「それでも声を上げ続ける 〜香港 記者たちの闘い2024〜」 ― 2024-03-05
2024年3月5日 當山日出夫
BSスペシャル それでも声を上げ続ける 〜香港 記者たちの闘い2024〜
香港のことについては、BSの番組であつかうことが多いかと思う。
報道の自由ということについては、日本はあまり高い評価ではない。それは、当局からの締め付けが、そう露骨な形では現れないという意味では、自由であるともいえる。しかし、その一方で、ジャーナリズムの政権との癒着、あるいは、自主的な規制というべきものが、目に見えないかたちで浸透しているとも言えようか。
ともあれ、香港のようにはっきりと目に見える形での言論弾圧ということは、今のところ日本では、顕著に表面化することにはなっていない。
そういう日本にいて見るということもあるのだが、香港の言論のあり方は、酷くなっている。リンゴ日報をつぶすというような目に見える形での弾圧もある一方で、おそらくは、番組では放送できないようなかたち……社会の水面下での圧力というべきかもしれないが……での、言論弾圧があるのだろう。
HONGKONG IS NOT CHINA……何年か前、ニュースで見た香港でのデモのとき、若者がかかげていた紙にこう書いてあったのを憶えている。
香港を逃れたジャーナリストが活躍の場としているのが台湾であるというのも、興味深い。台湾と中国との関係がどうなるかは未知数であるとして、香港のようにはなりたくないと、かなりの台湾の人びとは思っているのかと思う。
香港の今を伝える番組である。
その一方で、言論の自由、ジャーナリズムのあり方について、考えるところがある。おそらくテレビに映っている部分……強権的な言論弾圧……これは、あえて見せてもいいと政権が判断していることになる。この背後には、人びとのこころのうちをたくみコントロールしようとする様々な働きかけがあるにちがいないと思うのだがどうだろうか。
2024年3月1日記
BSスペシャル それでも声を上げ続ける 〜香港 記者たちの闘い2024〜
香港のことについては、BSの番組であつかうことが多いかと思う。
報道の自由ということについては、日本はあまり高い評価ではない。それは、当局からの締め付けが、そう露骨な形では現れないという意味では、自由であるともいえる。しかし、その一方で、ジャーナリズムの政権との癒着、あるいは、自主的な規制というべきものが、目に見えないかたちで浸透しているとも言えようか。
ともあれ、香港のようにはっきりと目に見える形での言論弾圧ということは、今のところ日本では、顕著に表面化することにはなっていない。
そういう日本にいて見るということもあるのだが、香港の言論のあり方は、酷くなっている。リンゴ日報をつぶすというような目に見える形での弾圧もある一方で、おそらくは、番組では放送できないようなかたち……社会の水面下での圧力というべきかもしれないが……での、言論弾圧があるのだろう。
HONGKONG IS NOT CHINA……何年か前、ニュースで見た香港でのデモのとき、若者がかかげていた紙にこう書いてあったのを憶えている。
香港を逃れたジャーナリストが活躍の場としているのが台湾であるというのも、興味深い。台湾と中国との関係がどうなるかは未知数であるとして、香港のようにはなりたくないと、かなりの台湾の人びとは思っているのかと思う。
香港の今を伝える番組である。
その一方で、言論の自由、ジャーナリズムのあり方について、考えるところがある。おそらくテレビに映っている部分……強権的な言論弾圧……これは、あえて見せてもいいと政権が判断していることになる。この背後には、人びとのこころのうちをたくみコントロールしようとする様々な働きかけがあるにちがいないと思うのだがどうだろうか。
2024年3月1日記
ブラタモリ「正倉院」 ― 2024-03-06
2024年3月6日 當山日出夫
ブラタモリ 正倉院
正倉院というと、むかし学生のときに聞いた益田勝実先生の話を思い出す。大学院のとき、非常勤で三田に教えに来ておられた。
正倉院の文書などの流出のこと、塵芥を棄てずに残して調査の対象となっていること、このようなことを聞いたのを憶えている。
校倉造りについてのそれまでの通説とは異なり、宝物を守ってきたのは、木製の櫃のおかげであるというのは、今では常識的なことかと思う。
ただ、この放送のなかで出てこなかったこととしては、文書……いわゆる正倉院文書のことがある。それから、聖教(昔の仏教のお経の写本)のことも重要である。聖語蔵のことについては触れていなかった。そういえば、正倉院文書も影印本が出たとき買ったのだが、今では書庫にしまいこんだままである。それも、今では、正倉院事務所のHPで画像データベースとして見られるようになっている。時代が変わったものである。
