「破綻の航跡 “暁の宇品” 陸軍船舶部隊の戦争」2024-12-09

2024年12月9日 當山日出夫

BSスペシャル 破綻の航跡 “暁の宇品” 陸軍船舶部隊の戦争

『暁の宇品』(堀川恵子)は、大佛次郎賞をとったときに買った本である。(しまいこんでしまったままになっているのだが。)

太平洋戦争における日本軍の戦死者の多くが、戦病死、もっと有り体にいえば餓死であったことは、よく言われている。拡大しすぎた戦線に、補給路の確保ができなかった。日本軍が軽視したことの一つが、兵站、ロジスティックス、であったということは、いろんなところから指摘されていることである。(さらには、インテリジェンスの欠如もあるだろう。根本的には、戦争にいたるまでの国際情勢の読み間違い、判断の失敗ということになるし、また、暗号が解読されていることに気づかなかったということもあるかと思うが。)

兵員や武器を輸送するだけが、兵站の仕事ではない。食糧を始めとする多くの物資や人員の輸送が不可欠である。この物資の輸送は、行きだけでなく帰りもある。太平洋、東南アジアに、戦線を拡大する構想のなかで、ロジスティックスをどう確保するかという観点が、根本的に欠如していたことは、致命的であったことになる。その典型として、インパール作戦があり、ガダルカナル島のことがある。燃料がなければ動かないのは、軍艦や戦闘機だけではない。兵員、その他の物資を輸送する、船舶も動けない。そのための燃料の確保は、どう考えられていたのだろうか。

海上輸送について、輸送は陸軍の仕事で、その護衛は海軍の仕事、という分担は、いかにも日本軍の考えたことという気がする。制海権、制空権、が完全に確保さていなければ、戦争の遂行は不可能であることは、素人目にも判断できることであると思うのだが。

輸送用の船舶の多くは、民間から徴用されたものである。(この視点から、太平洋戦争のことを見るということは、これまでにもあった。)

上陸用舟艇というと、私などは、連合軍のノルマンディー上陸作戦のことを思ってしまうのだが、そのもとになったのは、日本が先がけて開発した大発(大発動艇)であった。これは、たしかに、太平洋戦争の初期の段階では、効果的に使われたということになる。だが、現地までの輸送と航路の安全の継続的な確保という視点がなかった。(Uボートによる輸送船攻撃ということは、第一次大戦のときの教訓として学ぶべきところがあったはずだと思うのだが。)

マルレのことが出てきていた。爆雷を積んだ木製モーターボートである。生還を期しがたい、という意味では特攻というべきかもしれない。

南方の戦場で、『野火』(大岡昇平)に描かれていたことが実際にあったということを、当事者が自ら語っているのは印象的である。聞かれることだろうから、聞かれるまえに話すということであった。

余計なことを考えると……いわゆる台湾有事(狭い意味での具体的な戦争)となった場合、南西諸島の島の取り合いになる可能性がある。そのとき、自衛隊は、どうやって兵員や物資を輸送することになるのだろうか。今のところ、北海道にいる部隊を移動させるのに、民間の輸送船やフェリーなどを使うぐらいしか方法はないようである。といって、自前で、普段からそのための船舶を確保しておくということも、合理的ではない。その輸送にあたる船員(民間人)などの、法的な問題はどうなっているのだろうか。さらには、戦場となる(かもしれない)島からの、住民の避難も必要になる。これらの輸送計画、そして、そのための制海権、制空権の確保ということは、どれぐらい考えられているのだろうか。その他、いわゆるシーレーン防衛ということまで視野にいれれば、国防ということは、簡単なことではない。絶望的であるとまでは言いたくないけれど。

