『わろてんか』あれこれ「笑いの新時代」2018-01-21

2018-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第16週「笑いの新時代」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/16.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月14日
『わろてんか』あれこれ「泣いたらあかん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/14/8769327

このドラマ、実在の人物のモデルがあるせいだろうか、大きく話しの筋がぶれることがない。着実に、ヒロイン(てん)の人生をたどっている。

だが、その一方で、掘り下げがたりないとも感じさせる。

この週では、子供(隼也)のことが出てきていた。どうせ家業(席亭)を継ぐことになるのだからと、勉強する気をなくしてしまうのだが、また気がかわって、大学に行くように勉強するという。このあたりの、親子の感情の機微というのが、もうちょっと深く描いてあると面白くなるのだが、ストーリーはどんどん先に行ってしまっている。この時代、昭和初期の不況の頃だから、「大学は出たけれど……」と言われた時代ではなかったか。であるならば、勉強して大学に行ってとはそう安易に言えることではないように思える。

メインの事件はラジオ。ラジオという新しいメディアの出現によって、寄席の客が奪われるのではないかと心配する風太。それに対して、ラジオ出演を奇策をもってなしとげて、その結果として、風鳥亭にも客を呼び寄せることに成功した団吾師匠。

たしかに、寄席の数ということだけを見てみるならば、数は減少することになる。今では、数えるほどしかない。しかし、これは今日では映画も同じ。最盛期にくらべれば、かなり減っているはず。

メディアの変遷と、大衆娯楽のあり方、これは、いつの時代にもついてまわることである。今回は、ラジオとの競合から、それをきっかけとしての寄席の繁盛というところにもっていった。

しかし、長い目で見るならば、寄席は衰退傾向にあったと思う。昭和の初期であるならば、ライバルは、活動写真・映画になるのかもしれない。この意味では、伊能栞が、藤吉とてんのライバルとして登場してきてもおかしくはないのだが、そのような展開にはならないようだ。

次週は漫才が話題になるらしい。漫才という芸能も、近代になって、また、ラジオや、さらには、テレビというメディアによって、大きく変わってきたものであるはず。このあたりをどのように描くか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-01-28
この続きは、
やまもも書斎記 2018年1月28日
『わろてんか』あれこれ「ずっと、わろてんか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/28/8777877

『明治天皇』(二)ドナルド・キーン2018-01-22

2018-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

新潮文庫版の『明治天皇』の二冊目である。

一冊目については、
やまもも書斎記 2018年1月20日
『明治天皇』(一)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/20/8773017

ドナルド・キーン.角地幸男(訳).『明治天皇』(二)(新潮文庫).2007 (新潮社.2001)
http://www.shinchosha.co.jp/book/131352/

この二冊目で描かれるのは、明治維新から、明治十四年の政変、自由民権運動(植木枝盛)ぐらいまで。明治維新を経て、東京に政権が確立してから、近代的な国民国家になっていく、まさにその出発点のできごとが、基本的に編年式に語られる。

この巻を読んで印象に残るのは、やはり西南戦争である。西郷隆盛の征韓論からの動き、不平士族の騒乱、そして、おこる西南戦争とその決着。この一連のながれについては、『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)が描いたところでもある。

ちなみに、『翔ぶが如く』は、二回読んでいる。司馬遼太郎の小説は新聞連載が基本だから、途切れ途切れに読んでも筋が追っていける。電車の中で読む本と決めてカバンの中にいれておいて、昔の若い頃に読んだ。『坂の上の雲』も、電車の中で読んだ本である。

それを読んでの知識が事前にあったせいかもしれないが、歴史上起こった西南戦争を、より客観的に、東京にいる明治天皇の視点ではどのような出来事であったのか、という冷静な記述に、ある種の感銘をうけて読んだ。

この『明治天皇』(新潮文庫)の二巻目まで読んで思ったことなど、いささか書くとすれば、次の二点であろうか。

第一には、著者(ドナルド・キーン)は、アメリカの人(今では、日本国籍であるが。)この本は、その外国の目から見た日本の近代史である。普通の日本の歴史……学校の教科書に出てくるような、あるいは、一般の歴史小説で描かれるような……とは、異なる視点から歴史を見ている。