秋の正倉院展は、このごろは行っていない。とにかく人が多いところに出るのが嫌になってきた。正倉院展は、基本的には、制度としては曝涼の位置づけであるはずである。
2024年3月4日記
ブラタモリ 正倉院
正倉院というと、むかし学生のときに聞いた益田勝実先生の話を思い出す。大学院のとき、非常勤で三田に教えに来ておられた。
正倉院の文書などの流出のこと、塵芥を棄てずに残して調査の対象となっていること、このようなことを聞いたのを憶えている。
校倉造りについてのそれまでの通説とは異なり、宝物を守ってきたのは、木製の櫃のおかげであるというのは、今では常識的なことかと思う。
ただ、この放送のなかで出てこなかったこととしては、文書……いわゆる正倉院文書のことがある。それから、聖教(昔の仏教のお経の写本)のことも重要である。聖語蔵のことについては触れていなかった。そういえば、正倉院文書も影印本が出たとき買ったのだが、今では書庫にしまいこんだままである。それも、今では、正倉院事務所のHPで画像データベースとして見られるようになっている。時代が変わったものである。
秋の正倉院展は、このごろは行っていない。とにかく人が多いところに出るのが嫌になってきた。正倉院展は、基本的には、制度としては曝涼の位置づけであるはずである。
2024年3月4日記
「それでも日は昇る パキスタン 女性たちの行進」 ― 2024-03-06
2024年3月6日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー「それでも日は昇る パキスタン 女性たちの行進」
二〇二一年、パキスタンとカナダの制作。
パキスタンにおけるフェミニズムの活動についてである。
フェミニズムという動きについては、今の時代の大きな流れとしてあることは理解しておくべきだろう。
ここで思ったことを書いてみる。ちょっと天邪鬼な観点からになるが。
「自分の体のことは自分で決める」。これは本当に正しいのだろうか。無論、他人から強制的にその生き方を決められるということは理不尽である。だが、人間の自由意志というものは、本当に実在するものとして考えていいのだろうか。
人間が、その生まれ育った歴史的条件、文化的環境、人間社会の関係、地理的風土などの影響のもとにある。それからまったく自立した自由な個人の自由な考えというものがあり得るとは思えない。この意味では、フェミニズムの発想もまた、一つの歴史の所産である。だからといってフェミニズムを否定しようとは思わない。およそ主義とか主張には、そのような側面があるということに自覚的であるべきではないだろうか、ということである。
伝統的なイスラムの価値観に対して、フェミニズムの考え方で抵抗するという姿勢は、十分に納得できるものである。イスラムの世界もまた変わっていかざるをえないと思う。
ところで、西欧的な価値観に対して、非西欧的な、あるいは、近代以前の古くからの伝統的価値観を重視するという考え方もある。近年の事例でいえば、気候変動の問題など、近代的な人間社会の生き方の大きな問題である。
これは、ただ過去に帰れということにはならない。そこで、古くからのコミュニティや生活様式を尊重するということはあっても、家父長制は受け入れない、フェミニズムは尊重されなければならない、これは、どう整合性をつけることになるのだろうか。
今、実際に困窮している人びとが抗議の声をあげることは当然である。だが、その一方で、人間とはどんな存在であるのか、歴史から何を学ぶことができるのか、冷静な議論も必要なのではないかと私は思っている。
2024年2月7日記
BS世界のドキュメンタリー「それでも日は昇る パキスタン 女性たちの行進」
二〇二一年、パキスタンとカナダの制作。
パキスタンにおけるフェミニズムの活動についてである。
フェミニズムという動きについては、今の時代の大きな流れとしてあることは理解しておくべきだろう。
ここで思ったことを書いてみる。ちょっと天邪鬼な観点からになるが。
「自分の体のことは自分で決める」。これは本当に正しいのだろうか。無論、他人から強制的にその生き方を決められるということは理不尽である。だが、人間の自由意志というものは、本当に実在するものとして考えていいのだろうか。