2024年12月6日記

「新・爆走風塵〜中国・トラックドライバー 生き残りを賭けて〜」2024-12-09

2024年12月8日 當山日出夫

ザ・ベストテレビ 「新・爆走風塵〜中国・トラックドライバー 生き残りを賭けて〜」

これは見た。そのときに思ったことは書いてあるので、そのまま以下に転記しておく。

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ラオスからチベットまで六日かけてバナナをトラックで運ぶというのが、近代的な生活であり経済ということなのだろうか。見終わって、ふと思わざるをえない。チベットでは、昔ながらの五体投地で巡礼する人のすがたもある。古代と現代が混在している。

中国の経済、特にその国内をささえるのは、トラック輸送であることは理解できる。どう考えても、鉄道では無理があるだろうし、無論、船は内陸奥地までは行けない。なるほど、これまでの中国の経済発展をささえてきたのは、このようなトラックによる流通があってのことなのかと、いろいろと興味深かった。しかし、それも、近年の中国経済の失速のあおりで、様々な困難があるらしい。

トラック輸送が個人もちのトラックに頼っているというのは、この番組で知った。日本なら、運送業者が引き受けるところである。しかも、その仕事は、今ではスマホで荷主と直接交渉になっている。これでは、デフレになったら、個人事業主ではひとたまりもない。

ラオスでバナナ農園を経営しているのは中国人。それを、中国国内まで運び、さらには、チベットまで運ぶ。その先の一帯一路の経済圏は、内陸のトラック輸送に依存することになる。

バナナ農園を探して行くときのシーン。日本なら、グーグルマップのデータを共有すればいいのかと思うが、それが出来ないらしい。トラックにもナビがついていないようである。これでよく仕事ができるのだろうかと、思ってしまう。(まあ、日本でも自動車にナビが標準でついていて、スマホで地図表示や案内が出来るようになったのは、近年になってからのことではあるが。)

おそらくは、この番組に出てきたような個人トラックが、調整弁となって経済の発展の浮き沈みをささえてきたのだろう。たぶん、これからもこの構造は変わらないかもしれない。今さら、大企業が運送業に手を出そうということはないだろう。

こんな広い中国とその周辺の地域で大量にトラックが走っていて、さて、カーボンニュートラルの議論は、どうなっているのだろう。

それにしても、道路網を整備し、また、それにともなってトラック輸送のためのガソリンスタンドとか、タイヤや自動車部品をあつかう商店や工場があることになる。このような全体的なインフラ整備を、中国はやってきたことになる。これはこれとして、すごいことかもしれないとは思う。

チベットまで行くとなると、当然ながらかなり高い標高になる。ラサで、三〇〇〇メートルを超える。富士山より高い。こんなところを走るトラックのエンジンはどうなっているのだろう。当然、酸素は少ないわけだからターボエンジンでないと難しいのかなと思うが、このあたりの技術的な説明はなかった。

寒くて凍ったエンジンをあためるのに、バーナーで火をあてるというのは、どう考えても乱暴というか、あきらかに危険である。タイヤもボロボロになるまで使っている。よくこんなトラックが走っているものかと感心するところもあった。途中で故障するぐらいならまだいい方で、下手をすると谷底に転落しかねない。実際、トラックの残骸が残っていた。

チベットについて、これが、現在の共産党政権になってから併合された経緯について触れてあったが、これは重要なことだろう。また、そのチベットを支配するために道路工事が必要であり、人民解放軍が多くの人的犠牲をはらって建設した、そう歴史があったことは、知っておくべきである。

登場していた中国人のトラックドライバーの二人。この友情といっていいのだろうか、関係も興味深い。受けた恩義はかならずかえさなければならない。ある意味では中国の人びとの強さ、したたかさの源泉はこのあたりにあるのかもしれない。

最後に、将来はパキスタンまで行くかもしれないと言っていた。一帯一路の行く先としては、中国のトラックが中央アジアや中近東あたりまで行くことになるということなのだろうか。(場所によっては船を使った方がいい。だからこそ、近年の海洋進出ということになるのかとも思うが。)

