内田さんのコメントに関連して蘭学のことなど ― 2009-03-11
2009/03/11 當山日出夫
先週だったかな、NHKのドラマで、緒方洪庵の若い時代の設定の活劇(なんとなく、ことばが古めかしいが)をやっていた(先週で最終回)。こういうの、結構大好きだったりするのだが。少なくとも大河ドラマより、気楽に見られる。
「ことばのうみ」、やはり、大槻文彦『言海』に由来するものとのこと。ナルホドと思った次第。内田さん、どうもありがとうございます。
この前、紹介だけした、『東洋学事始』もそうですが、近代の学問・研究の枠組みをとらえなおそうという動きがいろいろあります。私のかかわる「国語学」は、さんざん、否定的な方向で、その標的にされた経緯があります。(この「標的にされた」という言い方、あえて意図的に使います。)
『言海』は、近代的な日本語研究のなかで、重要な位置をしめるものです。しかし、近代の辞書研究は、やや停滞気味かなという印象を持っています。
また、近代的な学問・研究の枠組みを考え直すとき、旧態依然たる講座・学科・専攻の枠組みの中でやっていても、ダメだろうなあ、という観測はあります。しかし、これをやらないでは、次のステップはないでしょう。
それを打破するものが、デジタルなのかどうか、(こういうと、またまたおこられそうですが)、これは考える必要がある。それよりも、デジタル化された膨大な情報のなかで、自分の位置を見失わない地図・羅針盤を持つ必要がある。それが、「教養」というものであろうと、思いますね。
當山日出夫(とうやまひでお)
先週だったかな、NHKのドラマで、緒方洪庵の若い時代の設定の活劇(なんとなく、ことばが古めかしいが)をやっていた(先週で最終回)。こういうの、結構大好きだったりするのだが。少なくとも大河ドラマより、気楽に見られる。
「ことばのうみ」、やはり、大槻文彦『言海』に由来するものとのこと。ナルホドと思った次第。内田さん、どうもありがとうございます。
この前、紹介だけした、『東洋学事始』もそうですが、近代の学問・研究の枠組みをとらえなおそうという動きがいろいろあります。私のかかわる「国語学」は、さんざん、否定的な方向で、その標的にされた経緯があります。(この「標的にされた」という言い方、あえて意図的に使います。)
『言海』は、近代的な日本語研究のなかで、重要な位置をしめるものです。しかし、近代の辞書研究は、やや停滞気味かなという印象を持っています。
また、近代的な学問・研究の枠組みを考え直すとき、旧態依然たる講座・学科・専攻の枠組みの中でやっていても、ダメだろうなあ、という観測はあります。しかし、これをやらないでは、次のステップはないでしょう。
それを打破するものが、デジタルなのかどうか、(こういうと、またまたおこられそうですが)、これは考える必要がある。それよりも、デジタル化された膨大な情報のなかで、自分の位置を見失わない地図・羅針盤を持つ必要がある。それが、「教養」というものであろうと、思いますね。
當山日出夫(とうやまひでお)
文学館とスロヴェニアのことなど ― 2009-03-11
2009/03/11 當山日出夫
岡野裕行さんの文学館研究について、コメントありがとうございます。ま、私が書いたのは、将来的には、このようなことも考えなければならないだろう……ということであって、いそいでどうこうということではありません。
それぞれに設立の趣旨や理念がちがいます。まず、そのあたりを整理してみるのが、重要ではないかと考えます。比較的新しいところでも、松本清張と、京都の時雨殿は、かなり性格が違うでしょう。時雨殿は、任天堂、今は、ゲーム機メーカですが、昔は、京都で花札とかトランプを作っていた会社。その歴史的経緯(社史?)もあって、百人一首(カルタ)の博物館をつくったということになるのでしょう。
松本清張は、推理小説作家であると同時に、歴史学にもかなり関係している。それを、やっと、日本の歴史学の研究分野が、そこそこ認めるようになった、ということでしょうか。『昭和史発掘』『日本の黒い霧』とか。
それよりも、私が岡野さんのお仕事で評価したいのは、スロヴェニアの文化財デジタル化事情の報告(昨年の「じんもんこん2008」)。いろいろと用事があって、じっくり話しを聞く機会がなかったのが残念です。その時の資料と、論集を読み直して、これはいいと思いました。
日本文化をデジタルで、ということを考えたとき、まず、見てしまうのが、欧米のいわゆる先進国、また、となりの韓国・中国。これまでの、このような調査からは得られない視点が、スロヴェニアという小国であるが故に、得られる。
なぜデジタル化するか、デジタル化する前に考えておくべきこと、岡野さんのスロヴェニアの研究からは、学ぶべきものが多いと感じています。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記:2009/03/11
岡野さんの名前を間違えて書いていたので訂正。
岡野裕行さんの文学館研究について、コメントありがとうございます。ま、私が書いたのは、将来的には、このようなことも考えなければならないだろう……ということであって、いそいでどうこうということではありません。
それぞれに設立の趣旨や理念がちがいます。まず、そのあたりを整理してみるのが、重要ではないかと考えます。比較的新しいところでも、松本清張と、京都の時雨殿は、かなり性格が違うでしょう。時雨殿は、任天堂、今は、ゲーム機メーカですが、昔は、京都で花札とかトランプを作っていた会社。その歴史的経緯(社史?)もあって、百人一首(カルタ)の博物館をつくったということになるのでしょう。