そのことがよく分かるのは、沖縄の問題。明治になって、沖縄県が設置されるまで、沖縄は琉球国という独立国であった。それが、半分は清朝に朝貢し、かたや薩摩藩の支配下にもある、という二重の立場であった。この沖縄が、明治になって、日本国の領土に組み入れられプロセスを、かなりのページをつかって記述してある。

一般の学校の日本史の教科書であれば、沖縄は、はるか古代から日本の領土の一部であったという立場である。このような立場を、著者(ドナルド・キーン)はとっていない。あくまでも、近代になってからの日本の領土としての沖縄ということで、記述してある。

これは、北海道についても同様な視点がある。北海道、樺太、千島、これらの領土が確定したのは、明治になってからロシアとの交渉があってのことである。それまで、北海道(蝦夷)は、完全に幕府の支配権の及ぶところではなかった。

また、明治14年のこと、ハワイ王国の王(カラカウア)が日本をおとづれている。このことに一つの章がつかってある。ハワイもまた、近代になってから、アメリカの領土に組み込まれた新しい土地である。明治のこのころには、ハワイはまだアメリカのものではなかった。そのハワイと明治政府との間で条約が結ばれている。幕末にアメリカと結んだ不平等条約のようなものではなく、これは対等なものであった。

このような視点で、日本の近代史を語ることは、普通の日本史では希なことだと思う。少なくとも、学校で教えている日本史では出てこない。

第二に、第二巻まで読んでも、明治天皇その人の声とでもいうべきものは、ほとんど見えてこない。『明治天皇紀』によって、史実が淡々と記述される。希に明治天皇の思いが出てくると、それは、和歌によってである。

そして、その明治天皇であるが、第一巻から読んでくると、孝明天皇の皇子として京都で生まれたものの、帝王教育というようなものはうけていない。塀の奥の、京都の御所の奥深く、一般の市民とは隔絶したところで育った。それが、明治維新になって東京に出てくることになって、外国からの賓客と接する必要がおこるようになって、また、明治宮廷の近代化ということが行われることになって、徐々に、近代的な天皇らしくなっていく。また、メディアにおける天皇のイメージ……錦絵であったり、写真であったり……も、明治なってから、徐々に形成されていくことになる。

ところで、天皇で思い出すのは、今上天皇のこと。その退位の意向を示されたメッセージのなかで、日本各地を旅して人びとの暮らしによりそうことが象徴天皇としてのつとめである旨のことを、語っておられた。このような天皇のあり方は、先の昭和天皇をひきついでいるものでもあろう。

天皇の巡幸ということは、明治になってからの「発明」(この用語は著者はつかっていないが)である。例えば、伊勢神宮でも、明治になるまで天皇が参拝するということはなかった。

近代になってからの明治天皇のイメージというものも、やはり明治になってから創り出されてきたものであり、それには明治天皇自身の意思も働いていたところもあるし、周囲の重臣たちの意向でそうなっていったというところもある、この年代的な変化が、編年的に語られる『明治天皇』を順番に読んでいくと、感じ取れるところである。

以上の二点が、第二巻までを読んで思ったところである。

次の第三巻は、憲法の制定から、日清戦争のできごとになる。楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-02-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年2月3日
『明治天皇』(三)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/03/8781281

『西郷どん』あれこれ「子どもは国の宝」2018-01-23

2018-01-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年1月21日、第3回「子どもは国の宝」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/03/

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月16日
『西郷どん』あれこれ「立派なお侍」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/16/8770601

歴史の結果として、武士の時代は終わる。封建的な武士は明治維新によって終わる。それをなしとげたたのが西郷隆盛である、というのは常識的な日本史の知識。その西郷にとって、武士であるとは何であったのだろうか。

まだ江戸時代の薩摩藩の生活を描くことが、武士の時代を描くことにもなっている。その武士の時代の、あるべき姿をもとめているのが、若いころの西郷隆盛という設定である。ここには、まだ、廃藩置県、地租改正という、封建制度を終わらせた明治維新への展望は、まったく見えていない。

このドラマで描かれる、武士の生活のあり方、また、農民のあり方、これらが、どうにもステレオタイプであるとしか思えない。百姓=農民=米作、という図式の中で描いている。この図式は、近年の歴史学で、かなり問題点が出されているところではないのだろうか。