人間が、その生まれ育った歴史的条件、文化的環境、人間社会の関係、地理的風土などの影響のもとにある。それからまったく自立した自由な個人の自由な考えというものがあり得るとは思えない。この意味では、フェミニズムの発想もまた、一つの歴史の所産である。だからといってフェミニズムを否定しようとは思わない。およそ主義とか主張には、そのような側面があるということに自覚的であるべきではないだろうか、ということである。
伝統的なイスラムの価値観に対して、フェミニズムの考え方で抵抗するという姿勢は、十分に納得できるものである。イスラムの世界もまた変わっていかざるをえないと思う。
ところで、西欧的な価値観に対して、非西欧的な、あるいは、近代以前の古くからの伝統的価値観を重視するという考え方もある。近年の事例でいえば、気候変動の問題など、近代的な人間社会の生き方の大きな問題である。
これは、ただ過去に帰れということにはならない。そこで、古くからのコミュニティや生活様式を尊重するということはあっても、家父長制は受け入れない、フェミニズムは尊重されなければならない、これは、どう整合性をつけることになるのだろうか。
今、実際に困窮している人びとが抗議の声をあげることは当然である。だが、その一方で、人間とはどんな存在であるのか、歴史から何を学ぶことができるのか、冷静な議論も必要なのではないかと私は思っている。
2024年2月7日記
「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (5)「不条理を生き抜くために」」 ― 2024-03-06
2024年3月6日 當山日出夫
こころの時代 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (5)「不条理を生き抜くために」
良寛については、昔、若いとき、唐木順三を読んで知っているぐらいである。あまり知るところところはない。浄土思想という観点から良寛がどうとらえることができるのか、良寛について考えてみたいと思う。
丹羽文雄の作品は読んだことがあったかどうか、はっきり記憶にない。もう今ではあまり読まれない作家になってしまたかもしれない。検索してみると、いくつかの作品は刊行されているようだ。親鸞について書いていることが分かる。
何よりもこの回で興味深いのは、宗教はアヘンであるということを、認めていることである。少なくとも、そのような一面があることは確かである。だが、それを認めたうえで、社会の変革、不条理の克服のための継続性のために、それを持続させる精神的なささえが必要であるとして、そこに宗教の価値を見出している。
それから、安満稔麿の言うこととしては、死を通過点として浄土がある。浄土教を信じる立場からするとこう言うことになるのだろうが、素朴なアニミズムの立場にとっても、通過点として自然に回帰していくと考えることもできるだろう。どのような立場をとるか違いはあるかもしれないが、死を壁ではなく通過点であるととらえる考え方には首肯するところがある。
来世で救われるのだから、この世における悪を肯定する、やむを得ないものと考える……このように考える傾向について、宗教は何をなすべきなのか。仏教で言う「諸悪莫作、衆善奉行」を具体的に実践するにはどうあるべきか、課題は残ることになる。特に、近現代の価値観の多様化、そして平行してある絶対的なPCの主張、このなかでどう考えるべきかということになる。
このシリーズ、言うまでもないことかもしれないが、宗教は生きている人間のためにある、という基調をつらぬいていることは重要なことである。
2024年2月25日記
こころの時代 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (5)「不条理を生き抜くために」
良寛については、昔、若いとき、唐木順三を読んで知っているぐらいである。あまり知るところところはない。浄土思想という観点から良寛がどうとらえることができるのか、良寛について考えてみたいと思う。
丹羽文雄の作品は読んだことがあったかどうか、はっきり記憶にない。もう今ではあまり読まれない作家になってしまたかもしれない。検索してみると、いくつかの作品は刊行されているようだ。親鸞について書いていることが分かる。
何よりもこの回で興味深いのは、宗教はアヘンであるということを、認めていることである。少なくとも、そのような一面があることは確かである。だが、それを認めたうえで、社会の変革、不条理の克服のための継続性のために、それを持続させる精神的なささえが必要であるとして、そこに宗教の価値を見出している。
それから、安満稔麿の言うこととしては、死を通過点として浄土がある。浄土教を信じる立場からするとこう言うことになるのだろうが、素朴なアニミズムの立場にとっても、通過点として自然に回帰していくと考えることもできるだろう。どのような立場をとるか違いはあるかもしれないが、死を壁ではなく通過点であるととらえる考え方には首肯するところがある。