無論、物資輸送のトラックが走るということは、そのルートを軍事的にも使えるということに他ならない。こういう視点で見ておくことも重要だと思う。

2024年7月12日記

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二回目に見て、思うことは基本的に変わらないのだが、追加で少し書いてみる。

運んだのがバナナというのが、やはり意味があることである。昔読んだ本で印象に残っているのが、岩波新書の『バナナと日本人』(鶴見良行)である。一九八二年の本だが、今でも売っている。世界の食糧、農業、それから、日本人の食生活、このようなことを考えるとき、その原点とでもいうべき名著であると思う。それから時代がたって、ラオスのバナナ農園を中国人が経営し(働いているのは現地の人だろうが)、それをチベットの人が食べる時代になったことは確かなことである。

それから、最初見たときには気づかなかったことなのだが、トラックドライバーの張さんは、チベットでバナナを降ろした後、帰りは何を運んだのだろうか。このことは、非常に重要なことのように思える。ギリギリの経費で走っているトラックである。空荷のままで帰るとは思えない。チベットから何をどこへ運んだのだろうか。これが分かると一帯一路の経済圏の様相が、もっと具体的にイメージできるだろう。また、今のチベットが中国の一部として、どうなっているかも。あるいは、空荷で帰ったのかもしれない。ラオスにバナナを運びに行ったときは、ラオス向けの品物を積んでいなかった。

さらに考えると、空荷で行ったり帰ったりするというのは、物資の流通において非効率である。中国全体の流通ということを考えるとかなりの無駄である。個人所有のトラックで、アプリで直接交渉しての仕事ということなので、こうなるのかもしれない。これが、大規模で全国的な組織を持っている運輸業者だったら、はるかに効率的な方法を考えるだろう。輸送運賃のデフレは起こっても、仕事は効率化しない。これは、中国経済にとってはマイナスでしかない。

違法な闇の燃料(小油)のことでいえば、これがなければ中国国内の物流が回らないという現実がある。だから、警察も見逃さざるをえない。だが、これは、政府や警察への信頼を揺るがすことにもつながる。今の中国で、警察の役割はとても重要だろう。治安の維持というよりも、反政府活動の取り締まりが重要な仕事になっているはずである。トラックを修理しているときに、警察がきて罰金を払っていた。これも、かなり恣意的なことのように思える。警察あるいは政府機関についての市民の信頼がないとすると、この先の中国のゆくすえの重要な問題なのかもしれない。

この番組に出てきたような人たちが、中国の経済発展をささえてきたことは確かなのだろうが、これから、この人たちが「見捨てられた」「忘れられた」と意識するようになると、かなり大きな問題になるかもしれない。今のアメリカでいう、ラストベルトの人たちである。

中国で年をとって病気になるのは、とても大変なことのようである。ドライバーの張さんの父親もがんになって治療費のために借金したという。その負担が、今まで残っている。日本なら、がんになっても標準的な治療であれば、保険適用であるし、高額医療費の補助もある。だが、中国では、がんの治療で財産がなくなってしまうようだ。以前に放送の「ドキュメント72時間」で中国のがん専門病院の入院患者のために食事をつくるためのレンタルキッチンを取材していた。これから中国も急激に少子高齢化社会を迎えるが、いったいどうなるだろうか。

チベットの道は、かなりの数のトラックが走っている。それだけ物流があるということだろう。そして、風景がとても美しい。夜空、ポタラ宮、山々の景色は、とても魅力的である。

この番組を作ったのは、テムジンである。私が、テムジンという会社のことを意識するようになったのは、ドラマの『開拓者たち』を見てからのことになる。満島ひかりが主演の、中国満州の開拓農民を描いたドラマである。テムジンは、中国関係ではいい番組を作る。「映像の世紀バタフライエフェクト」でも、印象に残る番組をいくつか作っている。テレサ・テンを扱った回も、テムジンの制作だった。