特に西郷隆盛のような下級の武士にとっての武士のあり方……武士としてのエトスといってもいいだろうか……と、かなり上級に位置するはずの赤山靭負とでは、武士としてのあり方もちがうだろう。藩からの俸禄だけでは生活できないような下級の武士である西郷隆盛にとって、武士であるとはどう意味があったのであろうか。藩からの俸禄が増えるためには、農民への年貢負担の増大になるか、調所広郷のように密貿易で稼ぐしかない。だが、西郷隆盛は年貢負担増には否定的である。

島津斉彬が、理想の君主、将来の日本のあり方を考える理想の指導者として描かれている。このあたりも、ちょっと型にはまりすぎているかないという気がしないでもない。たしかに、幕末になって諸外国の圧力というのはあったろう。幕府もそれを感じていたにちがいない。だが、それへの解決を、薩摩藩にたよるというのはどうなんだろう。老中、阿部正弘は、斉彬に期待をよせている。それは何を期待してのことなのだろうか。すでに開国やむなしと、この時点で判断して、諸外国との対応を、斉彬をたよりにするということなのだろうか。ここでは、江戸時代に終止符をうつことになる人間のひとりとしての斉彬が描かれている。

その後の歴史としては、薩摩は、倒幕ということで行動することになる。

これから開国となり、幕末・明治維新の動乱の時代をむかえる。武士の時代を終わらせることになる西郷隆盛、そして、倒幕の中心となる薩摩藩、これらの動きを、このドラマでは、今後どのように描くことになるのだろうか。

追記 2018-01-30
この続きは、
やまもも書斎記 2018年1月30日
『西郷どん』あれこれ「新しき藩主」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778969

NHK『平成細雪』第三話2018-01-24

2018-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月17日
NHK『平成細雪』第二話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/17/8771057

平成細雪
http://www4.nhk.or.jp/P4696/

原作『細雪』(谷崎潤一郎)では、鶴子は東京に行くことになっているのだが、どうやらこのドラマでは、ずっと大阪にいるらしい。東京での生活と、大阪、あるいは、阪神間での住宅地での生活とが、対比的に描かれると、これはこれで面白い展開になったのだろうと思う。

今回、好かったのは、雪子(伊藤歩)。

時代が平成になってからのことなら、携帯電話もほとんどの人が持っているようになった時代だと思うが、このドラマには登場しない。お見合い相手からの電話にも、うまく応対できないでいる雪子の様子が、どことなく時代離れしていて、なんとなく滑稽でもあり、しかし、情感もあった。この電話のシーンなど、市川崑監督の映画よりも、原作『細雪』の雪子のイメージに近いと感じた。

今度のお見合いの相手は、決して悪くなかったと思わせるのだが、結局ことわることになった。雪子の性格のせいということになるのだろうか。決して、雪子に責任があるというわけではないのだろう。帝塚山の家にでかけて、娘と話しをするようなシーンは、たしか原作にはなかった設定だと思う。そこまでのことをしながら、なぜこのお見合いの話しが壊れてしまったのか、これは、運命としかいいようがないかもしれない。あの電話のことさえなければ、という展開であった。このあたりは、『細雪』(谷崎潤一郎)のとおりである。

ところで、板倉の事故のシーンで第三話が終わった。これは原作にはない。結局、原作どおり板倉と妙子は結ばれることになるのだろうが、それにいたる道筋は、これから決して平坦ではないようだ。次回、妙子と板倉がどうなるか、それから、最後(になるはずの)お見合いがどうなるのか、楽しみに見ることにしよう。

『細雪』を原作にするといっても、花見のシーンはないようだ。一月の放送だから、撮影は秋のことなのだろう。惜しい気がするが、そのかわり紅葉などの季節の描写がよかった。

追記 2018-01-31
この続きは、
やまもも書斎記 2018年1月31日
NHK『平成細雪』最終話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/31/8779525

楓の種子2018-01-25

2018-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

今週も木曜日に花の写真の日。花ではなく、楓の種子である。

我が家の周囲にはいくつかの楓の木がある。種類はいろいろである。早く紅葉するものもあれば、遅く色づくものもある。楓のさらなる種類の分類などについては、これからの課題としておきたい。

今日の写真は、その中の一本の木。初夏のころから、種子が見えた。秋になっても、色は変わっていくのだが、枝についている。先日、そのいくつかを写してみた。

楓の種子も、このように接写で撮ってみると、また違った見え方になる。これも、RAWで残したデータを処理してある。ホワイトバランス(曇天)、それからピクチャーコントロールを風景にしてみたものである。肉眼で見た印象よりも、やや色が濃いめになっている。(ただ、これも見るディスプレイの設定によっては違うはずである。)

