『ARG』349:コーヒーハウス2008-11-17

2008/11/17 當山日出夫

ARGの349号を読んでの感想をすこし。

神戸の、UCC珈琲博物館のことに触れてある。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20081115/1226707994

おそらく、個人的に推測するに、ARGのURL

http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/

のなかで使われている、cofee/house にちなんでのことかなと思う。

イギリスで発祥の「coffee house」は、単なる、珈琲を提供するための飲食店ではなかった。そこに集まる、有象無象のひとたちにとって、相互の情報交換の場であった。そこでは、「新聞」も読まれた。(この話し、岡本さん自身から、聞いたのはいつのことだったか。確か、秋葉原のでのARGの集まりの時であったかと、記憶するが、間違っているかも。)その後、英国は、紅茶の国になるわけである。

しかし、「コーヒーハウス」の理念(というと大げさであるかもしれない)が、大英帝国として発展していくための、基盤(今でいえば、情報のインフラ整備)であった、とは言えるかもしれない。

これから、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズの、再構築と新しい学知の創造を考えるとき、まず。直接、人間が集まって意見を交わすこと、そして、それと並行して、インターネットなどをつかっての、頻繁な意見交換が、必要である。

「槐よりはじめよ」、人とあって話しをしてみよう、ブログなどで、意見を述べてみよう。まちがっていてもかまわない、というより、はじめから完成品の意見などあるわけがない。

文明は多事争論の間にあり……福澤諭吉の言葉である。「多事争論」は、今では、故・筑紫哲也、の残したメッセージかもしれない。自分の意見を断固として言うことと、人の意見に耳をかたむけることは、不可分のことなのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

学術書出版とDTP:伊藤さんにこたえて2008-11-19

2008/11/18 當山日出夫

伊藤さん、コメントどうもありがとうございます。

2008年11月14日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/11/14/3918278#c3951201

HPでの御著書、拝見しましたが、かなりの高額ですね。ただ、本を買うと、全文データのCD-ROMが、手に入る、というのは、魅力的です。このようなことは、著者が、全部の組版データしたからこそ可能、という面もあるでしょう。

http://www.s-ito.jp/gaikojiho/

学術書の場合、紙の本と、データとあれば、両方欲しい、というのが、多くの研究者の考えるところだと思います。相互に、メリットを生かして活用できます。

少部数学術出版、オンラインジャーナル、機関リポジトリ、それに、ブログやHPでの情報発信、そして、図書館、出版社、書店、これらを総合的に考えていかなければと思っています。伊藤さんの例などは、うまく活用なさっていると、感心しました。

なお、出版をめぐる、種々の権利関係は、漢字文献情報処理研究会で、かなり現実的な議論がされています。

http://www.jaet.gr.jp/

現代の潮流のなかにあって、DTP学術書、というのは、必然の方向(すくなくともそのひとつ)であると考えます。

ただ、完全に著者(研究者)が、版下(ノンブルや柱まで)を完全原稿で作成するのか、については、私自身、躊躇するところがあります。個人的には、インデザインも持っているのですが、使いこなせるかどうかと言われると、正直に言って自身はありません。

今回、私、あるいは、私の周辺の人たちで企画している本の場合は、A5の大きさだけはきまっている。それに、上下左右の余白を、指定しておく。その中身は、ある程度、執筆者の自由にまかせる。という方針で考えています。

出版社の方では、それを、インデザインで、左右位置の調整(左右のページで、マージンを変える必要があります)、ノンブルと柱を入れる。それを、最終的に、トンボをつけて出力して、最終版下にする。

完全な著者自身による、版下作成ではありません。しかし、メリットとしては、

第一に、著者が、自分の書いている文章や文字(字体・グリフ)について責任を持てる(文字についての論集ですから、実は、このところが最も大事だと思った次第。)