2024年12月7日記

『光る君へ』「哀しくとも」2024-12-09

2024年12月9日 當山日出夫

『光る君へ』「哀しくとも」

見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。

『源氏物語』は、誰も幸せにならない物語である……なるほどそう言われてみれば、そうである。思いつくかぎりでも、『源氏物語』の登場人物は、幸福な人生をすごしたということは、あまりない。人間の一生とは、いろいろあって、そう簡単に幸せになれるものではない、というメッセージが込められているとも理解できる。

賢子が、まひろのことを、母親としては失格であるが、物語作者としてはすぐれている、ということを言っていた。そのとおりかなと思う。まあ、芸術家というのは、人格円満、女性であれば良妻賢母(かなり古めかしいが)というわけではないだろう。

刀伊の入寇は、藤原隆家の活躍で無事にことをおさめることができた。この事件について、都の貴族たちは冷淡であった、ということである。さて、実際のところはどうだったのだろうか。前例のない事件だけに、どう対応していいか判断しかねたというあたりだったかと思うが、どうだろうか。

その中にあって、藤原実資だけは、ことの重大性を認識し、しかるべき対応を考え、さらには、これからは武者の世の中になることを見通している。この時代、平安時代の後期になれば、後の武士の時代への萌芽というべきことがらが見られる時代になってきた、ということであろう。だからといって、後に鎌倉時代になったからといって、武士だけの世の中になったわけではなく、平安の貴族や寺社などの勢力は依然として力を持っていたことはたしかである。いわゆる権門体制論ということになるのかと思うが。

文書の日付が、非常に大きな問題としてあつかわれていたが、京の都と太宰府との距離を考えると、なんとなくこじつけのように思える。はたして、平安時代の政治や行政において、文書の日付はどれぐらいの意味を持っていたのだろうか。

この回では、天皇が出てこなかった。刀伊の入寇のとき、天皇は何をしていたということなのだろうか。

この回もそうなのだが、藤原実資が活躍する回は面白い。また、以前は安倍晴明の出てくる回は面白かった。

道長は孤独である。ここにきて、行成たちとの信頼感が失せている。孤独な道長にとっては、まひろの無事を願うことだけが、こころのよりどころであったようにも感じる。

紫式部が『源氏物語』を書き終えた後に、九州まで旅をして、そこで刀伊の入寇に遭遇するということは、もちろんドラマとしてのフィクションであるが、これまでのこのドラマの流れからして、そんなに無理のある展開だとも感じない。折に触れて大宰府に関連することがあり、また越前に行っており(これは史実)、若いときには、都から遠くへ行きたいと思ったこともあった。このような描写の積み重ねとしては、まひろの太宰府行きは、ドラマの筋としてはありうる展開である。

でも、よくあんな危ない目にあって、無事に都へ帰ってくることができたなあ、という気はするけれど。

歴史としては、この時代の貴族たちの、政治ということについての意識、対外的に外国を想定して日本というものをどう考えていたのか、というあたりのことが問題になることかと思う。(少なくとも、国民国家である日本の統治者というような意識はなかったはずである。そのような意識が明確になるのは、『坂の上の雲』の時代になってからである。)

都に帰った乙丸は、きぬにお土産の紅を渡していた。実に従順ないい人である。ひょとすると、『光る君へ』のドラマのなかでもっともいい人であるかもしれない。太宰府での「かえりた~い」の声は、乙丸だからのものであろう。

道長と賢子のシーン。父と娘であることは、見る側は分かっている。道長も、賢子が娘であることは知っている。このときの道長の表情がよかった。

最後に、倫子が、まひろと道長との関係について、私が知らないとでも思っていた、とさりげなく言うのだが、これは迫力があった。だが、平安時代の貴族である。召人ということもある(男性は、その家につかえる女房やその侍女などと、性的に関係を持ってもよかった……と理解しているのだが)。倫子の立場として、まひろに嫉妬するようなことはなかったろうと考える。正妻と、ただの女、である。さあ、このあたりの気持ちは、どうだったのだろうか。

