考えてみれば、宗教社会学という分野の専門家であった宮家先生なら、この本のことを知っていて授業の内容に取り込んでいたのかもしれないと思ったりもする。

集団の無意識ということは、民俗学のことばでいいかえるならば、心意伝承ということができるかもしれない。

学生の時、民俗学の本を読むことがあったが……というよりも、折口信夫の本ということになるのだが……日本神話については、あまり関心を持たないできている。無論、『古事記』も『日本書紀』も読んだ。『古事記』は、全文(漢字だけの本文)をパソコンに入力してみたこともある。

私の古代文学への関心は、記紀の神話よりも、むしろ『万葉集』の方にあった。また、神話よりも、中世の説話や御伽草子の類に興味があったことになる。

今から思い返してみれば、神話という場合には、その基底に神々、あるいは、唯一の神への、信仰がなければならない。古代の人びととにも信仰があったことは確かだろうが、それを、古代ギリシャの信仰と同じように考えていいのか、よくわからなかったということがあった。まあ、このあたりのことは今でもまったく分からないといえばそれまでである。

日本の古代の人びとの信仰について、考えるとき、書物として整備され編纂された『古事記』『日本書紀』が、どの程度信用できるものなのか。それは、現代の科学で明らかになりつつある、日本人の起源にかかわる研究とどう関係するのか、気になるところではある。

このようなことを思ってはいるのだが、今日の視点から、比較神話学というような学問分野で、どう考えることができるのか、ということは興味がある。

ところで、神話の話しのなかで、ブッダのことが出てきたのは、ちょっと意外な感じがするというのも、正直な感想である。仏伝は、たしかに伝承であり、かなりの創作が加わっているものには違いないと思うが、それを一般的な神話伝承の物語のパターンで理解しようとするのは、なにか抵抗を感じるところがある。いや、それよりも、その物語を受け取る人間の側に、どのようなパターンなら受容しやすいかということがあるのだろう。この意味では、仏教だけではなく、他の宗教についても、同じように考えることになるのかとも思う。

2024年7月3日記

「ワイマール ヒトラーを生んだ自由の国」2024-07-05

2024年7月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ワイマール ヒトラーを生んだ自由の国

これまで「映像の世紀」では、ヒトラーのことは何度もとりあげてきているが、ワイマール共和国について、特別にあつかったのは始めてになるはずである。見て思うことは、いろいろあるが、結局、ワイマール共和国が失敗だったのか、ヒトラーが狡猾だったのか、というあたりの議論になるだろうか。民主主義だから大丈夫、あるいは、緊急事態条項があると危険である、というのは短絡的な見方である。

おそらく問題は、急激な社会や経済の変化において、国民国家としてのドイツのアイデンティティーが喪失の危機にあったことであると思える。国民国家というのは、もうちょっと時間をかけて、人びとの歴史と文化についての意識を尊重しながら、構築されていくべきものである。少なくとも、この番組を見て思うことはこのようなことである。

ただ、「アイデンティティー」と番組のなかで使っていたが、この用語は、戦後になってから、ちょうど私が学生のころから、ひろく使われるようになった。日本ではそうである。ワイマール共和国の時代の人びとに、この概念があったかどうか、ここはちょっと気になったことなのだが、どうなのだろうか。

レニ・リーフェンシュタールは、『民族の祭典』で憶えている。ダンサー出身で、女優になり、映画をつくり、ナチスに接近する。そのダンサーとしての影像、山岳映画のシーン、それから、最晩年の姿……まだ生きていたのかと驚いたが……、どれも貴重なものである。リーフェンシュタールは、ナチスに賛同したのではないと語っていたが、見方によれば、ナチスに利用されたということもできよう。その評価は難しいと思う。だが、番組のなかで使われていた映像は、見事なものであったことは確かである。

LGBTQの人びとのあり方は、やはりそのおかれた地域、時代、文化、宗教、などなど……様々な価値観のなかで考えるべきことのように思う。基本的な方向として、その人権と自由は尊重されるべきなのだが、性が社会の価値観のなかでどうであるかは、これからの社会において、かなり難しい問題として残されている。(性的指向が自分では選べないものなのか、あるいは、自分の自由意志で選択できるものなのか。そもそも人間の自由意志とは何であるのか。このような問題は、そう簡単に解決できるとは思えないのである。)