松本清張は、推理小説作家であると同時に、歴史学にもかなり関係している。それを、やっと、日本の歴史学の研究分野が、そこそこ認めるようになった、ということでしょうか。『昭和史発掘』『日本の黒い霧』とか。
それよりも、私が岡野さんのお仕事で評価したいのは、スロヴェニアの文化財デジタル化事情の報告(昨年の「じんもんこん2008」)。いろいろと用事があって、じっくり話しを聞く機会がなかったのが残念です。その時の資料と、論集を読み直して、これはいいと思いました。
日本文化をデジタルで、ということを考えたとき、まず、見てしまうのが、欧米のいわゆる先進国、また、となりの韓国・中国。これまでの、このような調査からは得られない視点が、スロヴェニアという小国であるが故に、得られる。
なぜデジタル化するか、デジタル化する前に考えておくべきこと、岡野さんのスロヴェニアの研究からは、学ぶべきものが多いと感じています。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記:2009/03/11
岡野さんの名前を間違えて書いていたので訂正。
デジタルは人文学の衰退か(1) ― 2009-03-11
2009/03/11 當山日出夫
この問いかけには、こたえなければならないだろう。
松田清さん 松田清のtonsa日記 2009年3月8日 機関リポジトリー
http://d.hatena.ne.jp/tonsa/20090308/1236531666
ここで松田さんは、
>>>>>
情報人文学あるいはデジタルヒューマニティーズと呼ばれる現象(まだ学問として確立されていないので、あえて現象といいます)は何か、何をもたらすか。単なる人文学(的成果)の情報化か。情報化は人文学(的精神)の衰退、哲学の貧困ではないのか。などなど疑問は尽きません。
<<<<<
と指摘している。
「デジタル・ヒューマニティーズ」という「日本語」を「発見」したのは、立命館である。ただ、英語で、Digital Humanities であれば、たくさんある。
それを、日本においては、CH(C=Computer、H=Humanities)、あるいは、「じんもんこん(人文科学とコンピュータ)」の語で、表現してきた。「デジタル・ヒューマニティーズ」という語の新しさの意図は、(これは、この語を発見した先生のことばであるが)、「コンピュータ」という語をはずして考えてみたい、というところにある。
ただ、英語圏においても、「ALLC」や「ACH」と「C=computer」と、称されていたことは確か。それが、近年になって、DH(Digital Humanities)へと統合される流れにある。
コンピュータは確かに道具である。だが、その道具の使用は、それを使う人間の発想を変える。これは、やむをえないだろう。そのときには、コンピュータを使う人文学から、デジタル環境下での人文学、というべきものになる……というのが、基本の考え方であると、私は理解している。
大雑把にいって、メディアの変革が、人文学を大きく変えてきたことは確かだろう。日本においても、近世になってからの版本による商業出版の成立、また、明治になってから活字印刷による書籍の刊行と流通、さらには、教育システムの変革。そして、今、デジタルの時代にいる。
ここで我々は何をなすべきか。座して衰退をまつか。亡びるものは亡ぶべくして亡ぶ。あるいは、どこかに活路を見出すか。となれば、デジタルを基盤にした人文学知という方向しかないであろう。
だが、その先は見えない。
當山日出夫(とうやまひでお)
この問いかけには、こたえなければならないだろう。
松田清さん 松田清のtonsa日記 2009年3月8日 機関リポジトリー
http://d.hatena.ne.jp/tonsa/20090308/1236531666
ここで松田さんは、
>>>>>
情報人文学あるいはデジタルヒューマニティーズと呼ばれる現象(まだ学問として確立されていないので、あえて現象といいます)は何か、何をもたらすか。単なる人文学(的成果)の情報化か。情報化は人文学(的精神)の衰退、哲学の貧困ではないのか。などなど疑問は尽きません。
<<<<<
と指摘している。
「デジタル・ヒューマニティーズ」という「日本語」を「発見」したのは、立命館である。ただ、英語で、Digital Humanities であれば、たくさんある。
それを、日本においては、CH(C=Computer、H=Humanities)、あるいは、「じんもんこん(人文科学とコンピュータ)」の語で、表現してきた。「デジタル・ヒューマニティーズ」という語の新しさの意図は、(これは、この語を発見した先生のことばであるが)、「コンピュータ」という語をはずして考えてみたい、というところにある。
ただ、英語圏においても、「ALLC」や「ACH」と「C=computer」と、称されていたことは確か。それが、近年になって、DH(Digital Humanities)へと統合される流れにある。
コンピュータは確かに道具である。だが、その道具の使用は、それを使う人間の発想を変える。これは、やむをえないだろう。そのときには、コンピュータを使う人文学から、デジタル環境下での人文学、というべきものになる……というのが、基本の考え方であると、私は理解している。