第二に、いくぶんでも、コスト削減。

ただ、このような方式、完全版下にせよ、印字領域内だけのフォント埋め込みPDFにせよ、組み版とは何であるか、ということについての基礎知識は必要です。

コンピュータ時代になってからの、印刷における「組版」の意識も、大きく変わりました。

たとえば、文字を組む方法 永原康志さん

http://www.morisawa.co.jp/font/techo/mojigumi/index.html

インデザインを使いこなすためのコスト(時間・費用)は、たしかにかかります。それ以前に、普通につかっている、Wordや一太郎で、どこまで可能かを、見極める「目」が必要です。すくなくとも、ワープロの初期設定まかせではなく、現在の印刷事情では、どこまで可能か、それを知っておくことも、これからの研究者の、基礎知識になりつつあるといえるかもしれません。

當山日出夫(とうやまひでお)

人文情報学:英雄か馬鹿か豪傑か2008-11-19

2008/11/19 當山日出夫

朝日新聞は、基本的に見るのは、まず、サンヤツ。今日は、たまたま、そのついでに(?)、その上にある、『天声人語』の方に目がいった。テーマは、今、問題である、大学生の大麻の件(各大学関係者は、次はどうなるかと不安だろう。)

その中で、次のように書いてあった。孫引きの孫引きで、引用する。劇作家、山崎正和さんのことばとして、

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「ファッションというのは、始めるやつは英雄で、最後まで従わないやつは豪傑で、真ん中にいるやつはみんな馬鹿」

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人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズ、これは、現時点では、「流行」と言ってもよい。すくなくとも、「流行のきざし」ぐらいのところではある。

では、今、これらにかかわっている人たち(私をふくめて)は、「英雄」であろうか、それとも、「馬鹿」であろうか。

今、がんばって、とにかく「人文情報学」を確立しようとしている人たちを馬鹿にするつもりは、まったくない。ではあるが、上記引用の山崎正和のことばは、なんとなく気になる、のである。

當山日出夫(とうやまひでお)

来月の予定など2008-11-20

2008/11/20 當山日出夫

今月は、どこにも出ない方針。しかし、来月は、いくつかの用事がある。

12月6日(土) アート・ドキュメンテーション学会(JADS)の研究会 印刷博物館

http://www.jads.org/

12月13(土)14(日) 『人文科学とデータベース』シンポジウム 同志社大学文化情報学部

http://www.cis.doshisha.ac.jp/htsumura/jinbun2008/jinbun2008.html

12月20(土)21(日) じんもんこん2008シンポジウム 筑波大学

http://www.slis.tsukuba.ac.jp/chs08/

このうち、6日のJADSの研究会では発表。

13日の『人文科学とデータベース』は、エントリーのメールを送ったところ。3日が、しめきり。なんとかしよう。

20・21日は、プログラム委員でもあるので、筑波まで。これも、すでに、事前申し込みのうけつけが始まっている。

そのほか、原稿のしめきりなどあれこれと。

當山日出夫(とうやまひでお)

Wikipediaを学生にどう教えるか2008-11-21

2008/11/21 當山日出夫

もろさんのブログで、Wikipediaを、教育にどう利用するかの議論がなされている。Wikipediaについては、すでに、この私のブログでも、すでに、関連本について言及した。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081120/p1

『ウィキペディア革命』(岩波書店)

2008年11月11日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/11/01/3866548

『ウィキペディアで何が起こっているのか』(オーム社)

2008年10月31日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/10/31/3861170

今、私が考えることは、ある項目についての、改訂履歴をリサーチさせること、である。授業の資料などで、今の学生は、平気で、Wikipediaを使う。参考資料としてあげている。

それを一概にダメとも言えないし、また、無制限に許容というわけにもいかない。学生に書かせるのも一案であるが、やはり、なんとなく不安である。

その前に、変更の履歴をたどって、どこからスタートして、何が問題になって、どのように書き換わって、今の画面での情報があるのか、を的確にレポートさせるような段階が、あっていいように思う。

後期の一つの授業の最終レポートの一つは、この方針でいくつもり。課題となる、項目は、「陵墓」を予定している。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:『現代漢字の世界』2008-11-22

2008/11/22 當山日出夫

もろさんのブログでも紹介のあった本。

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081117/p1

『現代漢字の世界』(シリーズ現代日本語の世界3).田島優.朝倉書店.2008

とりあえず、ざっと読んでの感想。

戦後の漢字政策史としては、非常によく書けていると思う。このことについて、あれこもこれも、と言い出したらキリがない。

ただ、実際に、個人として、78JISから使ってきた人間としては、「実感」が伝わらない。客観的に述べるのはよい。たしかに、研究書とは、こうあるべき。ただ、文字コードの問題で、実際にコンピュータや、(今ではなくなってしまった)ワープロ専用機で、どのような問題に直面して、どのように試行錯誤してきたか、その結果、今は、どうであるのか。