ゲッベルスについても、いろいろ語るべきことはあるのだろうが、ラジオを聞く人びとによって構成される共同体……「想像の共同体」ということになるのだろうが……を強く意識したことは、確かだっただろう。それは、この時代において、どの国にでもあてはまることである。1対Nの情報伝達であったものが、N対Nになっていく、現代のSNSの時代において、どうなっていくのか、これはまさに今の時代、その変化のさだなかにいることになる。(コミュニケーションが、N対Nになっていくということは、今から数十年前、パソコン通信の黎明期に語られた言説である。)

この番組を見て思うことを一言でいえば、結局、人間とはどういうものなのか、なかんずく近代市民社会における大衆とはどういうものなのか、ということへの深い洞察が基本になければならないということになる。ありきたりの感想になるのだが、こう思うのである。

2024年7月3日記

ウチのどうぶつえん「北海道 ヒグマとヒトと。」2024-07-05

2024年7月5日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん 北海道 ヒグマとヒトと。

クマ牧場のことは、「ザ・バックヤード」であつかってもよかったかもしれない。

これまでNHKで、いくつかヒグマ関係の番組を作ってきている。そのいくつかは見た。近年では、OSO18関係のものが印象に残っている。

「ウチのどうぶつえん」は、NHKの動物番組のなかで最も気に入っているものである。特にコストをかけるということではないし(予算がないのだろうと思うが)、動物園という視点から、人間と動物のかかわりをうまくとらえている。

登別のクマ牧場は、むか~し、若いころに北海道を旅行したとき行ったかと憶えている。そのとき、おやつをねだって手をあげる仕草が可愛かったものである。

今のクマ牧場は、昔と違っていろいろと工夫している。飼育の方法や、食事の種類や与え方など、考えるようになってきている。面白かったのは、繁殖期に、異性のクマの毛を与えていること。匂いだけかがせて実物のヒグマと接しないのは、なんだかかわいそうな気もするのだが、それでヒグマの気持ちが落ち着いているようなら、それでいいのかと思う。

与えているエサは、基本的に草食のようである。ヒグマは、もともと肉食であった。少なくとも雑食で肉も食べるようにできているはずだが、草食の食事で満足しているようである。こういうのは、生まれたときからの習慣によるものが大きいと思う。(ちなみに、我が家で以前飼っていた猫は、生ものは絶対に食べなかった。キャットフードにまぜてある魚もきれいに残して食べていた。これは、子猫だったときに与えていたエサによるものだと思う。そのくせ、人間がものを食べていると、なんでも一口だけほしがった。ラーメンでも、二センチぐらいあげると満足していた。)

野生では単独行動をとっているヒグマだが、クマ牧場ではボスが存在するというのも、面白い。

ヒグマと人間との共存は難しいものがある。これから、北海道も人口が減少する傾向のなかで、将来的にどのような対策が有効なのか、考えるべきなのかと思う。番組では、市街地周辺の草刈りなどが紹介されていたが、これも将来的には誰がになうことになるのか、課題かもしれない。

ヒグマ対策のゴミ箱の実験に、クマ牧場が協力していたことは、とても面白い。そして、ヒグマがとても賢い動物であることがよく分かる。

番組では言っていなかったが、エゾシカとかについては、今はどうなっているのだろう。北海道全体を視野にいれた生態系のなかで考えなければならない問題かとも思う。

2024年7月2日記

「法医学者たちの告白」2024-07-06

2024年7月6日 當山日出夫

NHKスペシャル 法医学者たちの告白

法医学という分野のことが、テレビで大きくとりあげられること自体がとても珍しい。いろいろと面白かった。

思うことは多くあるのだが、一番驚いたことは、ルミノール反応のこと。血液がそこに存在したことの検証にルミノール反応が使われることは知っていたことである。このことは、ミステリ作品でもよく出てくる。

しかし、血液以外でも、山の中の落葉でも同様の反応が出ることは知らなかった。このこともあるのだが、実際に世の中のどのような場面や状況で、ルミノール反応があるのか、きちんとした実験データが無かった(らしい)。血液以外の何に反応するのか、その場合どのような結果が出るのか、実験データの蓄積がないところで、ルミノール反応があったので、そこが殺害現場です、とはとても言えないだろう。