大雑把にいって、メディアの変革が、人文学を大きく変えてきたことは確かだろう。日本においても、近世になってからの版本による商業出版の成立、また、明治になってから活字印刷による書籍の刊行と流通、さらには、教育システムの変革。そして、今、デジタルの時代にいる。
ここで我々は何をなすべきか。座して衰退をまつか。亡びるものは亡ぶべくして亡ぶ。あるいは、どこかに活路を見出すか。となれば、デジタルを基盤にした人文学知という方向しかないであろう。
だが、その先は見えない。
當山日出夫(とうやまひでお)
おひとりさま ― 2009-03-11
2009/03/11 當山日出夫
最近、「おひとりさま」という言葉が流行のきざしをみせている。「品格」ほどではないにせよ。
私の知識の範囲では、このことばは、松本清張の『点と線』にある。
海岸で発見された男女の死体。一見すると、心中事件。そこに、刑事の鳥飼重太郎(この表記で良かったとおもう、なにせ、読んだのが、中学生ぐらいの時であるので)がふと疑問に思う。死んだ男性のもっていた、「お一人様」の領収書。
この『点と線』が書かれた時代の「お一人様」の感覚は、今では、通じないだろうなあ、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
最近、「おひとりさま」という言葉が流行のきざしをみせている。「品格」ほどではないにせよ。
私の知識の範囲では、このことばは、松本清張の『点と線』にある。
海岸で発見された男女の死体。一見すると、心中事件。そこに、刑事の鳥飼重太郎(この表記で良かったとおもう、なにせ、読んだのが、中学生ぐらいの時であるので)がふと疑問に思う。死んだ男性のもっていた、「お一人様」の領収書。
この『点と線』が書かれた時代の「お一人様」の感覚は、今では、通じないだろうなあ、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
「東洋史」の危機について思うこと ― 2009-03-11
2009/03/11 當山日出夫
ARGカフェの関係で、いろいろブログなどを見て回っているが、そのうちで目についたもののひとつ。
Traveling LIBRARIAN -旅する図書館屋
アカウンタビリティと人材育成
「東洋史学の危機」と第3回ARGカフェ&フェスト
http://d.hatena.ne.jp/yashimaru/20090228
危機的状況にあるのは、別に「東洋史」に限らないと思う。おそらく、すべての人文学の領域は危機的状況にある。そして、問題は、その危機的状況と認識する研究領域も、近代的な、大学の制度(講座・学科・専攻・学会)のなかで、構築されたものであること。
学問と教育の衰退もあるが、同時に、それをささえる枠組みの崩壊ということも考えねばならない。では、それを、もっとも下部から支える構造とは何か。人文学的基礎教養(リベラルアーツ)になるだろう。
これは、大学教育で、どうこうなるものではない。高校までの総合的なカリキュラムで考えなくてはどうしようもならない。
そして、その一方で、「知」のデジタル化が急速に進んでいる。その代表が、Wikipedia。問題なのは、そこに記述されていることが正しい/正しくない、ではなく、安定性/流動性、にあること。これは、ARGカフェで、私が述べたこと。
この、デジタルによる知の安定性/流動性、という方向に、今の、文学部の「制度」が耐えられるかどうか。東洋史学が亡びるなら、同時に、文学部も亡びるだろう。いっそのこと、文学部を解体して、人文教養学部、にするか(いや、もう、すでに、そうしている大学もあるのだが。)
當山日出夫(とうやまひでお)
ARGカフェの関係で、いろいろブログなどを見て回っているが、そのうちで目についたもののひとつ。
Traveling LIBRARIAN -旅する図書館屋
アカウンタビリティと人材育成
「東洋史学の危機」と第3回ARGカフェ&フェスト
http://d.hatena.ne.jp/yashimaru/20090228
危機的状況にあるのは、別に「東洋史」に限らないと思う。おそらく、すべての人文学の領域は危機的状況にある。そして、問題は、その危機的状況と認識する研究領域も、近代的な、大学の制度(講座・学科・専攻・学会)のなかで、構築されたものであること。
学問と教育の衰退もあるが、同時に、それをささえる枠組みの崩壊ということも考えねばならない。では、それを、もっとも下部から支える構造とは何か。人文学的基礎教養(リベラルアーツ)になるだろう。
これは、大学教育で、どうこうなるものではない。高校までの総合的なカリキュラムで考えなくてはどうしようもならない。
そして、その一方で、「知」のデジタル化が急速に進んでいる。その代表が、Wikipedia。問題なのは、そこに記述されていることが正しい/正しくない、ではなく、安定性/流動性、にあること。これは、ARGカフェで、私が述べたこと。
この、デジタルによる知の安定性/流動性、という方向に、今の、文学部の「制度」が耐えられるかどうか。東洋史学が亡びるなら、同時に、文学部も亡びるだろう。いっそのこと、文学部を解体して、人文教養学部、にするか(いや、もう、すでに、そうしている大学もあるのだが。)
當山日出夫(とうやまひでお)
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