このあたりの記述が必要ではないかと思う。常用漢字・人名漢字・JIS漢字、それぞれ、言語政策ではある。だが、言語政策だけで、文字が変わってきたわけではない。それによって決められた文字に対する社会の反応があって、次の政策・JIS規格へと、反映してきた流れがある。

田島さんは、「まえがき」で、9月の4字追加(1字削除)案に言及して、

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(新常用漢字について)新しい漢字表がどのような形でまとまっていくのか、皆さんと一緒に見詰めていきたい。

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と述べている。

文字というのは、「政策としてどう決まるか」という面と、「利用者としてどう使うか/思うか」という面がある。利用者のリアクション、JIS漢字の歴史でいえば、JIS漢字批判の様々、についても言及してあると、良かったのではないか。実際に文字を使う人々の思うところがあってこそ、次の政策や規格に影響を与えていく。この歴史をふまえないでは、未来を語れない。

おそらく、このあたり、今、企画中の(いや、みなさん執筆中の)『論集 文字 新常用漢字表を問う』(仮題)で、解説した論文が掲載になると思っている。

當山日出夫(とうやまひでお)

学術出版とDTP:組み版のレベルおよびデータの保存性2008-11-25

2008/11/25 當山日出夫

伊藤さん、細かなコメント、ありがとうございます。

通常の日本語ワープロでは、空白でも、2分空き、が使える限界でしょう。それから、1行の中に、サイズの異なる文字が並んでしまうと、ベースラインが、強制的に、どこかに偏ってしまいます。

などなど、プロの組み版から見れば、問題点だらけです。しかし、それでも、通常の日本語文であれば、そこそこ読めるものができる。そして、それを、研究者である、著者・読者が納得していて、出版社がOKであるならば、今後の学術書出版に一つの方向性を開くものとして、期待したいと思っています。

そういえば、今は、忘れられてしまっていますが、ジャストシステムは、組み版ソフトとして、『大地』というのを、一時期、つくっていたことがあります。これが、今に継続していて、『一太郎』と連携していたら。あるいは、管理工学研究所がの『松』が、Windows版で、生き延びていたら。

もともと、管理工学研究所が、日本語ワープロ『松』をつくったのは、写植の組み版のプログラムを開発していたから、という背景があったはずです。MS-DOSの時代、『一太郎』(ジャストシステム)よりも、『松』(管理工学研究所)の方が、きれいに、プリントアウトを作成できました。

ところで、書籍のデータの件ですが、まことに、伊藤さんのおっしゃるとおりです。耐久性という視点から見れば、現在では、紙の本が、すぐれています。今の、CD-ROMやDVD-ROMなどが、どれほどの耐久性を持っているのか、こころもとない限りです。

第一に、モノとしての耐久性。第二に、文字コードや画像フォーマットの継続性。

モノとしての耐久性については、コピーを繰り返せば、いや、コピーを繰り返すことによってしか、将来に残せません。

また、文字コードやフォーマットの問題については、私の知る限り、人文情報学や、アーカイブズの世界でも、近年になって、ようやく、議論が始まったばかりです。少なくとも、昨年ぐらいまで、日本アーカイブズ学会などでは、「デジタルは信用できない」という主張がメインでした。ここにきて、急に、方向が変わってきたな、という印象を持っています。

伊藤さんのあつかっておられる外交資料というのは、公的なアーカイブズとも、非常に関連のある研究分野のはずです。

図書館、博物館、美術館、そして、文書館、これらにおいて、デジタルデータとは何であるのか、いまこそ考えるべき時です。来月12月の6日には、アート・ドキュメンテーション学会で、発表です。ここでは、文字のことについて話す予定をしています。デジタルで、今、見ている文字を残すことの問題、あるいは、困難についてです。印刷博物館が会場ですから、あえてこのテーマで発表することにしました。(発表要旨の原稿はすでに書いて送りましたが、パワーポイントをつくるのは、これから。)

