『魔の山』トーマス・マン(その二)2017-05-26

2017-05-26 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月25日
『魔の山』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/25/8574049

『魔の山』で、付箋をつけた箇所を、もうすこし引用しておきたい。

トーマス・マン.高橋義孝(訳).『魔の山』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1969(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/202202/
http://www.shinchosha.co.jp/book/202203/

下巻、第七章「海辺の散歩」のところ。

「時間は人生の地盤であるのと同じように、物語の地盤でもあり――空間において物体に結合しているように、時間は物語にも不可分に結合している。時間はまた音楽の地盤でもある。音楽は地盤を測り、分割して、時間を短縮すると同時に貴重なものにする。この点で音楽は上にも述べたように物語に似ている。」(pp.401-402)

このような箇所を読むと、作者(トーマス・マン)は、小説を読む時間を、音楽を聴く時間に、なぞらえているように思える。

この『魔の山』という作品、その内容、テーマとして、どのようなことをあつかっている作品であるか、これも重要であるが、その一方で、この小説を読む時間を、読者がどのようにすごすか、ここにもこの小説の存在意義がある、このように理解すべきであろうか。

昨日も書いたが、若いとき、『魔の山』は途中まで読んで挫折してしまったということがある。やはり若いときは、何が書いてあるか、を求めて本を読んでいたように思う。それが、時がたってくると、どのように書いてあるか、というところを読む用になる。さらには、それを読んでいる時間そのものを楽しむようになる。あるいは、楽しめるようになる。少なくとも、私の場合はそうである。

音楽を聴くように、小説を読む。ようやく、この楽しみがわかってきた、というべきかもしれない。ドイツの「教養小説」であり、行ってみれば、知的大河小説とでもいうべき作品である。このような作品をじっくりと読む時間をすごしたいものである。