『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)2017-05-10

2017-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月8日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/08/8548850

トーマス・マン.望月市恵訳.『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

本を読みながら、付箋をつけた箇所についていささか。

この小説は、19世紀ドイツの「市民」の小説である。それは、ある意味では、貴族に対する意味でもちいられる。たとえば次のような箇所、

「ある人間は、生まれたときから選ばれた人間で、貴族の家に生まれ、……ぼくたちを軽蔑して見下すことができ、……ぼくたちはどんなに能力があっても、貴族にはなれないんですか?……」(上巻 p.197)

「ぼくたち庶民階級の者、今までぼくたちが呼ばれてきた第三階級の者は、地上の功績による貴族だけが存在するようにと要求し、怠惰な貴族を認めず、現在の階級の差を否定します。……すべての人間が自由であり平等であって、だれも特定の人間に従属することなく、すべての人間が法律にのみ従属していることを要求します!」(上巻 p.198)

ここで、いわれてる庶民、第三階級というのは、いわゆるブルジョアといっていいのだろう。富裕な都市市民階層である。この小説の基調をなしているのは、この市民階層の自覚である。

そして、この階層の人びとがもとめるのは、「自由」である。

「「自由を」とモルテンは言った。
「自由を」とトーニは聞き返した。」(上巻 p.202)

だが、その市民階層の繁栄も、今後永遠につづくことを予期しているというわけではないようだ。結果的には、この小説は、一族の没落を描くことになるのだが、それが象徴的に言及されている箇所。

「表面に現れるシンボルは、現れるのに時間がかかるんだよ、空のあの星のようにね。最も明かるそうに光っているときは、ほんとうはもう消えかかっているんじゃないか、もう消えてしまっているんじゃないか、ぼくたちにはわからないよ。……」(中巻 p.266)

このような箇所を読むならば、一族……市民階層……の没落というのは、歴史の宿命のようなものであり、それが光かがやいていると思われるのは、すでにそれが滅亡へとむかっているときなのである、このようなメッセージを読みとることもできるだろうか。貴族に対抗するものとして、市民社会の勃興ということはあったかもしれないが、それは、すでに滅びを内蔵しているものである。この文庫版の解説にしたがえば、だからこそ、この小説は、市民社会の白鳥の歌として読まれることになった。

第一次世界大戦以前のドイツの市民社会の繁栄、それを、われわれはもう体験としては知らない。だが、その喪失感というものは、憧憬をふくんだ哀惜の念とともに、共感できるものである。われわれの世界がすでに失ってしまった、ある社会があったことの喪失の物語として、この小説は、二十一世紀の今日においても、まだ、読まれ続けていく価値のある作品であると思うのである。

追記 2017-05-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月11日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/11/8553926