来世で救われるのだから、この世における悪を肯定する、やむを得ないものと考える……このように考える傾向について、宗教は何をなすべきなのか。仏教で言う「諸悪莫作、衆善奉行」を具体的に実践するにはどうあるべきか、課題は残ることになる。特に、近現代の価値観の多様化、そして平行してある絶対的なPCの主張、このなかでどう考えるべきかということになる。
このシリーズ、言うまでもないことかもしれないが、宗教は生きている人間のためにある、という基調をつらぬいていることは重要なことである。
2024年2月25日記
100分de名著forユース (1)学び続けることの意味 シュリーマン「古代への情熱」 ― 2024-03-07
2024年3月7日 當山日出夫
100分de名著forユース (1) 学び続けることの意味 シュリーマン「古代への情熱」
『古代への情熱』は昔読んだ。しかし、昔すぎていつのことだったかまったく憶えていない。
かろうじて憶えていることは、シュリーマンは語学の才があったということ。それから、結果的にはということになるが、自分で自分のパトロンをやった人物、このように感じたのは憶えている。とにかく商才があり金儲けをした。その財産を考古学のためにつかった。まあ、確かに自分の夢にむかってつきすすんだ人生であるとはいえる。
今の若い人たちはどう読むだろうか。ひたすら夢の実現に向かっていく姿として見るだろうか、あるいは、その夢を実現するための計画を着実に実行する(財産をきずく)という面から見ることになるだろうか。少なくとも、夢にあこがれるだけではなく、それを実現するにはどうすればいいかという判断と実行力もあることになる。
ただ、ホメロスの詩をギリシャ語で朗唱することの意味、その身体感覚から得るもの、というあたりは確かにそのとおりかなと思う。
2024年3月5日記
100分de名著forユース (1) 学び続けることの意味 シュリーマン「古代への情熱」
『古代への情熱』は昔読んだ。しかし、昔すぎていつのことだったかまったく憶えていない。
かろうじて憶えていることは、シュリーマンは語学の才があったということ。それから、結果的にはということになるが、自分で自分のパトロンをやった人物、このように感じたのは憶えている。とにかく商才があり金儲けをした。その財産を考古学のためにつかった。まあ、確かに自分の夢にむかってつきすすんだ人生であるとはいえる。
今の若い人たちはどう読むだろうか。ひたすら夢の実現に向かっていく姿として見るだろうか、あるいは、その夢を実現するための計画を着実に実行する(財産をきずく)という面から見ることになるだろうか。少なくとも、夢にあこがれるだけではなく、それを実現するにはどうすればいいかという判断と実行力もあることになる。
ただ、ホメロスの詩をギリシャ語で朗唱することの意味、その身体感覚から得るもの、というあたりは確かにそのとおりかなと思う。
2024年3月5日記
「舟を編む ~私、辞書つくります~」(3) ― 2024-03-07
2024年3月7日 當山日出夫
舟を編む ~私、辞書つくります~ 第三回
水木しげるを読んだのは、「ゲゲゲの鬼太郎」からである。小学校のときに雑誌連載をリアルタイムで読んだのを憶えている。一番新しい本としては、中公文庫版である。しかし、読もうと思って買ってはみたが、文庫本に作ってあるので、文字が小さすぎて読むのがつらい。断念した。せめて、もう一回り大きなサイズの本で出してくれないものだろうか。ドラマで映っていたのは、古いちくま文庫版であった。
「手のひらを太陽に」は、やなせたかしの作詞である。次の次の次の朝ドラ『あんぱん』で、この曲が出てくるだろうかと、今から楽しみにしている。
今の時代の辞書として、水木しげるとかやなせたかしとか、このような項目を辞書(中型)に載せる必要があるのか、微妙な問題があるかもしれない。これから、もし、新規の辞書の企画をたてるとしたら、どうなるだろうか。
百科項目については、パソコンかスマホがあれば簡単に調べがつく。それが、どこまで正しいかどうかは疑問が残るにせよ。ただ、確定したことばの入り口としての辞書の語釈という観点からは、あってもいいようには思う。
これまでのドラマを見ていると、どうやらジャパンナレッジは出てきていない。今、紙の本の日本国語大辞典をひく人はどれほどいるだろうか。まあ、私も持ってはいるが、実際に見るのは圧倒的にジャパンナレッジになってしまっている。