まだ、このドラマのなかでは、「紫式部」も「源氏物語」もことばとして登場してきていない。さて、最終回ではどうなるだろうか。

2024年12月8日記

『カムカムエヴリバディ』「1942-1943」2024-12-08

2024年12月8日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「1942-1943」

この週で、安子と稔が結婚することになる。

いくつか印象的なシーンがあった。

安子がお菓子の注文を受けて雉真の家に配達に行く。そこで待っていたのは、母親の美都里だった。このときの美都里は迫力があった。稔のことを思う母親の気持ちからであるが、安子にお金を渡して縁を切ろうとする。それに対して、稔は反発することになる。

安子のたちばなの店を、稔の父親の千吉がたずねていく。おはぎを欲しいと言ってみるが、この時代ではもう無理である。その千吉に……安子は、それを稔の父親だとはまだ知らない……おしるこをふるまう。その後、千吉と安子の父親の金太が話しをする。稔が出征することになる(いわゆる学徒動員である)千吉と、息子の算太を戦地に見送った金太が、話をするシーンがいい。それぞれの父親としての思いが、十分に表現されていた。

結果としては、雉真の家では安子と稔との結婚を許すことになる。そのとき、安子と稔が神社で出会う。このドラマでは、この神社が重要な役割をはたす。稔は安子に、子どものことを話す。子どもには、ひなたの道を歩いていってほしい、と語る。これは、その後のこのドラマの展開を知っているから言えることなのだが、安子につづく子どもたちの物語は、最終的にひなたの道を歩くことを目指すものになっている。

2024年12月6日記

『カーネーション』「切なる願い」2024-12-08

2024年12月8日 當山日出夫

『カーネーション』「切なる願い」

この週もいろいろとあった。

まず、糸子はモンペ教室を始める。元の着物に戻せる、という方法の教室である。このことを思いついたのは、神戸の祖父母が岸和田の家に来て帰るとき、おばあちゃんの着ていたのが、大島紬を使ったモンペだった。それに気づくシーンの演出がいい。祖父母が来たときは雨が降っていた。家のなかで家族で話しをしているシーンで、窓の外は雨だった。そして雨が止んで、神戸に帰る祖父母を見送りに外に出たとき、雨あがりの太陽の光で、おばあちゃんの来ていた大島のモンペに気づくということになっていた。この部分の脚本と演出は見事だと思う。雨あがりの新鮮な光で見てこそ、大島の価値が発揮される。(たしか台詞としては、雨のことは一言も言っていなかったと思うが。)

三女の聡子が生まれる。このとき、父親の善作は、火傷で隣の部屋で寝ていた。無事に出産が終わってからも、糸子は多忙である。赤ちゃんをあやしながら、おにぎりを食べていた。ゆっくり食事もできない、落ち着かない日常を、少しの演出で見事に表現していたと感じる。

モンペ教室に八重子が来たときのことは、印象に残る。定員になっているところに、八重子がやってくる。このとき、糸子は、八重子の表情を見ただけで、何にも聞かずにメンバーに加えることになる。教室が終わるまで、八重子も糸子も、泰蔵の名前はまったく口に出さない。このとき、最後まで、泰蔵のことを黙ったままで八重子が店を出てもよかったかと思うところである。その方が、より余韻の残るシーンになっただろう。しかし、それでは、泰蔵の出征の見送りに糸子たちが出ることにつながらないことになる。泰蔵の出征に糸子がいることにつながるためには、洋装店での糸子と八重子のシーンは、必要だったということになる。

泰蔵の出征のとき、父親の善作も、火傷が治っていないのに出ていた。泰蔵が出発するとき、善作は「ばんざい」という。しかし、自らは火傷のせいで、手を上げることができない。声だけであった。声だけでも「ばんざい」と唱えたくなる善作の気持ちが、ここに集まった人たちの気持ちをよく表していた。