接写で撮ると、日常的に目にする植物でも意外な様相を見せる。写真のリアリズムの虚実皮膜の間であると感じるところでもある。

楓の種子

楓の種子

楓の種子

楓の種子

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『西郷どん』における方言2018-01-26

2018-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKの今年の大河ドラマは『西郷どん』である。国語学の観点から見て思ったことなどいささか。

気になるのは、登場人物のことば。今のところ、ドラマは、鹿児島における西郷隆盛の青年期の話しである。まだ、黒船が来るまえのこと。舞台は、鹿児島である。

当然のことであるが、西郷隆盛は、鹿児島ことばを話している。家族など他の周辺の登場人物もそうである。このあたり、厳密に考えるならば、鹿児島ことばといっても、身分によって違っていた可能性はある。しかし、そこまでドラマでは描いていないようだ。いや、これは、見ている方(私)が分からないだけで、制作側としては、そこまで区分しているのかもしれない。

テレビは字幕表示で見ている。これを、おそらく、字幕無しで見たら、ほとんど何を言っているのか聞き取れないのではないかと思われる。テレビがデジタルになって、台詞に字幕が表示できるようになったから、聞き取れない鹿児島ことばで話をしていてもよいということなのかもしれないと思って見ている。

西郷隆盛が鹿児島ことばであるのは、いいとしても、藩主・斉興、それから、久光が、鹿児島ことばである。その当時の大名であるからといって、江戸ことばにはなっていない。

このあたり、大河ドラマの前作『おんな城主直虎』と違うところである。『おんな城主直虎』では、主人公・直虎をはじめとして、大名、国衆クラスの武家、それから、ネコ和尚など、(今日でいう)標準的な日本語を話していた。その土地の方言を話していたのは、百姓たちであった。ここでは、社会的階層・階級によって、その地方の方言を話す、標準的なことばで話す、この違いを演出していた。さらにいうならば、方言は、社会的階級の指標にもなっていた。

『西郷どん』では、方言は、必ずしも社会的階層を反映するものとしてはあつかわれていない。むしろ、その地方色を出すためである。さらには、薩摩という地方にあって、封建領主であるという立場を強調するものになっている。

開明的な藩主として、薩摩藩を改革し、さらには倒幕への道筋をつけることになる斉彬は、標準的なことばをはなしている。江戸ことばといってもいいのかもしれない。斉彬は、江戸の藩邸に住まいしているということになっている。この観点では、江戸ことばでも不思議はないようなものかもしれないが、しかし、斉彬の江戸ことばは、その開明性の象徴でもあるのだろう。

これと比較して、その後の歴史で、あくまでも封建的な大名の立場にたつであろう斉興や久光は、鹿児島ことばなのである。ここでは、方言が、地方性のみならず、歴史的後進性、あるいは、封建的性格を表すものとなっている。

これから、ドラマでは、長州の人びとや、土佐の人びとが登場するにちがいない。また、京都の公家も出てくるであろう。むろん、江戸の勝海舟は登場するだろう。このような登場人物が、どのようなことばを話す人間として出てくることになるのか、このあたりを注目して見ていきたいと思っている。いうならば、幕末・明治維新を舞台にした日本語(時代劇語、方言……それは、フィクションとしてのといってもよいかもしれない……)のドラマとして見ることになる。

追記 2018-02-08
この続きは、
やまもも書斎記 2018年2月8日
『西郷どん』における方言(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/08/8784439

『秘密』ケイト・モートン2018-01-27

當山日出夫(とうやまひでお)

ケイト・モートン.青木純子(訳).『秘密』(上・下).東京創元社.2013
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010089
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010096

この本は出たときに買ってあって積んであった。『湖畔荘』がよかったので、取り出してきて読んでおくことにした。

調べてみると、この本、2015年の「このミス」の第二位(海外)である。ちなみにこの年の第一位は、『その女アレックス』。

ミステリとしての出来映え、読後感からすると、『湖畔荘』よりも、こちらの方が上かな、という気がする。

この作品も、時間軸と視点が錯綜している。1961年、事件が起こる。母が男を殺してしまう。その場面を、娘のローレルは目撃する。2011年、年老いた母(ドロシー)の死を目前にして、ローレルは母の過去を調べ出す。そして、ドロシーの視点で語られる1941年のロンドンの生活。そこに影をおとす謎の女性ヴィヴィアン。いくつかの時間、視点を行ったり来たりしながら、物語は進行する。そして、最後に明らかになる真実。