それから、これは個人的な趣味の問題かもしれないのだが……私は、辞書を買ってそれを日常的に使うものとしたときには、まずケース(箱)とカバーを棄てる。辞書を引くのにいちいち箱から出しているのは、手間である。紙やビニール製のカバーがついているのも、扱いにくいのですぐに外して棄てることにしている。(ただ、保存のために買っておくという辞書の場合は残してあるが。)
馬締は学会に出張しても、すぐに帰ってきた。懇親会には出なかったようである。学会に出て、懇親会などで(さらにはそれが終わってから)、いろんな人とざっくばらんに話しをするのも、その楽しみであり、学会の意義の一つだと思う。まあ、これは、私などの世代の古風な考え方かと思う。(このドラマでの辞書の完成予定である二〇二〇年は、COVID-19のために、学会などほとんど中止かオンラインになった。懇親会もなくなった。これも時代の流れである。)
漱石の「こころ」のことが出てきていた。この作品は、何回か読んでいる。数年おきに漱石の主な作品は読み返すことにしている。「こころ」であるが、国語学、日本語学としてあつかうには注意が必要である。この作品は、大正三年の朝日新聞に連載の作品である。「三四郞」もそうであるのだが、明治の終わりから大正のはじめごろ、今から一〇〇年以上も前の作品のことばを、現代語の用例としてあつかっていいのだろうか、ということがある。無論、その作品のことばは平易であり現代の我々が読んですぐ理解できる。だからといって、一〇〇年以上も前の文献のことばを、今の日本語の用例としてあつかうには、細心の注意と手続きが必要である。長々しくなるのでこれ以上は書かない。学生に話しをするとなると一時間ぐらい話しをすることになる話題である。
2024年3月5日記
舟を編む ~私、辞書つくります~ 第三回
水木しげるを読んだのは、「ゲゲゲの鬼太郎」からである。小学校のときに雑誌連載をリアルタイムで読んだのを憶えている。一番新しい本としては、中公文庫版である。しかし、読もうと思って買ってはみたが、文庫本に作ってあるので、文字が小さすぎて読むのがつらい。断念した。せめて、もう一回り大きなサイズの本で出してくれないものだろうか。ドラマで映っていたのは、古いちくま文庫版であった。
「手のひらを太陽に」は、やなせたかしの作詞である。次の次の次の朝ドラ『あんぱん』で、この曲が出てくるだろうかと、今から楽しみにしている。
今の時代の辞書として、水木しげるとかやなせたかしとか、このような項目を辞書(中型)に載せる必要があるのか、微妙な問題があるかもしれない。これから、もし、新規の辞書の企画をたてるとしたら、どうなるだろうか。
百科項目については、パソコンかスマホがあれば簡単に調べがつく。それが、どこまで正しいかどうかは疑問が残るにせよ。ただ、確定したことばの入り口としての辞書の語釈という観点からは、あってもいいようには思う。
これまでのドラマを見ていると、どうやらジャパンナレッジは出てきていない。今、紙の本の日本国語大辞典をひく人はどれほどいるだろうか。まあ、私も持ってはいるが、実際に見るのは圧倒的にジャパンナレッジになってしまっている。
それから、これは個人的な趣味の問題かもしれないのだが……私は、辞書を買ってそれを日常的に使うものとしたときには、まずケース(箱)とカバーを棄てる。辞書を引くのにいちいち箱から出しているのは、手間である。紙やビニール製のカバーがついているのも、扱いにくいのですぐに外して棄てることにしている。(ただ、保存のために買っておくという辞書の場合は残してあるが。)
馬締は学会に出張しても、すぐに帰ってきた。懇親会には出なかったようである。学会に出て、懇親会などで(さらにはそれが終わってから)、いろんな人とざっくばらんに話しをするのも、その楽しみであり、学会の意義の一つだと思う。まあ、これは、私などの世代の古風な考え方かと思う。(このドラマでの辞書の完成予定である二〇二〇年は、COVID-19のために、学会などほとんど中止かオンラインになった。懇親会もなくなった。これも時代の流れである。)
漱石の「こころ」のことが出てきていた。この作品は、何回か読んでいる。数年おきに漱石の主な作品は読み返すことにしている。「こころ」であるが、国語学、日本語学としてあつかうには注意が必要である。この作品は、大正三年の朝日新聞に連載の作品である。「三四郞」もそうであるのだが、明治の終わりから大正のはじめごろ、今から一〇〇年以上も前の作品のことばを、現代語の用例としてあつかっていいのだろうか、ということがある。無論、その作品のことばは平易であり現代の我々が読んですぐ理解できる。だからといって、一〇〇年以上も前の文献のことばを、今の日本語の用例としてあつかうには、細心の注意と手続きが必要である。長々しくなるのでこれ以上は書かない。学生に話しをするとなると一時間ぐらい話しをすることになる話題である。