さらに、血液に反応するとして、それが地面におちたものであるならば、血液はどのような土壌で、どのように中に染み込むのか、あるいは、雨が降ったりするとどうなるのか、実験データがなかった(らしい)。

本当に信用して大丈夫なのかと思ったというのが、正直なところである。

番組では栃木県の殺人事件のことがあつかわれていたのだが、どうなのだろうか、冤罪である可能性は否定できないだろう。法医学的に実証することが難しく、自白の信憑性にたよるというのは、かなり無理がある。

法医学において、科学的にこのようであると判断……その判断は、当然ながら幅があるものになるが……があるとして、それを、警察の捜査や裁判で利用するかは、どうやらかなり恣意的な部分があることになる。これは、科学的な考え方とはどういうものであるか、警察や司法において十分に理解されていないということなのかもしれない。

千葉大学の法医学研究室のことが出てきていたが、件数が多くてなかなか依頼された仕事がこなせないので、警察の方からは、もっと早くて安いところに依頼することになるかもしれないと話しがあったということなのだが、このような分野の仕事においても、コストカットが求められているというのが、今の日本の社会ということになる。しかし、犯罪を見逃すことになる、あるいは、冤罪を生むことにつながる、このようなコストカットは、将来的には社会の不安要因になる。警察や司法への信頼につながることである。

アメリカの事例が紹介されていた。参考になることは多くあると思うが、法医学が、警察や検察、また、弁護側から、独立したものであるということが重要だろう。それには、何よりも、法医学の科学的知見を社会のなかでどう利活用できるのか、という視点にたつ必要がある。

2024年7月5日記

ザ・バックヤード「JR東日本総合研修センター」2024-07-06

2024年7月6日 當山日出夫

ザ・バックヤード JR東日本総合研修センター

たぶん鉄道好きにはたまらない内容だったと思う。残念ながら、私は鉄道にはほとんど興味がない人間なので、そういうものなのかと思って見ていた。

こういう施設の紹介は、テレビで時々あるのだが、映らない部分が気になる。おそらく、テロ対策などの訓練とか設備や装備もあるにちがいないのだが、保安上の理由から、その内側を見せることはできないのだろう。

現場の運転士や車掌の実際の訓練は、これはこれですばらしいものがあると思う。ただ、列車の運行を管理、判断する人たちの考え方が重要であることは確かである。何年前になるか、JR西日本で雪のため列車がストップして混乱したことがあった。私の知るところでは、これは、現場のマニュアルの杓子定規な規定と、上層部の総合的な判断ミス、ということであったかと思う。

いくら現場がきちんとしていても、それを運用、管理するその上の部分の、全体的な判断ということも重要である。(昔の軍隊でいえば、兵隊さんは強かったけれども、指揮官が無能では困るのである。)

新幹線の高架橋のメンテナンスのために、裏側にぺったりとはりついて動きながら点検する機械、いったいどういう仕組みでああなっているのだろうか。ここのところが、もうちょっと説明がほしかったなと思う。

2024年7月5日記

『虎に翼』「女房百日 馬二十日?」2024-07-07

2024年7月7日 當山日出夫

『虎に翼』「女房百日 馬二十日?」

このドラマの面白さはそこそこであると思っているのだが、X(Twitter )での反応を見ていると、曲解(としかいいようがないが)してまで、ドラマを礼讃する人びとがいることが、興味深い。ある意味では、現代の日本を映し出すことになっている。この意味でとても面白いドラマになっている。

「造反有理」ということばが昔あったのを思い出した。主張することが正しければ、どんな手段で主張してもゆるされる……昔のことかと思っていたのだが、今の時代にこのことを考えることになろうとは思わなかった。

この週も見ていていろいろと思うことがある。思いつくままに書いてみる。

穂高先生は言っていた。私は古い人間だ、と。そして、寅子に対して、寅子の新しい考え方もいずれ古くなるときがくる、と。このドラマの基本的な考え方として、新しいことは正しいこと、と思っていることになる。はたしてそうなのだろうか。価値観の多様性といいながら、古くからの考え方を大切にしようという発想(これは保守ということになるが)は切り捨てられている。新しいが故に正しいとするのは、進歩主義である。