ミステリの常道をきちんとふまえている。作者はオーストラリアの人であるが、作品の雰囲気としては、英国風のミステリ・ロマンという感じである。このような作風については、読者の好みが分かれると思う。(私としては、このような作品は好きなのだが。)

『その女アレックス』がなければ、年間のミステリの一位になってもおかしくはないと思わせる。そして、『湖畔荘』でも感じたことであるが、このような物語的探偵小説とでもいうべきだろうか……が、日本においては、希少なことである。現代日本における「本格」は決して嫌いな方ではないのだが、時にはこのような重厚な作品を読みたくなる。そして、このような作品をなりたたせている、社会の文化的・歴史的背景の、日本との違いというようなことについて考えたりもする。

ようやく後期の大学の講義も終わった。後は、試験と採点である。時間的にも、気分的にも余裕がもてるようになっている。ここは、残りのケイト・モートンの作品を読み直してみようかと思っている。出た時に買ってしまってある。

『わろてんか』あれこれ「ずっと、わろてんか」2018-01-28

2018-01-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第17週「ずっと、わろてんか」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/17.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月21日
『わろてんか』あれこれ「笑いの新時代」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/21/8773529

藤吉が死んでしまった。これは、実話をなぞっているのだから、やむを得ないことなのだろう。藤吉のなきあと、女性実業家として、笑いの世界で生きていくてんのすがたを、次週から描くことになると思って見ていた。

ところで、この週で、漫才が新しくなった。キースとアサリのコンビで、新時代の「しゃべくり漫才」を始めることになった。

ここで思うことをいささか。ちょっと辛口に書いてみる。

第一に、そのしゃべくり漫才が、見ていて、全然面白くない。このドラマのこれまでの芸能のシーンでは、落語は面白かった。「時うどん」「崇徳院」など、見ていて思わずその芸の世界に引き込まれていくような印象があった。

これは、落語という芸がすでにあって、それをなぞって役者が演じているから、自ずからそうなっていることになる。

しかし、しゃべくり漫才にには手本がない。いや、あるのかもしれないが、落語の芸のような確固たる形で残っていない。今の時代に、また、かつて活躍していた芸人の漫才を参考にしてということになるのだろうが、これが、どう見てもうまくいっていない。

第二に、藤吉の母(啄子)が、アメリカに行っていたのが帰ってきた。ここで、アメリカの新しい世界、外国での芸能のことが、藤吉たちのビジネスに影響を与えることになるかと思っていたが、そういうことはなかった。ただ、サプライズで帰ってきて、また、すぐにアメリカに戻ってしまった。

また、映画が、トーキー……つまり音の出る映画……になって、それが、大衆芸能の世界にどのような影響を与えることになったのか、このあたりも、ほとんど描くことがなかった。せっかく伊能栞という映画ビジネスの世界にいる人間を登場させているのだから、映画をふくめて大衆芸能の世界を俯瞰するようなことがあってもいいのではないか。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

さらに書けば、時代は、昭和の初めごろである。つまり、不況のどん底の時代であったはず。歴史的には、満州事変、五・一五事件などの直前の時代である。この時代の世相というものを、このドラマは描いていない。また、アメリカに行った啄子も、いずれは強制収容所に入れられることになるのかと思う。これはどうなるだろうか。

社会的背景、世相と、大衆芸能とは、密接にかかわっているとおもうのだが、このところが、描き方が浅いという印象をうける。

ともあれ、次週からは、てんが北村笑店を担っていく展開になるようだ。時代も、戦争の時代になっていくことになる。どのようになるか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-02-04
この続きは、
やまもも書斎記 2018年2月4日
『わろてんか』あれこれ「女興行師てん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/04/8781948

『忘れられた花園』ケイト・モートン2018-01-29

2018-01-29 當山日出夫(とうやまひでお)

ケイト・モートン.青木純子(訳).『忘れられた花園』(上・下).東京創元社.2011
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488013318
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488013325