週の最後で、長女の優子が小学校に入学することになった。ちょっと気になったのは、この時代は、小学校ではなく国民学校であったはずである。現代では、戦争の時代は、学校教育の理念も変わって国民学校となったことは、もう歴史のかなたのことになってしまったということかもしれない。

善作は湯治に石川県の温泉までいくが、そこで亡くなることになる。その前に、店の帳面に、「小原洋装店 店主小原糸子」と自分の手で書いていた。わがままで頑固な父親であったが、すでに店の主が変わったことを、善作自身が納得していたことになる。

2024年12月7日記

『おむすび』「人それぞれでよか」2024-12-08

2024年12月8日 當山日出夫

『おむすび』「人それぞれでよか」

この週についても、良かったと思うところと、あまり感心しないなと感じたところと、書いてみる。

良かったと思うところ。

震災について何を感じるか、そこからどのように生きていくか、それはひとそれぞれである。靴屋の渡辺は、元の生活にもどることができないでいる。パン屋(その前は惣菜屋)の美佐江はとにかく前向きに生きていこうとする。そして、結の父の聖人は、いったんは糸島に戻ったものの再び神戸に来て理髪店を再開する。ひとそれぞれということである。

これを結は、野菜……アスパラガスやトマトやブロッコリー……にたとえていた。これはそのとおりなので、災害や事故などについて、何を感じ、それからどのような生き方を選択するかは、それぞれの人によって違う。ひとくくりに被災者という枠のなかで考えるべきではない。

これは非常に大事なことであると、私は思う。

次に、あまり感心しないところ。

このドラマでは仕事が描かれていない。糸島のときには、まだ農家の仕事ぶりが出てきていたが、神戸になってから、聖人の理髪店ぐらいしか、商店街のなかで仕事をしている人が出てこない。

渡辺が靴の仕事をしているところ。美佐江の店でパンを作っているところ。こういうシーンがあった方がいい。たしかに、このようなシーンをいれると、ドラマの制作コストはかかる。何故、神戸で震災にあった人たちが、そこから離れずに街を復興することに尽力することになるのか、その原動力になるのは、(その一つとしては)地元に密着した仕事を通じてであるはずである。特に、個人商店を中心とした商店街を舞台に描くならば、仕事を通してのお客さんとの交流が不可欠だろうと思う。ここは是非ともきちんと描いておくべきところだと感じる。

比べてみるならばということになるが……『カーネーション』では、小原の店(呉服店から洋装店)で、岸和田の地元の商店街の人びととの交流が描かれている。『カムカムエヴリバディ』では、岡山のたちばなの菓子屋の仕事を通じてそれを買うお客さんの顔が見える。また、以前の『舞いあがれ!』では、東大阪のネジの町工場の仕事を通じて、地元の人たちとの関係性が描かれていた。しかし、『おむすび』では、特に神戸編になってから、そのような地元の人との関係性を仕事を通じて描くということがなくなっている。今風の言い方をすれば、職業を通じての自己実現ということになるが、それがないのである。

それから気になることとしては、祖父の永吉が、震災の後で避難所に来ていたが、それまでにいくつかの避難所を回って探し当てたと言っていた。これは、その当時、どこに避難所が開設されているのか、という情報自体、どうやって手にいれたのだろうか。行政が用意したもの以外にも、いろんな場所に被災した人たちはいたと思うのだが。おそらく、学校を探して回るというのが、せいぜい出来ることだったかと思うのだが、どうなのだろうか。この時代、一九九五年の段階では、インターネットはおろか、携帯電話さえそんなに普及していない。強いて描くとするならば、聖人か愛子が、糸島の両親に自分たちの無事を、かろうじてつながっていた公衆電話で知らせるということがあったなら、というぐらいかと思う。(ちなみに、旧来の普通の電話は、もし停電していても回戦が切れていなければ通じる。だからこそ、現在でも、災害時のために公衆電話を残すことが言われている。)