2024年3月5日記
映像の世紀バタフライエフェクト「イスラエル」 ― 2024-03-07
2024年3月7日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト イスラエル
イスラエルのことは、これまでの「映像の世紀」シリーズで何度となく出てきている。この回は、イスラエルの建国と今に焦点をあてたものであった。特に資料として目新しいものは無かった。強いていえばネタニヤフ首相と兄の若いときの姿だろうか。
もともとこの土地は自分たちのものだった……この論理を言い出すときりがない。パレスチナよりの立場からは、イスラエルが強奪者に見える。一方、イスラエルの側にもそれなりの理由がある。また、この土地が、古代からどのような国によって統治されてきたのかを連ねるならば、はてしない議論になる。
現実的な落とし所としては、イスラエルとパレスチナとの共存ということしかないと思うのだが、その実現は難しかもしれない。ただ、なぜイスラエルがかたくなに攻撃的なのかというあたりのことは、その建国の経緯をたどるとなんとなく理解できるようには思う。これをネタニヤフ個人の考え方でとらえることは無理があるよういも思える。
限られた時間の番組だからしかたないのかもしれないが、アラファトのその後、それから、ハマスがなぜ武装組織になっていったのか、このようなことについても触れてあるとよかったとは思う。
2024年3月5日記
映像の世紀バタフライエフェクト イスラエル
イスラエルのことは、これまでの「映像の世紀」シリーズで何度となく出てきている。この回は、イスラエルの建国と今に焦点をあてたものであった。特に資料として目新しいものは無かった。強いていえばネタニヤフ首相と兄の若いときの姿だろうか。
もともとこの土地は自分たちのものだった……この論理を言い出すときりがない。パレスチナよりの立場からは、イスラエルが強奪者に見える。一方、イスラエルの側にもそれなりの理由がある。また、この土地が、古代からどのような国によって統治されてきたのかを連ねるならば、はてしない議論になる。
現実的な落とし所としては、イスラエルとパレスチナとの共存ということしかないと思うのだが、その実現は難しかもしれない。ただ、なぜイスラエルがかたくなに攻撃的なのかというあたりのことは、その建国の経緯をたどるとなんとなく理解できるようには思う。これをネタニヤフ個人の考え方でとらえることは無理があるよういも思える。
限られた時間の番組だからしかたないのかもしれないが、アラファトのその後、それから、ハマスがなぜ武装組織になっていったのか、このようなことについても触れてあるとよかったとは思う。
2024年3月5日記
梅 ― 2024-03-07
2024年3月7日 當山日出夫
以前は水曜日ごとに花の写真を掲載していた。それは、たまたま水曜日が学校に行って教える日でもあったからである。それもこの年度で終わることにした。もう受業のために出かけることはない。だから、特に水曜日と限ることなく、適宜、花の写真を掲載していこうかと思う。
梅である。我が家にいくつかの梅の木があるが、そのうち比較的早くに花を咲かせる。八重の紅梅である。かなりの老木なのだが、春になると律儀に花を咲かせる。今、五分咲きといったところだろうか。
以前は水曜日ごとに花の写真を掲載していた。それは、たまたま水曜日が学校に行って教える日でもあったからである。それもこの年度で終わることにした。もう受業のために出かけることはない。だから、特に水曜日と限ることなく、適宜、花の写真を掲載していこうかと思う。
梅である。我が家にいくつかの梅の木があるが、そのうち比較的早くに花を咲かせる。八重の紅梅である。かなりの老木なのだが、春になると律儀に花を咲かせる。今、五分咲きといったところだろうか。
Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F/2.8 EX DG OS HSM
ドキュメント20min.「ナイト ライト ライド」 ― 2024-03-08
2024年3月8日 當山日出夫
ドキュメント20min. ナイト ライト ライド
Cho Co Pa Co Cho Co Quin Quin というグループがあることを始めて知った。この名前で検索してみて、なるほどと思う。(ただ、人をその出自で判断することは私の好むところではない。)