出た時に買って、ざっと読んだ作品であるが、これは再読になる。今度は、じっくりと、一語一句を味わうつもりで読んでみた。

この作品も、複数の時間と視点が交錯して書かれている。1913年、ひとりの少女が英国からオーストラリアまで、ひとりでやってきて、港にとりのこされる。ネルとなづけられることになる。時はうつって、2005年。オーストラリアで息をひきとったネルは、孫娘のカサンドラに遺言をのこす。そこには、英国のコーンウォールの家が残されるとあった。なぜ、ネルはその家を残すことになったのか。そもそもネルとは、どんな人間として生まれてきたのか。謎をめぐって、カサンドラは英国に赴く。三つの物語がおわるとき、その最後の謎が明らかになる。

訳者の解説には、ゴシック・ロマンスとある。『湖畔荘』『秘密』と逆順に遡って読んできたことになるのだが、まさに、このことばがぴったりの作品である。

とんでもないトリックが仕掛けてあるというのでもない。巧妙な叙述トリックでもない。そこに展開されるのは、ひとりの少女の出生の秘密へと収斂していく、複数の物語である。結果は、たぶん予想どおりというところにおちつく。が、そこにいたるまでの複数の……主に三つの……物語の厚みが、作品の魅力といってよい。

調べてみると、「このミス」では、2012年の9位になっている。これは、もうちょっと順位が上でもいいのではないかと感じる。(まあ、これは、その後の『湖畔荘』までの作品を知っているからそう思うのかもしれないが。)

濃密な探偵物語が好きなむきには、おすすめである。この本、再読してみるにたえる本である。

次は、『リヴァトン館』を読むことにしよう。

『西郷どん』あれこれ「新しき藩主」2018-01-30

2018-01-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年1月28日、第4回「新しき藩主」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/04/

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月23日
『西郷どん』あれこれ「子どもは国の宝」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/23/8774998

この回は、島津斉彬と父・斉興との「ロシアンルーレット」できまりである。

中園ミホの脚本なのだが、見てみると、NHKでは、『花子とアン』(今、BSで再放送している)の他にも、『トットてれび』の脚本を書いている。この週の展開は、もし幕末にテレビがあったなら……どういう経緯で、新藩主・斉彬が決まったのか、『トットてれび』風に描いてみた、という印象である。

史実がどうであったは、この際、もうどうでもいい。父と子の対立があって、それを乗り越えて、斉彬が新藩主になるプロセスを、ダイナミックに大胆に描き出すことに意味がある。

気になることとしては、この父と子の対立は、何に起因しているのか。ただ、由羅という女性をめぐるお家騒動ということだけではないだろう。幕末の薩摩藩の運営にかんする方針の対立ということがあってのことにちがいない。このあたり、ドラマの「本編」の方で描かずに、終わってからの「紀行」の方で説明してあった。

これはこれで、ひとつの方針だろうとは思うのだが、どうだろうか。かつてこのような方式でドラマをすすめた事例としては、『花燃ゆ』があった。はっきりいってこのドラマは、あまり出来がよくなかった。

「本編」のドラマとしての面白さの中に、歴史的背景、経緯をたくみに織り込んでいく……たとえば、近年の例では『真田丸』がそうだったと思うが……このようにドラマが進んでいってほしいものである。西郷隆盛というのは、それで十分に魅力的な人物であると思うので、その劇的な人生の中に、歴史を描くことも可能だろう。いや、そうでなければ、西郷隆盛の偉大さというのは、伝わらないのではないか。

ところで、気になったこと。西郷隆盛(吉之助)の上申書を、島津斉彬は克明に読んでいたという設定であった。はたして、このあたりの史実はどうなのだろう。ロシアンルーレットはドラマとして見ておけばいいのであるが、西郷隆盛の書簡については、かなり史料が残っているはずだから、歴史考証としてどうなのだろうかと思って見ていた。どのようなことをきっかけにして、西郷隆盛と島津斉彬が出会うことになるのか、このところの経緯は、ドラマとして重要な意味をもってくるところである。

次回は相撲らしい。楽しみに見ることにしよう。次回、於一(篤姫)が登場するらしいのだが、はたして、この島津の姫も、薩摩ことばなのであろうか。ちょっとこのあたり期待して見ることにする。

追記 2018-02-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年2月6日
『西郷どん』あれこれ「相撲じゃ!相撲じゃ!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/06/8783124