2024年12月6日記

「20年目の花火」2024-12-07

2024年12月7日 當山日出夫

ザ・ベストテレビ 「20年目の花火」

事故や事件の「加害者」の側を取材するということは、あまりないことである。多くの場合は、「被害者」の側にたって、こんな理不尽なめにあった可哀想なひと、という視点で作ることが多い。

南国花火の社長の心中は、いったいどうだったのだろうか。二〇年の間、何を考えてきたのだろうか。同じ会社の名前を存続させて、花火にかかわる仕事をつづけてきたといのは、そこに深く考えることがあってのことにはちがいない。

いろいろと思うことがあるが、それが、見るものの想像力に任されているというところが、ある意味でもどかしくもあり、また、この番組の奥行きの深さにもつながる。

事件とか事故とかがあった場合、よく犯人の心の闇、というようなことを言う。はたして、そう簡単に人間は心のうちを理解できるものなのだろうか。それは、自分自身でもよく分かっていないにちがいない。自分の心のうちは自分が一番よく分かっているというのは、傲慢である。逆に、専門家……精神科医であったり、臨床心理士であったり……なら、それが分かるというものでもないだろう。なにがしかの説明はできるかもしれないが、これもまた、人間というものを分かっていないと言わざるをえない。かといって、専門知が不要ということではない。せいぜいできることは、分からないことについて、社会的に合意できる形を与えること、といっていいかと思っている。

それにしても、近年、花火というのは、手軽に見るものではなくなってきた。花火大会は、有料の観覧席のチケットを購入するお客さんだけのもの、という流れになってきている。いろんなコストなどのことを考えると、これはやむをえないのかもしれないが。

2024年12月6日記

「エド・ゲイン事件 サイコと呼ばれた男」2024-12-07

2024年12月7日 當山日出夫

ダークサイドミステリー 本当の恐怖はどこにある?エド・ゲイン事件 サイコと呼ばれた男

再放送である。二〇二四年の四月。これは見逃していた。先月の放送を録画しておいて、ようやく見た。

エド・ゲイン事件の真相は、結局は分からない……私は、これでいいと思う。

今でも、日本においてもいろんな事件が起こる。凶悪な事件、理不尽な事件、大量に被害者が出るような事件、そのとき、マスコミがそうなのだが、犯行理由、犯人の心の闇とか、さらには、犯人の生いたちや家族などにも話しが及ぶことが多い。それで、なにがしか分かることはあるかもしれない。

しかし、人間の心のなかの奥底、精神の複雑な部分、すべて理解できるというのが、そもそもおかしいのだと、私は思う。人間なんてわからない、いったいどんなことをするか、わからないこそ人間である。だからといって、異常犯罪、猟奇犯罪を擁護する気はないけれども、むしろ、人間の精神は科学的に理解できる、なにか異常ががあるからこそ犯罪をおこすのだ、という人間観の方が、より問題であるかと思う。(おそらく、精神医学や心理学の専門家は、このような人間観について懐疑的なのだろうと思うが、どうだろうか。)

また、エド・ゲイン事件については、これを、その後の人びとがどう消費していくのか、ということも興味深い。映画『サイコ』などのような形、表現を与えられて、人間はようやく落ち着きを取り戻すことができるといっていいだろう。

エド・ゲイン事件とは関係ないが、『冷血』(カポーティ)とか、これとあえて同じタイトルを選んだ『冷血』(高村薫)とかも、結局は理解できない人間の心の奥底にあるもの、ということを描いているのだと、私は理解している。

2024年12月2日記

ザ・バックヤード「足立美術館」2024-12-07

2024年12月7日 當山日出夫

ザ・バックヤード 足立美術館

足立美術館は名前は知っているが、行ったことはない。我が家からはちょっと遠い。

この美術館のことは、時々、テレビ番組で紹介される。特に、その庭園のことについてである。(美術館なのだから、まずはそのコレクションの紹介がメインであるべきだと思うのだけれども。)

