「ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜」 ― 2024-06-28
2024年6月28日 當山日出夫
時をかけるテレビ ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜
見ていて思うことはいろいろとある。
まず、ばっちゃんの経歴とか生いたちとかについて、一切触れていなかったことが印象に残る。保護司ということは出てきていたが、それだけである。それ以外、どこで生まれ育ってどんな仕事をしてきたのか、家族はどうなっているのか、何にも言及することがなかった。意図的にこう作ったには違いないが、このことによって、ばっちゃんの行っていることの意味がきわだってくる。
ありきたりのことになるが、少年犯罪については、処罰の対象として見るのか、教育保護の対象として見るのか、意見の対立のあるところである。まずは、居場所を作ることであり、犯罪を犯したならそのことについては社会的ペナルティがあることを教えることであり、そして、最終的には社会の中での更生という方向になるだろうか。最終的には、就労ということが重要であるが、これは教育とワンセットで考えるべきことだろう。(はっきり言って、中学をまともに終えていない少年が保育士になるというのは、非常にハードルが高い。)
非行少年が、家事、料理ができない、というのは、そういう家庭環境に育ったからということを、端的に物語っていることになる。また、ひとからありがとうと言ってもらったこともなければ、自分でありがとうと言うこともない。これも生育環境の結果といえばそれまでだろうが。
「家庭」というものについて、現在では評価が変わってきている。かつては、封建的な「家」にかわるものとして、夫婦と子どもを中心とする「家庭」ということが重視された。『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』を思い浮かべればいいだろうか。それが、現在では、「家庭」が人間を束縛するものと意識されるようになってきている。女性や子どものみならず男性もまた「家庭」という重圧を担って生きていかなければならない存在に変わってきている。
このような時代の流れはあるにしても、子どもにとっては、まず家庭環境からスタートすることは、確かなことであると思う。
地域社会のあり方も変わってきている。町内会も学校のPTAも、このごろは不人気である。その一方で、アソシエーションといい、コミュニティといい、コモンズといい、あるいは、絆といい、人びとの連帯の価値を見出すこともある。どうも、このあたりは、なんとなく矛盾した流れであると、私などは思うところがあるのだが。
よく言われることにはちがいないが、子どもにとっての家庭や学校以外の居場所をどう作っていくか、それに社会全体としてかかわっていくか、ということが求められていることになる。
それから、自分はばっちゃんのようなことはできないかもしれないが、支援はしたいという人もいるにちがいない。そのような人びとの気持ちの制度的な受け皿が広く社会に知られることが望ましいだろう。
多様性の尊重とはいいながらも、子どもはこのように育つべきだということの意識は狭まりハードルが高くなってきている、という気もする。これからの課題であろう。
なお、一番印象に残るシーンは、少年がばっちゃんの作った親子丼をきれいに食べたあとの器である。少年とばっちゃんの気持ちがここから伝わってくる。映像の力というべきであろう。
2024年6月23日記
時をかけるテレビ ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜
見ていて思うことはいろいろとある。
まず、ばっちゃんの経歴とか生いたちとかについて、一切触れていなかったことが印象に残る。保護司ということは出てきていたが、それだけである。それ以外、どこで生まれ育ってどんな仕事をしてきたのか、家族はどうなっているのか、何にも言及することがなかった。意図的にこう作ったには違いないが、このことによって、ばっちゃんの行っていることの意味がきわだってくる。
ありきたりのことになるが、少年犯罪については、処罰の対象として見るのか、教育保護の対象として見るのか、意見の対立のあるところである。まずは、居場所を作ることであり、犯罪を犯したならそのことについては社会的ペナルティがあることを教えることであり、そして、最終的には社会の中での更生という方向になるだろうか。最終的には、就労ということが重要であるが、これは教育とワンセットで考えるべきことだろう。(はっきり言って、中学をまともに終えていない少年が保育士になるというのは、非常にハードルが高い。)
非行少年が、家事、料理ができない、というのは、そういう家庭環境に育ったからということを、端的に物語っていることになる。また、ひとからありがとうと言ってもらったこともなければ、自分でありがとうと言うこともない。これも生育環境の結果といえばそれまでだろうが。
「家庭」というものについて、現在では評価が変わってきている。かつては、封建的な「家」にかわるものとして、夫婦と子どもを中心とする「家庭」ということが重視された。『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』を思い浮かべればいいだろうか。それが、現在では、「家庭」が人間を束縛するものと意識されるようになってきている。女性や子どものみならず男性もまた「家庭」という重圧を担って生きていかなければならない存在に変わってきている。
このような時代の流れはあるにしても、子どもにとっては、まず家庭環境からスタートすることは、確かなことであると思う。
地域社会のあり方も変わってきている。町内会も学校のPTAも、このごろは不人気である。その一方で、アソシエーションといい、コミュニティといい、コモンズといい、あるいは、絆といい、人びとの連帯の価値を見出すこともある。どうも、このあたりは、なんとなく矛盾した流れであると、私などは思うところがあるのだが。
よく言われることにはちがいないが、子どもにとっての家庭や学校以外の居場所をどう作っていくか、それに社会全体としてかかわっていくか、ということが求められていることになる。
それから、自分はばっちゃんのようなことはできないかもしれないが、支援はしたいという人もいるにちがいない。そのような人びとの気持ちの制度的な受け皿が広く社会に知られることが望ましいだろう。
多様性の尊重とはいいながらも、子どもはこのように育つべきだということの意識は狭まりハードルが高くなってきている、という気もする。これからの課題であろう。
なお、一番印象に残るシーンは、少年がばっちゃんの作った親子丼をきれいに食べたあとの器である。少年とばっちゃんの気持ちがここから伝わってくる。映像の力というべきであろう。
2024年6月23日記
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