『作家的覚書』高村薫 ― 2017-04-27
2017-04-27 當山日出夫
高村薫.『作家的覚書』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b285380.html
小説家としての高村薫の作品の主なものは読んできているつもりでいる。最新作は、『土の記』を読んだ。
やまもも書斎記 2016年12月22日
高村薫『土の記』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285770
また、『晴子情歌』にはじまる一連のシリーズも読んではきている。その高村薫の、おりにふれての時事的な小文を編集したものである。
読んでみて、面白いというよりも、共感するというところのある本である。例えば、次のような箇所。付箋を付けた箇所を引用する。
(東京都知事選の候補者についてふれて)「はて、なかなか尽きるものではない欲望と物理的老いの間で、ひっそりと背筋を伸ばしていられる歳の取り方はないものだろうか。」(p.16)
(安保法制をめぐって)「もっとも、ひたひたときな臭い気配が迫っているとはいえ、私たちの足下には当面差し迫った危機があるわけではない。そんな平和な先進国で思い巡らせる不安など、いざというときに備えた予行演習ですらなく、ひまつぶしの誹りを受けても仕方がないかもしれない。現に、静かな書斎で私がこんな長閑なコラムを書いている最中にも、紛争地域では女性や子どもたちが為すすべもなく銃撃戦や爆撃の犠牲になっているのだ。その厳しい現実を、先進各国も国連も、私をふくめた一般市民も、もはや正面から捉えるすべを失っているように見えるのは私の杞憂だろうか。この私が、自身の無気力の言い訳にしているだけだろうか。」(pp.46-47)
時事問題を論じながら、そのできごとを見る自分自身のあり方について、反省のまなざしをわすれない。これがこのエッセイのいいところだろう。
えてして、神の高みから正義の裁断をくだすような時事評論はいくらでもある。それが、右であれ、左であれ、いずれの立場からであっても。
この本は、どちらかといえば、反体制的な立場からの言説である。だが、それが、単純な体制批判にとどまっていない。なぜ、そのような批判の意見を自分がもつのか、そして、そのような意見をもっている自分にはいったい何ができるのか、自分は、今なにをなしうるのか……この自省の念が、常に文章のうらにはりついている。この自己反省、自己抑制が、このエッセイ集を、きわだったものとしている。
必ずしも、著者(高村薫)と意見を同じくするということはないかもしれないが、その時事問題について語る、著者の姿勢には、強く共感するところがある。
なぜ自分はこのように考えるのか、そして、何ができるのか、何をしているのか、このような視点は、現代においては、貴重なものになっているように思う。仕事の合間に、ふと手にとって読んで、一服の清涼剤を得たような、そして、それだけではなく、いま、こうしてこの本を読んでいる自分のあり方を反省してみるような、そんな時間を与えてくれる。
著者(高村薫)の生まれは、1953年とある。私とさほどちがわない。そのような年にうまれ、そだってきた人間として、戦後の日本のあゆみ、阪神大震災、東日本大震災、安保法制などなど、その時々の世相において、何を考え何を感じるのか、そのゆえんはどこにあるのか、常に自問する姿勢がある。
今日においては、性急に結論の正しさだけを求めがちであり、そこのみで議論しがちかもしれない。そのなかにあって、冷静に、自己の考えのよってきたるところを顧みる姿勢は、きわめて貴重であるというべきであろう。
高村薫.『作家的覚書』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b285380.html
小説家としての高村薫の作品の主なものは読んできているつもりでいる。最新作は、『土の記』を読んだ。
やまもも書斎記 2016年12月22日
高村薫『土の記』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285770
また、『晴子情歌』にはじまる一連のシリーズも読んではきている。その高村薫の、おりにふれての時事的な小文を編集したものである。
読んでみて、面白いというよりも、共感するというところのある本である。例えば、次のような箇所。付箋を付けた箇所を引用する。
(東京都知事選の候補者についてふれて)「はて、なかなか尽きるものではない欲望と物理的老いの間で、ひっそりと背筋を伸ばしていられる歳の取り方はないものだろうか。」(p.16)
(安保法制をめぐって)「もっとも、ひたひたときな臭い気配が迫っているとはいえ、私たちの足下には当面差し迫った危機があるわけではない。そんな平和な先進国で思い巡らせる不安など、いざというときに備えた予行演習ですらなく、ひまつぶしの誹りを受けても仕方がないかもしれない。現に、静かな書斎で私がこんな長閑なコラムを書いている最中にも、紛争地域では女性や子どもたちが為すすべもなく銃撃戦や爆撃の犠牲になっているのだ。その厳しい現実を、先進各国も国連も、私をふくめた一般市民も、もはや正面から捉えるすべを失っているように見えるのは私の杞憂だろうか。この私が、自身の無気力の言い訳にしているだけだろうか。」(pp.46-47)
時事問題を論じながら、そのできごとを見る自分自身のあり方について、反省のまなざしをわすれない。これがこのエッセイのいいところだろう。
えてして、神の高みから正義の裁断をくだすような時事評論はいくらでもある。それが、右であれ、左であれ、いずれの立場からであっても。
この本は、どちらかといえば、反体制的な立場からの言説である。だが、それが、単純な体制批判にとどまっていない。なぜ、そのような批判の意見を自分がもつのか、そして、そのような意見をもっている自分にはいったい何ができるのか、自分は、今なにをなしうるのか……この自省の念が、常に文章のうらにはりついている。この自己反省、自己抑制が、このエッセイ集を、きわだったものとしている。
必ずしも、著者(高村薫)と意見を同じくするということはないかもしれないが、その時事問題について語る、著者の姿勢には、強く共感するところがある。
なぜ自分はこのように考えるのか、そして、何ができるのか、何をしているのか、このような視点は、現代においては、貴重なものになっているように思う。仕事の合間に、ふと手にとって読んで、一服の清涼剤を得たような、そして、それだけではなく、いま、こうしてこの本を読んでいる自分のあり方を反省してみるような、そんな時間を与えてくれる。
著者(高村薫)の生まれは、1953年とある。私とさほどちがわない。そのような年にうまれ、そだってきた人間として、戦後の日本のあゆみ、阪神大震災、東日本大震災、安保法制などなど、その時々の世相において、何を考え何を感じるのか、そのゆえんはどこにあるのか、常に自問する姿勢がある。
今日においては、性急に結論の正しさだけを求めがちであり、そこのみで議論しがちかもしれない。そのなかにあって、冷静に、自己の考えのよってきたるところを顧みる姿勢は、きわめて貴重であるというべきであろう。
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