それよりも、戦後になって、戦前戦中までの価値観が大きく変わったなかで、人びとが何を思い感じてきたのかということが重要だと思うのだが、このあたりのことがほとんど描かれない。東京裁判のことも、女性の参政権のことも、出てきていなかった。このドラマでも、以前なら、ラジオのニュースとか、新聞などの記事で、そのような世相を描くことがあったのだが、まったくなくなっている。どうしてなのだろう。

女性の社会進出ということを描くのであれば、婦人代議士の誕生は画期的なことであったにちがいない。また、日中戦争、太平洋戦争における日本の悪行については、東京裁判の過程で国民に知られるようになったことでもある。市井の一市民が主人公ならいいかもしれないが、日本最初の女性弁護士で裁判官という人間を主人公としたドラマでは、不可欠だと私は思うのだが。

かつて、『おしん』では戦後の価値観の転換が非常におおきなテーマであった。それはおしんの夫の竜三として描かれていた。『おしん』が作られた時代には、戦後の価値観の転換は歴史として避けてとおることのできないものであった。(竜三のことには納得がいかないかもしれないが。)それを思ってみると、現代の『虎に翼』では、もうこのようなことは描く価値のないことになってしまったのだろうか。あるいは、強いて描くことではない当たり前のことということなのだろうか。さて、どっちだろう。(橋田壽賀子と吉田恵里香の違いといえばそれまでなのだが。)

(以前にも書いたことなのだが)戦前までは、「家」というものが生活の中心にあった。それは、人びとを抑圧するものでもあった。その反省から、戦後になって「家庭」というものが重視されるようになった。両性の合意のもとに結婚した夫婦とその子供を基本とするという考え方である。それが、現在では、その「家庭」も個人を束縛するものとして忌避されるようになってきている。子ども家庭庁が出来るときに、「家庭」の文字が入ることに強行に反対した人たちがいたことは記憶に新しい。

寅子のこの時代であれば、「家庭」というものが、社会の基本であると多くの人びとが意識しはじめていたころとなるだろう。「家」を引きずっている人はいたかもしれないが、「家庭」を否定する人はまだ出てきていないだろうと思う。寅子が、改稿作業を手伝った、星最高裁長官の著書の序文にも「家族」と使っていた。このことに、寅子は疑問をいだいた様子はなかった。

このドラマで、「家庭」とはどのようなものとして描かれることになるのだろうか。

尊属殺についての穂高先生の判断のなかで、法律と道徳は違うといっていた。これはたしかにそのとおりである。ここでこの考え方をドラマのなかで提示したことの意味はいったい何だろうか。家庭裁判所の案件の多くは、法律で形式的に裁くことのできない人間のこころの問題にふれることではないだろうかと思う。いいかえるならば、人間の道徳観にうったえること、倫理観のふれること、そして当事者が納得すること、が必要になるかもしれない。だからこそ、多岐川のいう「愛の裁判所」ということになると思っているのだが、どうだろうか。夫婦の間の感情とか、親子の気持ちとか、子どもが孤独感から非行におよぶこととか、これらは、法律の規定だけではどうしようもないことである。

だが、寅子の言動には、愛が感じられないというのが、ドラマを見ていて感じることである。意見は賛否両論あるようなのだが、穂高先生の退任祝賀会での一件は、そのような脚本や演出であるとしても、見ていて愛が感じられるものではなかった。

法律と道徳は違うということは、法律でふみこむことのできない、人間のこころの内面に十分配慮しなければならないということでもあろう。この両者の区別の分かっていない人間に法律のおよぶべき範囲を判断できるはずはない。つまり、道徳のわかっていない人間に法律にたずさわる資格はないということになる。

だが、寅子の穂高先生に対する行為は、道徳……人間のこころの内側にある社会的伝統的な規範意識……が感じられない。

これも、見方によっては、それほどまでに寅子の穂高先生に対する怒りが激しかったということなのかもしれない。しかし、穂高先生が言ったことは、妊娠した寅子に対して体をいたわるようにということを語っただけである。これはその当時としては、あるいは、現代でも、きわめて常識的なことである。