ともあれ、来月の、アート・ドキュメンテーション学会(JADS)の発表について、伊藤さんからのコメントは、きわめて示唆にとむ有意義なものです。御礼もうしあげます。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:印刷標準字体との関係2008-11-26

2008/11/26 當山日出夫

さっそく、今日の新聞に出ていた(自分の部屋にもってきて保存)。

新常用漢字の件。印刷標準字体の、簡易慣用字体、もみとめる、という方針のようである。曽・麺・痩。

おがたさんの「もじのなまえ」ですでに報告と、解説がある。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20081125/p1

ここで、すこし気になっている点をあげるとするならば、まず、表外漢字(印刷標準字体)における、簡易慣用字体・許容三部首について、再度、調査と定義をしなおすべきではなかろうか。

ただ、ここにきて、やっと文字コードとの関係が議論となったのは、当たり前というか、やっとというか、遅きにすぎるというか、どう考えるべきだろうか。「国語施策」であっても、「国際標準」は無視できない、この現実をふまえた議論を展開してほしい。

當山日出夫(とうやまひでお)

伊藤さんの論文の紹介2008-11-27

2008/11/27 當山日出夫

伊藤信哉さんが、私のメッセージにコメントを書いてくださっている。そのコメントの中で言及されている、伊藤さんの論文。コメントに閉じ込めておく(?)のは、もったいないので、以下に、紹介のURLを転記しておく。

伊藤信哉

「近代活字史料のデジタル化と文字コード処理」

http://www.s-ito.jp/home/research/other/mojicode.html

「個人レベルにおける史料のデジタル化に関する一試論」

http://www.s-ito.jp/home/research/other/digital.html

分野は異なっても、考えるひとは、しっかりと考えているなあ、というのが、率直な印象。むしろ、人文情報学などに関与している研究者の方が、「文字」だけの議論に終始してしまって、資料(史料)との関係を、深く考えないでいるかもしれない。ここは、反省しないといけない。

ただ、かなり古い時点では、私も同じようなテーマで考えたことがある。かつて、『和漢朗詠集』の漢字索引を、PC-9801で作ったとき。いまから、20年ほどの昔。その時に書いたものを、次回の、同志社での「人文科学とデータベース」シンポジウムで、取り出して再デジタル化してみるつもり。

活字であれ、写本であれ、資料(史料)に即して考えること、この出発点を再確認しておきたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

『図書館・アーカイブズとは何か』2008-11-29

2008/11/29 當山日出夫

『図書館・アーカイブズとは何か』(別冊 環 15).藤原書店.2008

最近における、「アーカイブズ」を考えるうえで、必読の一冊である。巻頭の鼎談が、粕谷一希・菊地光興・長尾真、の方々。それに、高山正也など、現在の日本でアーカイブズにかかわっている、錚々たるメンバーが並んでいる。

中に、ARGの岡本真さんの名前もある。「ARGの10年」と題して、寄稿しておいでである。このなかで、岡本さんは、ARGのあゆみをふりかえっておいでであるが、基本的なこととして、

情報は発信するところに集まる(p.177)

このことを確認することになっている。情報の発信と、そこに集まる情報、その蓄積が、ARGの10年になる。その経緯のなかで、方向性が変わってきたことも記されている。

なかで、特に引用しておきたいのは、次の記述、

>>>>>

10年前、ARG創刊前後の私が感動を覚えたのは、研究者や専門家がインターネットで発信しあう風景である。そして、職業的な研究者でなくても、その輪の中に入れる可能性である。だが、あくまでも固定された知や情報を取り扱うことが、いまの図書館・アーカイブズの視野の範囲ではないだろうか。いや、それですら捌ききれないのが現実だろう。

(中略)

流動・変転する中にあってこそ、(1)専門家の横断と(2)市民と専門家の接続を叶えたいのである。(pp.181-182)

<<<<<

この指摘こそ、今後の、人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)が、取り組まなければならない課題の一つである。

他の文章についても言及したいが、とりあえず、岡本さんの文章について触れてみた次第。

當山日出夫(とうやまひでお)