音の出るものなら何でも音楽にしてしまう、というのがこの若い人たちの感性ということになる。そこには民族とか国家ということはまったく意識されていない。このような音楽作りが、今のこれからの時代のものなのかなと感じる。
流れていた曲は、耳になじむものであった。まあ、このあたりは、NHKの方でこのような感じの曲という話しがあったのかもしれない。(あるいは、まったく忖度などなしで作ったのかもしれない。)
このような音楽の制作、編集に使っていたのは、Mac一台であった。
どうでもいいことだが、夜、だれもいない遊園地というのも舞台として悪くない。花屋敷をつかったらしいが。
2024年3月5日記
ドキュメント20min. ナイト ライト ライド
Cho Co Pa Co Cho Co Quin Quin というグループがあることを始めて知った。この名前で検索してみて、なるほどと思う。(ただ、人をその出自で判断することは私の好むところではない。)
音の出るものなら何でも音楽にしてしまう、というのがこの若い人たちの感性ということになる。そこには民族とか国家ということはまったく意識されていない。このような音楽作りが、今のこれからの時代のものなのかなと感じる。
流れていた曲は、耳になじむものであった。まあ、このあたりは、NHKの方でこのような感じの曲という話しがあったのかもしれない。(あるいは、まったく忖度などなしで作ったのかもしれない。)
このような音楽の制作、編集に使っていたのは、Mac一台であった。
どうでもいいことだが、夜、だれもいない遊園地というのも舞台として悪くない。花屋敷をつかったらしいが。
2024年3月5日記
ザ・バックヤード「国立印刷局」 ― 2024-03-08
2024年3月8日 當山日出夫
ザ・バックヤード 国立印刷局
国立印刷局のことは、先日の「探検ファクトリー」でもやっていた。さて、この二つの番組は、それぞれに取材したのであろうか。セキュリティの最も厳重な施設である。そう簡単に許可がおりるとは思えないのだが、いったいどうなのだろうか、ここがまず気になるところである。
工芸官の仕事は、やはりすごい。どういう経歴で今の仕事についているのかも秘密なのかもしれない。(美大で版画などの技術を学んだということがあるのかなとも思うが、おそらくそれすらも秘密ということなのだろう。)
登場していた工芸官は、「探検ファクトリー」のときは、人物が違っていた。「探検ファクトリー」のときは、男女二名であったが、「ザ・バックヤード」では男性一人だった。
紙幣の肖像画のコンテも面白い。写真を使うのだが、特定の写真から作るということではない。複数の写真をもとに、紙幣用に新しくコンテを描いていく。その作業も緻密そのものである。
印刷の技術、裁断の技術も、最高のものといっていいだろう。
ただ、番組で出てきていなかったのは紙を作る工程のことである。これは最高の秘密のことになるだろう。
ともあれ、「探検ファクトリー」と「ザ・バックヤード」で国立印刷局のなかの一部であるが、見ることができるというのは興味深いことである。
2024年3月7日記
ザ・バックヤード 国立印刷局
国立印刷局のことは、先日の「探検ファクトリー」でもやっていた。さて、この二つの番組は、それぞれに取材したのであろうか。セキュリティの最も厳重な施設である。そう簡単に許可がおりるとは思えないのだが、いったいどうなのだろうか、ここがまず気になるところである。
工芸官の仕事は、やはりすごい。どういう経歴で今の仕事についているのかも秘密なのかもしれない。(美大で版画などの技術を学んだということがあるのかなとも思うが、おそらくそれすらも秘密ということなのだろう。)
登場していた工芸官は、「探検ファクトリー」のときは、人物が違っていた。「探検ファクトリー」のときは、男女二名であったが、「ザ・バックヤード」では男性一人だった。
紙幣の肖像画のコンテも面白い。写真を使うのだが、特定の写真から作るということではない。複数の写真をもとに、紙幣用に新しくコンテを描いていく。その作業も緻密そのものである。
印刷の技術、裁断の技術も、最高のものといっていいだろう。
ただ、番組で出てきていなかったのは紙を作る工程のことである。これは最高の秘密のことになるだろう。
ともあれ、「探検ファクトリー」と「ザ・バックヤード」で国立印刷局のなかの一部であるが、見ることができるというのは興味深いことである。
2024年3月7日記
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