ドラマの作り方として、どうしても寅子に穂高先生に敵意を持たせたかったのかもしれない。乗り越えるべき壁として存在する登場人物が必要だったのだろう。その壁にぶつかり、挫折し、しかし、立ち上がる寅子にしたかったのだろう。

しかし、壁として設定するには、穂高先生はあまりにもその当時の価値観において進歩的であり……女性に法曹への道をひらいたり、最高裁で少数意見を述べたり……また、一般的常識的であった。雨の一滴のことば、きわめて謙虚である。このような人物を壁として設定することが、無理があったというべきである。

穂高先生をこのように描くことは、このドラマが主張したいことがあってのことにはちがいないが、しかし、このような設定や描き方では、その主張したいことについて、反対する意見が生まれこそすれ、賛同者を増やすことにはつながらない。ここで寅子に共感する人はまずいないにちがいない。失敗であったというべきである。

それから、日本人男性とフランス人女性との間の子どもの親権をめぐる問題。ドラマの作り方としてあまりに安易すぎる。おばさんの存在のことは、まず家庭裁判所の案件になった時点で調査しておくべきことだろう。両親が親権を拒否したなら、とりあえず面倒をみてくれそうな親戚を探すのが普通ではないだろうか。家族、親族は助け合わなければならない、ということである。(寅子は、このような考え方が嫌いだったようなのだが。)

気になったのは、寅子が、本音を言えば……と言っていたことである。このとき、寅子は、どのような立場で少年に会っていたのだろうか。裁判官という立場なら、自分の本音を語るということは妥当なことなのだろうか。本音はともかく、まず法律の規定にしたがって判断する、そのときに、「愛」とか「道徳」という要素がはいってくるかもしれない。しかし、それを最初に表だって当事者に語るのはどうなのだろうか。

寅子は、子どもが親の愛情を求めることは自然なこと、と言っていた。これは、まさに、尊属殺判決の少数意見(穂高先生)の言った、法律ではなく道徳にかかわることである。この考えを全面的に肯定するならば、尊属殺は合憲ということになると思うが、どうだろうか。寅子は、これが道徳の領域のことで、法律とは区別されるべきことである、このことをどこまで自覚して発言していたのだろうか。

それよりも、少年にむかって本音を語れば、相手もこころをひらいてくれるという発想が、ドラマの作り方としてあまりに安易である。たしかに人のことばに耳を傾けることは非常に重要である。だが、それでも口をひらかない、たよるべき親戚もいないような少年に対して、法律的にどう判断するか、というところが裁判官としての寅子の仕事であったはずである。それを描くのが、裁判官である寅子を主人公にしたドラマのなすべきことであると思って見ている。

両親に見捨てられた不幸な子どもについては、社会全体で責任をもつべき、家族や親族にたよってはいけない、のだとするならば、この件は、しかるべき施設……この当時であれば孤児院ということになるかもしれない……で保護すべきということになっただろう。ならば、おばさんは登場させるべきではない。寅子は、自分にとって都合のいい意見をのべただけで(まあ、理想は語り続けなければならないということではあるが)、解決策は旧来どおりに家族や親族にまかせることになってしまっている。結果としては法律にしたがったことにはなっている。

それにしても、梅子の件といい、フランス人の女性の件といい、子どもを捨てる母親である。このドラマは、子どもと母親について、何か考えるところがあるのだろうか。

最後のところで、桂場が司法の独立ということを言っていた。そのとおりなのだが、このことを無視してきたのもこのドラマである。民法の改正作業のとき、ドラマでは、寅子たちが民法を作っているかのような描き方であった。これはおかしい。法律を決める権限は、あくまでも国会にある。寅子たちがおこなったのは、法務省においてその草案を書いただけである。実態としては、GHQが命令して、法務省が法案を起草し、国会はそれを承認したというだけであったのかもしれないが、しかし、新憲法が制定された後のことである。三権分立の原則にしたがえば、法律を決める権限は国会のものである。民法改正について、国会でどんな議論があって議決されたのか、まったく触れることがなかった。このドラマは、三権分立がわかっていない。

さて、子どもが親の愛情を求めるのは自然なことと言っていた寅子であるのだが、娘の優未は母親(寅子)に対してどう思っているのだろうか。次週以降どうなるだろうか。

2024年7月6日記