これまでいくつかの番組であつかわれてきたこととちょっと違うかな(この「ザ・バックハード」の特色を出したのかな)と感じるところがいくつかあった。

庭園の掃除は、庭師だけの仕事ではなく、学芸員や職員が総出で行っていることだということ。窓拭きもやっている。

また、植え替え用の松の木や、苔が、まさに「バックヤード」において準備されているということは、興味深かった。庭の苔などは、その上に落葉がつもったりすると、駄目になってしまう。これは、我が家の周囲を観察しているとよく分かる。番組では言っていなかったが、この予備の苔の手入れだけでも、かなり手間がかかっていることと思う。

松の木の選定を手作業で行うのは、特に特殊なことではない。基本的に松の木の手入れは、植木屋さんが手で行う。我が家にも二本の松の木があるが、その剪定だけで、職人さんが一日がかりで手作業で行っているのを、毎年見ている。(それだけ、維持コストがかかることになるのだが、やむをえない。)

2024年12月5日記

「有吉佐和子スペシャル (1)埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす」2024-12-06

2024年12月6日 當山日出夫

100分de名著 有吉佐和子スペシャル (1)埋もれた「女たちの人生」を掘り起こす

有吉佐和子の作品のいくつかは、高校生から大学生ぐらいのときに読んだ。『華岡青洲の妻』も読んだ作品である。

番組のなかで紹介されていた、留学から帰ってきた夫の清州をむかえたときの、嫁と姑の様子は、印象に残る場面である。朗読では出ていなかったが、その後の描写を憶えている。姑に先をこされた、妻の加恵が、一人残され自分の用意してきたたらいのお湯を捨てて、そこから湯気がたちのぼるシーンである。(まったく記憶で書いているのであるけれど。)

ちょっと気になったことがある。番組では、この作品を家をあつかった作品、そのなかにおける女性の存在を描いた作品と言っていた。ことばとしては使っていなかったが、いわゆる家父長制的封建的前近代的な家の悪習として描いたということになるだろうか。

私は、この解釈はありうるもので、特に否定しようとは思わない。だが、その一方で、家というものが、そのようなものとして意識されるようになったのは、歴史的経緯があってのことだとは思っている。おそらく江戸時代までの、日本の人びとの暮らしは、もっと多様であったにちがいない。地域差、身分差、階層差、職業の違い(武士とか農民とか、また農民のなかでの様々な違い)、これらを総合して見なければならないだろう。

独断的に言ってみればということであるが、家というのが強く意識されるようになったのは、明治になってから旧民法の規定があり、その余韻が強くのこっていた、昭和の戦後のしばらくの時代……これは、まさに有吉佐和子の活躍した時代であるが……戦後の高度経済成長に合わせて、あるべき家庭の姿としてイメージされたのが、旧来からの家であり、それが、日本の古来よりの姿であると考えられるようになった、いわばかなり社会構築的なものである、今の私はこのように考えている。日本に住んでいた多くの人びとの生活の実態は、歴史学(歴史人口学や民俗学)において、あらためて考えられるべきこととであると思う。

人びとの生活の実態(それは多様であったはずだが)、イメージとしての家や社会のあるべき姿、法的な規範(特に民法)、どこに視点をおくかによって、見えるものや問題意識は異なってくるはずである。

『華岡青洲の妻』は、まさに戦後の時期において、日本の人びとがいだいていた、古来からの日本の家というもののイメージを文学として表現したもの、それを時代小説に投影したもの、そう考えていいだろう。

有吉佐和子を今日のフェミニズムの先駆的な存在として読むことも可能であろうが、この番組では、かならずしもその立場をとっていない。フェミニズムも、いろんな考え方のなかの一つである、という立場であった。

それから、どうでもいいことだが、『華岡青洲の妻』が刊行された当時の新聞の広告が映っていたが、値段が三五〇円だった。いまでは、文庫本でもそんな値段では買えない。

2024年12月3日記