知恵泉「小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦」 ― 2025-04-24
2025年4月24日 當山日出夫
知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦
今の朝ドラの次は、『ばけばけ』で小泉八雲と妻のセツの話になる。NHKもいろんな番組で、小泉八雲のことをとりあげることになるだろうが、これもその一つになる。
番組の冒頭で、荒俣宏が、小泉八雲のことを、「世界に珍しい、失われた楽園を求めて失敗せずに成功した人」と言っていたのは、そういうものかと思う。
小泉八雲、ラフカディオ・ハーンが、ギリシャ出身でアイルランドで学び、そして日本にやってきた、ということぐらいしか知らない。おそらく、ギリシャも、アイルランドも、当時(19世紀)のヨーロッパにおいては、周縁の地域と考えていいかもしれない。そういう背景があって、日本にやってきて、そして、松江で暮らすことになったというのが、とても興味深い。松江、あるいは、出雲、という土地は、日本の中央(京都や江戸)から見れば、辺境、周縁の地域ということができるだろう。
サウンドスケープと言っていた。音、聴覚で、世界を感じる、このことの意味を考えることになる。音の世界についての感性があったからこそ、小泉八雲の仕事があったことになる。
また、日本に色濃く残っていた、あるいは、今でもある、素朴なアニミズムも重要だろう。西欧的な一神教の世界からは、低くみられがちなアニミズムであるが、これは、これで、非常に豊潤な世界を形づくるものでもある。(文化人類学的な知見が構築されてくるのは、これより後の時代のことになる。)
その小泉八雲の『怪談』が、妻のセツの「語り」をもとに書かれたということも、とても面白い。話しことばによる語り、言いかえると、言語の身体性、ということになるかと思うが、ただ書物を読んで得た知識によるものではないことは、重要であろう。
妻のセツとのコミュニケーションも面白い。小泉八雲は日本語ができない。セツは英語ができない。それぞれ、かたことの英語と日本語でコミュニケーションしていたことになる。おたがいに、ヘルンことば、というもので会話していた、という。
異文化理解ということについて、音やことばの身体性からはいっていくというのは、一つのアプローチの仕方であるにちがいない。
昔、私が学生だったころ、虫の鳴く声を、人間の脳でどううけとめているか、という研究があったのだが、このことは、今ではどう考えられているだろうか。現在では、fMRIなど、技術的な進歩をふまえて、人間の脳が、音の世界にどう反応するのか、ということは、研究が進んでいる分野だろうとは思う。
『古事記』の英訳本が出てきていた。おそらく元になったのは、本居宣長の仕事であるにちがいないが、『古事記』を外国の人は、どのように読んだのか、これも興味のあるところである。
後年、東京帝国大学で英語を教えていたとき、その講義に、学生がうっとりと聞き惚れていた、と荒俣宏が語っていた。昔は、大学の講義でも、先生の名調子というものがあった。(私の学生のころには、もうすたれたことだったかと思うが。)だが、語学や文学の教師の魅力というのは、その講義の語り口、そのことばの身体的な感覚でつたわるものがある……これは、たしかにそのとおりだろうと思う。
今では、大学の語学の授業、特に英語などは、コミュニケーションのための英語という傾向が非常につよい。根源的には、ことばの教育というのは、ことばの身体性として伝えるべきもの、少なくともそういう部分がある、ということは、再認識されてもいい。こういう意味では、語学の授業で、文学作品を教材としてとりあげ、音読して読む、という昔ながらの方法にも、意味があったことになるだろう。
2025年4月23日記
知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦
今の朝ドラの次は、『ばけばけ』で小泉八雲と妻のセツの話になる。NHKもいろんな番組で、小泉八雲のことをとりあげることになるだろうが、これもその一つになる。
番組の冒頭で、荒俣宏が、小泉八雲のことを、「世界に珍しい、失われた楽園を求めて失敗せずに成功した人」と言っていたのは、そういうものかと思う。
小泉八雲、ラフカディオ・ハーンが、ギリシャ出身でアイルランドで学び、そして日本にやってきた、ということぐらいしか知らない。おそらく、ギリシャも、アイルランドも、当時(19世紀)のヨーロッパにおいては、周縁の地域と考えていいかもしれない。そういう背景があって、日本にやってきて、そして、松江で暮らすことになったというのが、とても興味深い。松江、あるいは、出雲、という土地は、日本の中央(京都や江戸)から見れば、辺境、周縁の地域ということができるだろう。
サウンドスケープと言っていた。音、聴覚で、世界を感じる、このことの意味を考えることになる。音の世界についての感性があったからこそ、小泉八雲の仕事があったことになる。
また、日本に色濃く残っていた、あるいは、今でもある、素朴なアニミズムも重要だろう。西欧的な一神教の世界からは、低くみられがちなアニミズムであるが、これは、これで、非常に豊潤な世界を形づくるものでもある。(文化人類学的な知見が構築されてくるのは、これより後の時代のことになる。)
その小泉八雲の『怪談』が、妻のセツの「語り」をもとに書かれたということも、とても面白い。話しことばによる語り、言いかえると、言語の身体性、ということになるかと思うが、ただ書物を読んで得た知識によるものではないことは、重要であろう。
妻のセツとのコミュニケーションも面白い。小泉八雲は日本語ができない。セツは英語ができない。それぞれ、かたことの英語と日本語でコミュニケーションしていたことになる。おたがいに、ヘルンことば、というもので会話していた、という。
異文化理解ということについて、音やことばの身体性からはいっていくというのは、一つのアプローチの仕方であるにちがいない。
昔、私が学生だったころ、虫の鳴く声を、人間の脳でどううけとめているか、という研究があったのだが、このことは、今ではどう考えられているだろうか。現在では、fMRIなど、技術的な進歩をふまえて、人間の脳が、音の世界にどう反応するのか、ということは、研究が進んでいる分野だろうとは思う。
『古事記』の英訳本が出てきていた。おそらく元になったのは、本居宣長の仕事であるにちがいないが、『古事記』を外国の人は、どのように読んだのか、これも興味のあるところである。
後年、東京帝国大学で英語を教えていたとき、その講義に、学生がうっとりと聞き惚れていた、と荒俣宏が語っていた。昔は、大学の講義でも、先生の名調子というものがあった。(私の学生のころには、もうすたれたことだったかと思うが。)だが、語学や文学の教師の魅力というのは、その講義の語り口、そのことばの身体的な感覚でつたわるものがある……これは、たしかにそのとおりだろうと思う。
今では、大学の語学の授業、特に英語などは、コミュニケーションのための英語という傾向が非常につよい。根源的には、ことばの教育というのは、ことばの身体性として伝えるべきもの、少なくともそういう部分がある、ということは、再認識されてもいい。こういう意味では、語学の授業で、文学作品を教材としてとりあげ、音読して読む、という昔ながらの方法にも、意味があったことになるだろう。
2025年4月23日記
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